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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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「知れば知るほど、知らないことが増えてゆく」 / 著者:ちくわ - ch1

あれは小学生時代か中学生時代か、ともかく小説が大好きで小説ばっかり読んでいた時期のことだけれど、図書館に行っていつもの小説の棚に直行しているとき、ふと一抹の不安をおぼえたことがあった。「こんなに図書館は広くて、いろんな棚があって、いろんな分野の本があって、それなのにぼくはそれらに特に興味を感じていないのか、これは残念なことなのじゃあないだろうか、ずっとこのままなのだろうか……」結論から言えば、すべては取り越し苦労だったようだ。今のぼくなら、図書館のどの棚にポイされたとしても、何時間でも居座れる。ごめん嘘、まだ楽しみ方を知らない棚もたくさんある。けれど、あのときに比べれば、びっくりするほど知りたいことが増えている。ここまで知りたいことが増えたのは、知らないことが増えたからで、それは何かを知ったからなのである。ごにょごにょと、そんな話を書いていく。


どこから話せば良いものか、今から二年ほど前、20歳になるかならないかのころ、ぼくは大学生になった。ありていに言って、一年目にしてあれもこれもつまずいた。なし崩し的に拘束時間の長い団体に入ってしまったり、それによって時間の使い方の制御を失ったり、ミスによって奨学金の申請ができなかったり、アルバイトを始めようと思いながらぐだぐだ一年がすぎてしまったり、世間のクズ大学生のご多分に漏れずだんだん授業に行かなくなったり、他人の信頼を裏切るようなことを繰り返したり、うんたらかんたら、それはもう煮崩れしたじゃがいものようにぐちゃぐちゃだった。19歳までの生活がとても充実していたものだっただけに、大学入学後の自分の崩れようは悪循環に次ぐ悪循環を呼び、口を開けば過去の話ばかりなんて状態の時期もあった。

そんな状況で、周りを見渡せばみんな何かに打ち込んでいるというのに、ぼくはどこに軸足を置けばいいのかもわからないままで、どこに軸足を置いても失敗するし、不安定で、何をしたって自分を信じることはとてもできそうになく、ぼくの芯はなんだっけ、自分が一番大事にしなきゃいけないものって何だったのだっけなんてことを、自然に考え始めていた。考えに考えに考えた。


もがいているうちに、少しずつ光が見えてくることもあった。秋頃、大好きな女性に会いに行く予定だった朝、飛行機に乗り遅れるという史上最強のポカをやらかしたぼくは、大荷物を転がしながらとぼとぼと自分の部屋へと戻っていた。その帰りの電車に読んでいたとある本の中に「どんな人でも学んでいる自分は好きでいられるはずなので、「学ぶ」ことによって自分を愛することができます」という一節があり、何かを思い出しかけたのだ。もちろん、それを読む前から漠然と浮かんでいた思いがそれによって固まり始めたというのが正しいのだろうけれど、ともかく、ぼくに必要なのはこれだったんじゃあないかということを少しだけ思い出したのだ。

そこからすっかり意識の高い学生にでもなれば話としては面白いのだけれど、そうも行かず、冬になっても春になっても相変わらずのクズ生活を送りながら、ぼくは自分のやってることを説明できないんだという悩みはさらに膨らんでいくばかりであった。ぼくがその大学を進学先に選んだのは、入学してから専攻を選ぶことができるというその一点によるものだった。いろんなことに興味があるのです、というセリフを免罪符に、当時のぼくはのらりくらりと現在や未来の話を避けていた。しかし、いろんなことに興味があるという言葉は、この歳になればもはや、何にも興味を持っていないという言葉と等価であることにも、うすうす気づき始めていた。


そして去年の今ごろ、女の子たちがだんだんと薄着になっていく初夏のころには、ぼくは自分がどうして大学に通っているのかと疑問に思い始め、それ以外の無数の選択肢について検討した。どれもこれも子どもっぽい、非現実的な妄想のようなif世界ばかりだったけれど、もしかすると人生で初めて未来のことについて考えた年だったかもしれない。当然、再びそしてより切実に、「自分が一番大事にしなきゃいけないものって何だったのだっけ」という問いが現れるようになった。


さて、読んでいる人の9割が「お前だれだよ」などと思っているであろうこの状況で、ここまでぐだぐだと自分語りをしておいて、こんなありふれた結論しか出てこないのかよとぶんなぐられる覚悟で書くけれど、どうやらぼくに必要なのは ― 「新しいことをとにかく知ろうとしてみること」だったのである。あ、いや、ぶんなぐらないで!そう、まぁ、気づいてしまえばアホみたいな結論で、でもぼくはそれを思い出したおかげで、迷走を食い止めることができた……たぶん。秋に読んだあの文もどこかで影響していたのだろうし、いくつか直接的なきっかけもあったけれど、ともかく、自分に大切なのはそういうことだったのだ、という考えが固まり始めた。それにつれて、ぼくは少しずつ「興味があるふりをしてたやつら」について知っていくことにした。言語学とか、歴史とか、哲学とか、ほんのちょっとずつで、世の中の学生に比べれば何もやってないに等しいようなちょこちょことした勉強(笑)だったけれど、どうしてだか、心が軽くなった。

一旦落ち着いて説明すると、こういうことだ。知りたい知りたいと言っていても、実際に動き出さなければ、知らないことすら ― 知りたいことすら ― わからないぼくは多くの分野に関してそういう状態にいたのだなということに気づいた。そりゃあ、自分のことを説明できないはずである。

いつだったか「ストックの教養もいいけれど、案外フローの教養も大切だ」と言った友人がいて、彼の言いたかった文脈とは違えど、まったくその通りだなとじわじわ感じる。何かを知ろうとして、学ぶ姿勢を見せると、それがたった1週間や1ヶ月のことでも、不思議なほど生活が「学ぶ」ということを中心に回り始め、そんな雰囲気が滲み出るものなのである。ともかく、そうかぼくはこれさえできればこんなに楽しく過ごせるんだ、穏やかに勉強ができる環境を整えることに専念しよう、そのためなら多少は犠牲になるものもあっていい、と考えて、具体的に何をやったかは省略するけれど、だんだんと生活を動かし始めた。勉強も同時並行して、少しずつ知っていることが増えた。


少しずつ知っていることが増え、そして ― 少しずつ、知らないことが増えていった。たとえば、世の中にはどんな学問があって、かつて学生だった人々はどうやってそれらの学問に触れていたのか、なんてことを少しずつ具体的に言えるようになった。ぼくの知らない学問分野がそこにはたくさんあった。たとえば、数学のこの分野を理解すると、次にどんな話を組み立てることができるのか、なんてことが少しだけ見えてきた。ぼくの知らない数学ワールドが広がっていた。たとえば、僕が漠然と触れたかったアレ(高校時代に心惹かれていた、国語の教科書や模擬試験の問題などに出される評論文に漂っていたアレ)が「現代思想」とか呼ばれるものだということもようやく知った。少しずつその世界に足を踏み入れていくにつれ、「読んでいない本」が百冊単位で積み上がった(脳内に)。何かを学ぼうとすることで、自分の知らなかったことが何だったのかがわか(るような気にな)り、知る方法も少しだけわか(るような気がす)る、そして少しだけまた進むことができる。そんな行きつ戻りつが、とても心地よかった。

昔に興味があったことを、少しずつ「そんなのあったな」って思い出すようになった。高校生の頃は政治や経済にも興味があったじゃないか、文学だって、物理学だって……と、少しずつ思い出してくる。絵も描きたいし見たいし、芝居も演りたいし観たいし、映画も撮りたいし観たいし、ゲームも作りたいしやりたい、本も書きたいし読みたい、本当はファッションの知識も欲しかったし、本当は音楽的な素養も欲しかった。そんなことを思い出し、新しい世界を覗くたび、知らないことリストがどんどんと長くなってゆく。

本の目次を意識して眺めるようになった。本物の目次も見たけれど、ジュンク堂で本棚の間を歩きながら目に入ってくる本の背表紙も、図書館で埃をかぶっている本たちも、ついったーで誰かによって呟かれているなにやら難しいことも、大学で開講されている講義の一覧も、高校の友人が集まったときに「いまこんなことやってんだよー」と聞かされた近況報告も、ぼくにはすべてが本の目次だった。読めば読むほど、知らない世界へのインデックスが増えてゆく。

昨日、この共同ブログの立ち上げ人でもあるらららぎさんから、「前にバーでサッカー観戦をして、外国の人と友達になったぽよ!今年もギリシャ戦のときはどっかで観戦してギリシャ人と仲良くなるぽよ!」みたいなことを聞いた。なるほど、ぼくはそんな場所があることを初めて知った。もちろん、実際にぼくがそこに行ったわけではないので、こういうのが本の目次の状態というわけである。どんなことが起こるんだろう、どんな人が集っているのだろう、どんな空間なのだろう、そこにいたらどんな言葉を(自分は/そこに居る人は)しゃべるのだろう、こうやって知らないことは膨らんでゆく。こうやってぼくは、今日も元気に過ごしている。


「知れば知るほど、知らないことが増えてゆく」


ぼくの最も大好きな法則、いや、どころか、ぼくはこれのおかげで生きている。一生かかっても知り尽くせないものが世の中にはある、なんて素敵なことなのだろうか。
……初回の記事で人生の柱について吐き出してしまったら、次から書くことなくなるのではって今ごろになって慌てているけれど、もう手遅れだよね。どうしよう。滝汗なう。
そんなわけで、ちくわと申します、よろしくお願いしますね。

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人を呪わば穴二つ ― シャッフルされる主語 / 著者:らららぎ - ch1

ローマ人への手紙12章19節のなかに、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」という命法がある。

高校生の頃は、至極どうでもいい話だと思っていた。パウロの説教を聞くぐらいなら、吉野家で牛丼を食べた方が遥かに有益だ、と。あるいは、元迫害者の説教に耳を傾けるぐらいなら、つゆだくにしようかネギだくにしようか迷ったほうが余程すばらしい、と。それから幾年か過ぎ、そろそろ牛丼に食べ飽きてきたころ、「そういえば、なぜ神の怒りに任せるべきなのか」という神学的な問いが生じたのだったと思う。

たとえば仏教における復讐は「第二の矢」と呼ばれており、負が力を増しながら不必要にストロークすると考えられている。それが「苦」になるからやめた方がよくね?となるのだが、キリスト教の復讐の考え方は少し違う。「自分がもともとどれだけ豊かに許されたかを思い出して相手を祝福しよう、自分を害するやつが裁かれることを求めながら日々を険悪に生きるのはあまり善いとは言えない。そんなことは神(教会)に丸投げして、あなたは自由な心で生きなさい、あなたはそうして良い人なのだ」ということである。

つまり、仏教では「余計な荒波を自分で制して自由になる」のに対して、キリスト教では「険悪な心は神に任せて自由になる」という立場に立つ。彼らは自由になる方法論を異にしているだけで、「復讐、いくないっ!」と教えてくれている。なぜだろうか。なぜ恨むことが苦であり、憎むことが険悪なのか。

人々は「怨みや呪いは、巡り巡って自分に返ってくるから」と教えてくれる。この「返ってくる」というのは比喩である。実際に返ってきているわけではない。では、悪口(愚痴)や呪詛(恨節)が返ってくるとは、何が起こっているのか。脳科学は「人間の古い方の脳は主語を認識できない」と教えてくれる。「You die soon!」と呪ったとき、「die soon」の部分だけが認識され、自分にも適用してしまうのだとか。要するに、誰かの悪口を言った「つもり」になっているだけで、それはほとんど「誰のことを言っているのか分かっていない」(shuffled)のが脳の現状らしい。最初は納得し難い言説だったが、のちに妙に納得した。

もちろん法則というのは演繹的だから、(いつだってそうなる保証はないため)一回一回の適用がギャンブルになるけれど、そういうことが「よくある」と私も思っている。元カレの愚痴や悪口が定番になっている女子会は、この法則でいくと、不幸の会合みたいなものになってしまうのかもしれない。他の女子の悪口にも同調しないといけないから、人数に比例するように不幸が肥大化していく。悲惨だ。

この「人を呪わば穴二つ」ということわざと向きあうことで、私は聖書の言葉を少し理解できるようになった。(それまでは理解しているつもりだった)。そして何より、「自分がこれまで途方も無いくらい豊かに許されてきた」ということに直面できた。この法則と向き合わねば、自分に悪いことをするやつ(電車の中でうるせえやつとか)が裁かれるのを望み、心を自分で蝕んでいたかもしれないと思う。だから、好きなのだ。助けてくれた、助かるのを手伝ってくれた。

鉄は熱いうちに打つべきだとしたら、悪口は早いうちに神に任せてしまえ
(このように、法則の合わせ技なんていかがでしょうか)

ありがとうございました。おわり。らららぎ。

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ないすとぅーみーとぅー / 著者:ねぎとろ - ch1

はじめましてこんばんは。
「ねぎとろかめん」と名乗ってます。
ネット・リアル問わず「おっさん」という愛称が定着しております。

簡単に自分語りでも。

非リアとして彼女持ちを煽ったり、非童貞(爆笑)として童貞を煽ったりと忙しい毎日を送っています。ジョーダン抜きで忙しい状況(サークルで肩書きがついた今年3月からツイート数半減中)なので、参加表明したイマこそ、忘れないうちに書きあげちゃいますね。

殴り書きの覚悟で。

お題に「私のもっとも好きな法則」とあるので、ぼくの好きな法則について!

・「昔聴いた音楽を聴くと、聴いていた頃の状況・感情を思い出す法則

・「コミュ障でもぼっち回避! 自分から何かを差し出すと仲良くなれる法則

さっそくお題ちょこっと無視ですね。2つでも良いでしょう?
英語だと最上級は複数でも可だし!!

まず上の「昔聴いた音楽を聴くと、聴いていた頃の状況・感情を思い出す法則」。

分かりづらいぼくの例でいきますと、

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
浪人してた時、行き帰りの電車で聴いてました。特に夜の帰り、窓から見える国道3号線の街灯のラインが凄く好きで、いつか女性を助手席に乗せてその道を走りたいと何度思ったことか。

ポルノグラフィティ:黄昏ロマンス
小学校の時、好きだった子と徐々に距離を詰めていった思い出がよみがえります。卒業前に、雪の積もる曇天の日、団地の空き家を巡って猫を一緒に愛でたことです。今ではその子が現在の彼氏との日常をFBにアップしてるのを、ぼくは眺めるだけ、というところまでおやくそく。

曲のイメージ・情景を重視するぼくの音楽方向性が大いに影響してそうですが、その時に抱いた感情と、似た雰囲気・展開の曲を好む傾向がありそうです。
暗い気持ちに打ちひしがれた時に、ピアノ好きは思いっきりベートーヴェンやショパンの悲しい曲を弾いて(聴いて)紛らわすように。

次に「コミュ障でもぼっち回避!自分から何か差し出すと仲良くなれる法則

「何か」と言っても、抽象的なものではないです、ただの「物」です。

最近、就活やインターンの情報を探していて、よく目にするのが「アイスブレイク」という言葉。その言葉に連想するイメージ通り、初対面の相手との間にある冷たい緊張・氷を壊し、打ち解けるようにする活動のこと。

この法則は、そんなアイスブレイクの1つでしょう。

これもまたぼくの経験談です。昔の自分語りばかりになって申し訳ないですが、もう少しお付き合いください。

高2の文理分けの後、理系に入ったぼくは女子が1人しか居ないクラスに配属されました。
その女の子、昼休みのたびに隣の女子が多いクラスに弁当を食べに行っているよう。孤立するのも当然でしょう。

ぼくに下心も有り、下心も在り、思いやりも微粒子レベルで在り、とにかく仲良くなりたくて、「一週間フレンズ。」の長谷くんよろしく、話しかけようと葛藤します。でも、長谷くんほどイケメンでもなく、あんな真正面から声をかける度胸もないぼく。

途方に暮れたまま1か月を過ごした末に、名案を思い付きます。

毎朝持って来ていたリンゴをその子に差し出し、「良かったら、これ食べない?」と声をかける作戦。

その結果、話すきっかけを作れたぼくは、その子と仲良くなることに成功しました。
(その子が一番朝早く来るので、2人きりの時間を意図的に作れたのも大きい)

そこから、その女の子はぼくの友達とも仲良くなり、クラスに少し溶け込めたみたいでした。

バカで単純な男子との付き合いはその子にとって面倒かもしれなかったけれど、もしそれが無かったらということを考えれば、みんなにとって、良い影響があった(と信じたい)関係でした。

差し出す物としては、リンゴに限らず、なんでもいいでしょう。
旅先のお土産、賞味期限切れそうだけど食べきれないやつ、自分の好きなお菓子。

普通のものではなく、食べ物なのは、食べちゃうと「残らない」ので、後で思い返して気にすることも少なく、思いやりの気持ちだけがちょうどよく残り、仲良くなりやすいんだと思います。

いつか読書会とか、みんなでしんみり集まる会やる人は、好きなお菓子を持ち寄ってみるのも良いかと!

いじょーです。

またそのうち何か思いついたら、書き溜めしてこうと思います。
他の人たちが書いたやつ読むのも楽しみにしてます!

shinobiは初めてなので、改行が上手くいきません。(空間開きすぎだとぼくも感じてます)
でもどうしようもできないので、このまま投稿します。

さーせん!




【編集者追記】(らららぎ)
ソースコードを見たら「div」タグがてんこ盛りになっていたので、それらをすべて消すことで改行に修正を施しました。

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『私の最も好きな法則』 / 著者:めがね -ch1

知ってる人はこんばんわ。はじめの方は初めまして。

めがねと申します。ざっくりと自己紹介します。ファッションで童貞をやっており、デザイン関係の仕事をやっております。漫画が好きです。愛しています。

スポーツなんかも好きです。バスケットボールが一番好きです。

さて、本題『私の最も好きな法則』という御題をいただいたので、簡潔にさっくりと書いていきたいと思います。よろしくお願い致します。お付き合いください。

『影響を受けたものが人格を形成していく法則』これが私の好きな法則です。

ではわかりやすく私を例にあげてみましょう。先に申した通り、私はバスケットボールが好きです。漫画も好きです。ならば、『スラムダンク』を読んでしまうのは道理と言えましょう。『スラムダンク』はバスケットボール漫画の金字塔と言っても過言ではありません。では他にどんなバスケットボール漫画があるのか、試合を重視するのかはたまた普段の練習風景も取り入れ、日常を切り取ったような作風なのか。

この興味から次の作品を手に取ります。次の作品は内容はそこまで好みではないが、この絵柄はとても好きだ。ではこの絵柄は誰の影響を受けているのだろうか。

このように、好きなものというのはどんどん増えていきます。音楽であったり著名な方の本であったり、映画であったり、絵のタッチ、文字の書き方、尊敬している人の理念。

この影響を受けたものが個性であり、人格を形成する個人足り得るものかもしれませんね。

一つ好きなものが一致しているからといって好きな理由が一致しているとは限らないですし、個人の趣味、趣向が違うところもまた面白いところですね。

初回なのでざっくりと自己紹介もかねて この辺で。

ありがとうございました。

じゃあのwww


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*御題のページ*

chiasma 01:「私の最も好きな法則」(15)
chiasma 02:「私の断念してきたこと」(7)
chiasma 03:「アカウント名の由来と自分について語る」(16)
chiasma 04:「私の好きな帰り道」(6)
chiasma 05:「ひとり暮らしにおいて肝心だと思うこと」(6)
chiasma 06:「なぜ伝言ゲームは言葉を正確に伝えられないのか」(2)
chiasma 07:「思い出の詰まったメンタルブロック」(6)
chiasma 08:「私の深刻がっていること、深刻ぶっていること」(3)
chiasma 09:「誰かからのオススメを、受ける理由/断る理由」(2)
chiasma 10:「私の好きな場所」(3)
chiasma 11:「『教育』を私なりに解きほぐす」(2)
chiasma 12:「『宗教』に関するあなたの考え」(4)
chiasma 13:「宝くじについて思うこと」(4)
chiasma 14:「私の数えてきたもの」(3)
chiasma 15:「きのこたけのこ戦争の理想的な終わり方」(3)
chiasma 16:「夏が来ると思い出すこと」(2)
chiasma 17:「ずっとしたかった言い訳」(1)
chiasma 18:「端について」(5)
chiasma 19:「嫌いなものを褒めちぎる」(1)
chiasma 20:「暮らしの中で工夫していること」(1)
chiasma 21:「好きな言葉について語る」(3)
chiasma 22:「『打破』の仕方」(3)
chiasma 23:「『自分の代わり』について」(4)
chiasma 24:「恩と負い目の大中小」(2)
chiasma 25:「あなたと『紙』について語る」(5)
chiasma 26:「悲劇と喜劇をわけるもの――太宰治という箱の中で」(0)
chiasma 27:「ならば二兎得るためにはどうすればよいか」(1)
chiasma 28:「与えられていない言葉で考える<1>――《地球》」(1)
chiasma 29:「私の上下関係――後発を認めたのはいつのことですか」(2)
chiasma 30:「私の通過儀礼」(1)
chiasma 31:「企画、見せ合いっこ」(0)
chiasma 32:「どうか自己欺瞞を語ってください」(0)


末尾の数字は、寄稿された記事の本数です。たとえば(0)は、まだどなたからも寄稿されていない御題となりますので、リンク先には前口上しか掲載されておりません。


これってキアズマになりませんか?

ブックオフに古本が提供されないと倒産するように、
古着屋に古着が提供されないと店じまいするように、
御題がないと、このブログは死にます。

というわけで、御題は超募集ですよ。

「こんなことについて書いて欲しい!」
「こんなことについて気になっているよ」
「試しにこれについて書いてみて~」などなど、コメントとかくださいませ。(ぺこり)

また、縛りや制約は全くありません。

文章など書いてないでたまには絵を描け、お題はピカチュウな」という御題があれば挑戦したいですし、「空をテーマに掌編を書いてください」という御題があれば皆がんばります!

今日の晩御飯の良かったところを3つ挙げてください」とか、
メンヘラを定義しながら考察してください」とか、
ミニモニって何だったんですか」とか、
レタスとキャベツをどうやって見分けてますか」とか、
仮に教祖になるとしたら、どの宗教の教祖になりたいですか」とか、
あなたの周りの美しい人について教えて下さい」とか、
行ったことない観光地について全力で知ったかぶりして旅行記を書け」とか、

とにかく、どんな御題でも頑張って書きます。
その代わり、うまくいかないときもあるので、その時は勘弁してね…っ!

とにかく書く方の目標は、「どんなものでも書き切ること」に尽きると思います。
うまいとかへたとか、あまり気負わずにやりましょう。
どんな文章でも、自分の言葉で書いたものは貴重ですから、ね!

何か良かったところがあったら、拍手やコメントなど、ぜひに!

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*初心者ライターのための文章講座1 ― 文章を書くときの大事な大事な心得*

「どなたでも、一緒に書きましょう!」と言ったからには、ビギナーのための手ほどきというか、水先案内があってしかるべきだという考えにもとづいて、ここから書き進めて参ります。

『みんなでしんがり思索隊』が掲げている目標は、ふたつ。
・「自分の書きたいことを、自分の言葉で書くこと
・「最後まで書き切ること」(仕上げること)

これはレヴィ・ストロースという学者が目指していたことです。
とてもシンプルですが、とてもハードなんですよ、ね。

書くことに難しさを感じる人もいれば、すぐに仕上げてしまう人もいるもの。
たとえば「とにかく殴り書きしなさい」と言われて、殴り書きできない人がいます。文章を書くという単純な行為が、「やる前から失敗している」のです。試しに私がやってみますね。

やると言ったけれど書くことがない。書くことがないのに書いている自分。なんでこんなことしているのか考えない。書く。いま書いている。まだ見つからない。見つけたところで書く気にならないかもしれない。というよりもむしろ書くことを見つけようとしていないように感じている。面倒くさい。テーマが欲しい。テーマが無いのにすぐ書けるかよ。

殴り書きしました。「あーなんて価値の無い文章を書いているんだ」とか、「こんな不出来な文章、私の書きたかったものじゃない」とか、そういうメンタルブロックを全て無視して、とにかく止まらないことだけを意識して書きました。それが「殴り書き」というものです。

この殴り書きの直後、私はとても落胆しました。"自分が書き上げた文章"に失望さえしました。なぜならば、私は「私の書いた文章=私がアウトプットした言葉」に、いつも、大掛かりな期待を寄せているからです。それなりに素晴らしいものが出てくると信じているのです。だから、あんな"不出来"になってしまったことに対して、落胆を避けることができませんでした。

初心者ライターたち(文章をめったに書かない人たち)が持っている「私はうまく文章が書けない」という悩みの多くは、このような「書く以前のことが原因」(文章テクニック以前の問題)だったりするものです。うまく文章を書くということは、むしろ「何も検閲しないこと」に限ると言ってもいいかもしれない。
・「あのね、うしがいたよ。よかったよ」

・「よう虫はきらいです。なぜかというときもちわるいからきらいです。なんできもちがわるいかというと、ふんをするときのうごきが、きもちわるいからです。わたしは、ちょうちょになっても、とんで、つかまえようとしたら、すぐとんでいってびびるからです。なんで、びびるかというと、うごきがはやいからです。でも、びびらないように、できるようになりたいです。がんばりたいです。」

・「きょうすみとくんとあきらくんであそびました。きょうは、プールであそびました。ぼくはプールのために水てっぽうをかいました。そして十一時二十九ふんぐらいにかえってきて三十ぷんぐらい遊びました。そしてつぎにインドりょうりてんでごはんをたべました。またかえってきて水てっぽうでたたかいをしました。プールがなつかしいです。」

・「ぼくは、アルバムをつくってお父さんや、お母さんにたい切にそだてられたいです。5時間ぐらいそだてられなかったら、生きられなかったとおもいます。」

・「このまえあった「美しい日本語教室」では劇団四季のみなさんが、劇団四季なので四人かと思ったらなんと三人なのでびっくりしました。」
長いのでどれかひとつ読んでいただけたら嬉しいです。小学生が書いたものを、ネットから拾ってきたものです。私も小学生の作文教室を任されていたことがあるので分かりますが、この文章レベルは序の口です。もっと、もっと、「名文だ!」と叫ばずには居られないものがたくさんあります。

たとえば私が担当していたサッカー少年は、推薦入試の模擬試験で以下のような作文を書きました。
ぼくはクリスティアノロナウドがすきです。クリスティアノロナウドはあしがはやくて新かんせんみたいです。ぼくのゆめはクリスティアノロナウドのようにはしっておかあさんとおとうさんをおどろかせることです。だからぼくはクリスティアノロナウドになりたいです。クリスティアノロナウドぐらいあしがはやくなればかんとくやコーチにしかられないとおもいます。
「彼」という人称代名詞では「全く頼りないから」、何度も何度も固有名詞を呼ぶのでしょう。クリスティアノロナウドの強みをしっかり理解しているし、それに大人たちがびっくりしているのも知っていますね。「そういう存在になりたい」という純粋な気持ちを持っているので、プロに向いているかもしれません。突然でてくる監督やコーチに対する本音も超最高です。

小学生がいつからいわゆる「うまい文章」を書くようになるかというと、ちょうど中学生あたりからです。行儀がよくて、親戚一同から「いい子だね~」と言われそうなものばかりになります。彼らは「誰にも何にも邪魔されなければ、自分が確かに言っていたはずのこと」を優先するよりも、「誰にどう評価されるか、これは文章として品を保っているか、大人としての中学生らしいか」といった基準を優先し始めるのです。

いいですか、うまく書く必要なんてありません。誰も採点しなければ、誰も添削しません。評価基準なんてありません。正解には絶対にたどり着けません。

みんなが読みたいのは、ただただ「あなたが誰にも何にも邪魔されなかったら、確かに主張したいと思っていることがら」です。小学生のときに書いた作文がまだあれば、それを持ちだしてみてください。もしかしたら、もう既に行儀のよい文章を書いているかもしれませんが、何かの参考にはなるかと思います。最初はしんどいかもしれませんが、小学生のときに書いたような、「迷惑ながらも楽しい"生の"スケッチ」を書き出してください。

生硬な文章を書いてください。
純粋なままのスケッチを読ませてください。
あなたはあなたのために書いてください、それを私たちは私たちのために読みます。

ひとつだけ約束して欲しいことは、
書き始めたら止めないこと」です。

どんなに失望しても、どんなにメンタルブロックが襲っても、どんなに迷いが生じても、どんなに退屈に感じられても、どんなに野蛮に思われても、どんなに下品に見えても、どんなにテーマから逸れても、どんなに長文になってしまっても、<仕上げ>というタイマーの音が鳴り終わるまで、書くことをやめず、書くことを続けて欲しいのです。

書き終わったあとに、自分で読んでみて、しっかりと「スケッチ」できていたら、それを投稿してください。「書く時間」に余裕がある人は、もう一度書いてもいいと思います。ですが、そのときも同じように「書くことを途中でやめない」ようにしてくださいね。

それが、心得です。
最初は難しいですから、殴り書きの練習をどこかでしてみてください。
殴り書きできる人だけが、生の文章を書くことができますから。

それでは、今回の講座はここで終わります。

ありがとうございました。

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*全部の記事が順番になっているやつ*


2015/10/2の投稿分
・「帰り道の思い出」(あめ子)
どこまでも続く田畑、山際に沈み始めた赤い夕日、心地いい風が吹いていて、秋を感じ少し物悲しくなったその瞬間、「私はこの景色を絶対に忘れないだろう」という予感がしました。

2015/8/10の投稿分
・「夏のはじめに、夏の終わりを思い出す。」(ちくわ)
幾度時をかけようと、何万回夏休みを繰り返そうと、どれだけ世界線を移動しようとも、ぼくらの心に刺さっているのはあの「夏の終わり」だけである。

2015/7/3の投稿分
・「さよなら、もう一人の僕」(エアリーズ)
それは「自分がいなくても自分の代わりなんて幾らでもいる」というような思春期らしい失望感ではありません。「自分と全く同じ身体的、精神的特徴を備えた、今自分と認識している自分とは異なる『自分という他者』はあり得る」のではないか、ということなのです。

・「あの帰り道」(開発室Graph)
帰り道でときどき,この広くて人がたくさんいる東京で,ぼくはひとりなんだ,ということを実感する。すれ違うたくさんの人はぼくとは無関係な他人であって,今日あったことすら,話すことはない。頑張ったり頑張らなかったりした毎日は,だれにも報告することがないまま,終わっていく。

2015/4/22の投稿分
・「海外へ行くこと」(ドーナツ)
メンタルブロックを壊したい人は、私のことを思い出してほしい。

2015/3/22の投稿分
・「現象の端に立つ」(エアリーズ)
火の両端ってどこなんでしょう?

2015/3/17の投稿分
・「あなたはそこにいますか?」(めがね)
だってそこに「痛み」なんかなくて、いたって平和で健全で皆、慈愛に満ちている。僕はそんなの御免こうむる。

2015/3/15の投稿分
・「 7:3の割合なのに”地球”って変じゃね?」(めがね)
”海”と呼ばれる部分では特殊な装備が無ければ呼吸することも出来ない。ずっと”海”にいればいろんな意味でむしろ死ぬ。

2015/3/12の投稿分
・「」(エアリーズ)
俺はこの「エアリーズ」としてキャスフィでアドバイスを受け、根回し・印象操作・時には半ば買収のような政治術を伝授されて幸運にも生徒会長の地位を獲得するに至ったのですが、その後ひょんな事から俺のハンドルネームに関する重大な事実を感知するに至ります。

2015/3/3の投稿分
・「それは根拠を求めたから」(大人たん)
ピアノも習った、習字も習った、剣道も習った、ダンスも習った、英会話も習った、作文も習った、絵画も習った——さてその子は「自分の人生が唯一無二であることを証明するために、どんな根拠で、どの道に進めばよい」のでしょうか。そして、その根拠は、巨額の富を子どもに投資した親(投資家)を満足させるに足りているでしょうか。

2015/2/14の投稿分
・「きらきらをまとう」(草薙菫)
選ばれなかったひとは死にゆくゲームがあったとして、誰か愛するひとをひとり生き残らせられるとしたら誰を選ぶか (相談不可)、という想像をよくしていました。そしてひどく孤独でした。わたしはその想像ではかならず生き残らなかったからです。

2015/2/11の投稿分
・「油そばとかバイオとかモノマネとか」(寝返りレタス)
《いろんな人の存在で私の趣味や嗜好ができてゆく》というのは、私の生を支えてくれている重要な部分です。

・「『打破』の仕方」(西洋中世史たん)
問題にぶつかったとき、それがどんな種類のものであれ、じっくり時間を置いておく、しかもその間その問題については考えない。そんな時間を作るというのも一つの『打破』の仕方だと思うのです。

・「鰯は僕らより遥かに死の端に近い」(めがね)
鰯がいつも《死の端っこ》に居るなんて、人間で考えてる人なんてそう何人もいないだろう。頑張れ鰯。負けるな鰯。そして人間が祝日で浮かれている今日も、集団で生きるという生存戦略を繰り広げているのだろう。

2015/1/9の投稿分
・「水瀬名雪に恋をして」(nayuki)
自分の本名に少しでも因んでいるアカウント名を見ることで、過去自分がおかしてしまった過ち繰り返さないように。そうすることで、今ネットをしている自分はまぎれもなく、リアル世界の僕なんだ、ということをいちいち確認できるように。

2014/12/31の投稿分
・「僕らはみんな中途半『端』な場所に立っている。」(こはく)
例えば、僕は煙草を吸いません。そして煙草が嫌いです。おそらく幼少期に父から受動喫煙していたのが大きな原因でしょう。でも、喫煙所は好きです。

2014/12/28の投稿分
・「打破などないと知りながらも」(らららぎ)
《そんなものがないと知りながらも》という精神性によって、僕たちの個人的な兵力が再編成される。その兵力によって、機動――若山牧水でいうところの旅――を続けることができるようになり、そのうち打破とか解決といったものが生まれる(ように感じる)のだ。

2014/12/27の投稿分
・「考えすぎるということとわたしの救い」(草薙菫)
深くて薄暗い井戸の底から星明かりに向かって必死に手を伸ばしている者が、その場所から引っ張りあげられた時に眼前に広がる、はるかに続く地平線、のような救いを夢見ているのかもしれません。

・「きのこたけのこの境界線、それがぼくだ!」(ちくわ)
自分の言っていることは、本当に自分らしい発言なのか、自分の趣味や美学にそった言葉なのか、どうにも自信がなくなってくるのです。本当は、自分なりの輪郭というものは何かしらあるはずなのに。

・「ヤンキーでもないしDQNでもないし怖い人でもない。」(めがね)
僕が思う『友達』というのは、時間も距離も空間も関係なく、そこに居ればいつでもどこでも本音で語り合える人のことで、一朝一夕、一期一会で獲得できるものではない。膨大な会話の擦り合せと相互の理解によって成り立つものだ。

2014/12/23の投稿分
・「『こんちくしょう、』精神」(てだ)
けれど私は極度の負けず嫌いで、なによりも若いので、いずれ打たれるとしても力のかぎり伸び続ける愚直な杭でありたい。

2014/12/21の投稿分
・「iPhone 6」(蛙教授)
僕にとってiPhone 6というのは紛れも無く、一つの通過儀礼として重要であったし、其れを自分ので購入してしまえば、永遠に解決することのない関係性というのも存在する。


・「端数としての人生」(らららぎ)
僕らのあまりに個人的なことはほとんど全て、小数点以下の切り捨てられがちな《端》にある。終わりがけていて、隠れがけている、陽の当たらないそこにある。

2014/12/19の投稿分
・「恩と言えば先生を思い出す」(ドーナツ)
子どもというのは残酷なものだ。彼らはおそらく「恩を受けている」という意識を持ち合わせていない。かつての私がそうだったように。

2014/12/18の投稿分
・「紙に書く,ということ。」(開発室Graph)
やっぱり紙は「人間の思考スピードに寄り添う」ものであると思うのです。

・「上下関係は逆転する。」(こはく)
僕が考える上下関係とはどちらかがずっと学ぶわけではなく、どちらかがずっと教えるわけではない、常に流動的で瞬間瞬間に入れ替わる、「学びあい、教えあう関係」なのです。 学んでいるとき自分は後輩になり、教えているとき自分は先輩になる、そう僕は思うのです。

2014/12/16の投稿分
・「『三位一体的な。』」(こはく)
『そう、そうだな、俺たちは兄弟だ。
親子で、兄弟で、友達で、いろんな関係だ。
それが俺たちだ。』

2014/12/15の投稿分
・「数百ヘルツの音に貫かれる」(セカペン)
「まあ、良いことならなにより」僕はそんなことを言った。特に深いところを言わないほうがいいだろうと思った。彼女は「うむ」と返答した。

2014/12/14の投稿分
・「画用紙にうつる私」(セカペン)
淡白で、薄情で、空虚で、純粋で、優しくて、味気なくて、正しくて、狂っていて、無茶苦茶で、傷つけることが苦手で、弱くて、何もない。画用紙は色鉛筆から色をとりながら、そんな私を見つけてくる。

2014/12/08の投稿分
・「紙はなんでも欠けている」(ちくわ)
要するに、現実世界で鉛筆を動かすための物理的なルールにぼくは抗えないわけで、なんだか「ぼくが書いている」というより、「ぼくと紙が書いている」と言うほうがしっくりきます。

・「ふまじめ教育論」(てだ)
私がこのバイトを辞める、後の時代には塾産業が少しでも衰退しているようこそこそと活動しているのです。

2014/12/06の投稿分
・「紙の灯りの前のぼく」(らららぎ)
紙は光を反射して、《そこにどれだけの光量があり、私の視覚を支えているか》ということをリアルタイムで教えてくれる

2014/12/05の投稿分
・「紙は、凶器だった。」(こはく)
紙を「面」ではなく、「線」として見たときのお話をしたいと思います。

2014/11/30の投稿分
・「居場所をめぐる長い長い旅」(草薙菫)
「わたしの場所」を感じ続けられるようになるためには、その「自分」を大事にしつつ、「自分」を無くさないように、ゆっくりと信頼関係を築いていくことです。

2014/11/29の投稿分
・「サーキュレーション」(開発室Graph)
もう「恩を直接もらったり直接返したりする」ことはやめた。

2014/11/27の投稿分
・「数を数える時間なんて僕らにはない」(こはく)
僕にとって、数えてきた時間は時間は目的ではなく結果でした。

2014/11/26の投稿分
・「わたしとすみれと空」(草薙菫)
そしてその時のわたしは、今のわたしから見ると、嫌悪すべき他人のようでした。

・「自分の代わりを求めてもよい」(らららぎ)
代わりがいることに絶望するような人間は、代わりがいなくなって単独になったときにだって絶望するといえる。

2014/11/25の投稿分
・「わくわくをつくろう。」(開発室Graph)
その箱を開けたときのこと,それを初めて使ったときのこと,日常的にそれを使うときのことを,ぜんぶ想像します。それが僕にとってものすごく楽しい時間なのです。

・「夢見る頃のこと」(セカペン)
私の好きな帰り道には、常に恋があった。

2014/11/22の投稿分
・「記憶の伝言ゲーム」(セカペン)
――今、話しているその思い出、本当にそのときの心のままなのかい?

2014/11/21の投稿分
・「名のあるセカンドペンギン」(セカンドペンギン)
つまり、「名前」は精神における「身体」なのである。

・「ささやかれた言葉たち」(らららぎ)
あらゆるささやきには、どこか「負の目的」があるといえるだろう――つまり、人に聞かれてはいけない、大声で言うには憚られる、あえて確実に伝えてはいけない、みたいなこと。

・「冬が嫌いだったこと」(ドーナツ)
彼は「何となく冬が好きだ」と言っていたが、その「何となく」の部分を理解した冬だった。

・「打破とは、文字通り何かを打ち破ること。障害をとりのぞくこと。」(九条朔良)
部屋の状態は、あなたの今の状態、生き様、人生そのものを表しているのですから。

2014/11/14の投稿分
・「好きなことを、書きました。」(てだ)
格言はインスタント食品みたいなものです。さっと頭に入って消化は良いですが、摂りすぎると自分で言葉を噛みしめる能力が少しずつ衰えてきます。でも、何だかボーっと意気消沈しているとき、焦って心の拠り所を失っているとき、一瞬であなたにパワーを与えてくれるのはたぶん、知恵のある昔の人たちが加工してくれたこいつらなのです。

2014/09/20の投稿分
・「あの夏の花火は二度ともう見られない。 」(めがね)
私は彼女の事を「3年さん」彼女は私を「3年くん」と呼び合うようになりました。

2014/08/23の投稿分
・「未成年には分からなかった」(公民たん)
三度の飯よりシュークリームが好きです。

2014/08/22の投稿分
・「大人たんは大人になりたかった」(大人たん)
お酒も、麻雀も、株取引も、ファッションも、結婚も、塩辛いものも、社交ダンスも、通勤読書も、畳も、そういうものの「良さ」や「魅力」のようなものが、ずっと分からなかったのです。オトナになったら分かるよ、という常套句ばかりが宙を舞い、私の一端の思春期は、「オトナ」というものを何一つ掴めずに、緩やかな失望と共に終わっていきました。

2014/08/14の投稿分
・「宝物のある場所」(ドーナツ)
大切にしているものは確かにある。本だったり、誰かからもらったものだったり、長年使ってきた品だったり。だが、本当に大切にしているのは、その品そのものではなく、その品にまつわるエピソードやそれを取り巻く人のことではないだろうか。

・「まぁだいじょうぶでしょ」(ドーナツ)
とりあえず衣食住が整っていてともに暮らす人がいればなんとかなるということ。

2014/08/07の投稿分
・「あとからきっとわかるよ」(開発室Graph)
そうやって,色んなものを「つなげて」いくのが「人生」っていう作業なんじゃないかな,と最近は思っています。

2014/07/26の投稿分
・「数え方」(ドーナツ)
数えなくたって生きていけることはこれまで生きてきた中でよくわかっているけれど、いろいろな数え方を知っていれば見える世界が変わってくるかもしれない。

2014/07/21の投稿分
・「呼びやすさを求めていた、ということにしておこう」(公民たん)
「みんなに、きょう起きたことを、きょう知ってもらいたい」

・「3つの嫌いなこと」(蛙教授)
不条理は、合理的な選択を行えない者が、其の主導権を行使することに依って、引き起こされる現象だ。私は、目的達成の為に合理的な判断能力、最適な手段を選択したい。少し考えれば、より最適な選択肢があることに気付くにも関わらず、知能の不足、経験の欠乏、情報収集能力の欠如に依って、事態が悪化するのを好まない。然し、現実にはそういった状況に陥ることは日常茶飯事である。どう対処すればいいか。

・「ユーザー名と拗らせ」(蛙教授)
何者かとして振る舞う、何者かとして期待される。其の何か目指すべき像があり、其の完成や適応に向かって、自分を律し、社会や周囲の人間に適応していく事が、本当に幸福なのか、倫理的なのか。

・「ネコの尻尾の耐えられなくない軽さ」(大人たん)
ネコ二匹、これが我世界である。しかもこの二匹のネコが余には多すぎるのである。

・「端とは何か」(蛙教授)
ヒトが思考空間、学習空間に於いて、何かを認識する境界、終端を表す機能としての「端」は、ヒトの認識に存在する普遍的な機能なのである。

2014/07/20の投稿分
・「快楽としての宗教」(蛙教授)
宗教とは「快楽」である。

・「ケーキはおいしい」(西洋中世史たん)
ケーキがおいしいのでう。

・「西欧のつもりだったのは内緒の話」(西洋中世史たん)
ところで、このアカウント、最初は西ヨーロッパだけを想定していたんですよ。もう気づいてる方も多いかもしれないですけど、さらにそのなかのイギリスフランス独逸を中心に考えていたんですね。でもよくみたら「西洋」中世史になってるじゃないですか。。。。フエェ

2014/07/19の投稿分
・「生は死を召し捕り、死もまた生を召し捕る」(大人たん)
自分は何者かは分からないけれど、少なくともいま私がここにいるのは、誰に、何に、支えられてきたのだろうか

2014/07/17の投稿分
・「『先生』と呼ばれて」(ドーナツ)
私は「先生」と呼ばれる経験を通し、先生になることをやめた。先生という仕事は、私には荷が重すぎると思ったのだ。

2014/07/16の投稿分
・「数を算えるということ」(らららぎ)
そもそも、たぶん、ぼくは貧乏な母子家庭の宿命的に、姉のお下がりばかりだったので、「私の財布」というのがどこからカウントされるのか分からず、すでに「数え始める」のを見逃してきたのかもしれない。数えることを不能にさせられているんだ、財布を大事にできるわけがない、そう言い訳させてほしい。

2014/07/12の投稿分
・「そんなことよりチョコを楽しもう。」(めがね)
きのこの山のチョコとビスケットが分離したカリカリ感も、たけのこの里のクッキーにチョコレートがコーティングされたサクサク感も楽しむことは出来ない。一括管理された一定量のチョコの量、コーティングされる素材は一種類。なんて、ディストピアだ。信じられない。


2014/07/11の投稿分
・「標準語から関東弁へ 」(ゆうちゃん)
標準語を話している人はみな同じ話し方をしているように思いました。その話し方から突き放すような印象を受け、標準語は冷たい言葉だというメンタルブロックが築かれたのです。

2014/07/09の投稿分
・「宝くじは夢を捨てるものである」(こはく)
宝くじで高額当選した人はまさにこの他人からもらったポケモン、しかも通常プレイではありえない、レベル100オーバーの怪物をバトルに使っているようなものです。数ターン後には、自分がそれに踏み潰されることも知らずにね。

・「声に出す、難しさ」(江藤あかり)
小学生の頃に宿題で出た音読、あれはいつも口にしない文語をあえて声に出すことで文に慣れる、伝言ゲームのトレーニングといっても過言ではありません。

2014/07/08の投稿分
・「しちてんばっとう」(西洋中世史たん)
生きるということは、可能性を捨てることだ...と、私は言います。

2014/07/07の投稿分
・「シンプルの裏にひそむ複雑さ」(ドーナツ)
私が好きかどうか、私に必要かどうか。

2014/07/05の投稿分
・「LNGサイダーを飲むと…」(LNGサイダー)
しかし,それは防衛機制と合理化の機能すら停止させる.諦めることを諦めざるを得ない.口に触れた事すら無いのに惹きつけられる.他の飲み物を飲んでも,喉が渇く.湿っているのに精神的には乾いた喉.朦朧として,その名を口にしてしまう.求めるだけでは寄ってすら来ない絶対的な究極の法則のような存在…


2014/07/03の投稿分
・「選ばれる権利を持ちながら」(らららぎ)
そして、宝くじは、「当選」を与えるものである。当選を与えられた人は、これより「当選者」となる。何者にもなれない「一箇の市民」というものが、日頃の行いや風水に従うことによって、つまり「善良な市民」になることによって、「当選者」という存在者になることを願う。それが宝くじの周辺にある「夢」である。

2014/07/02の投稿分
・「クローズドから、オープンへ。」(こはく)
自分の中の心地のよいぬるま湯的な世界に浸っていることが、日々を楽しく過ごすことだと信じていました。僕は僕を愛するあまり僕の人生を置き去りにしていました。

・「なにそれこわい宝くじ」(ちくわ)
ぼくが悩んでいたことはなんだったのか、来週の食費とか綿密に計算しながら生きていたりしたぼくはどうなるんだ、金銭的な理由から見切りをつけようとしていたあれこれはどうすればいいのか、すべて考え直しというか、考えることが馬鹿らしくなる次元に飛ばされてしまいそうである。


2014/07/01の投稿分
・「デモに行けなかった話」(らららぎ)
そして私は、「いま当たり前のこと」さえもできていない。「いま当たり前のこと」さえ欠けている私が、外から冷たい視線を送っている。そんな誕生日前夜のデモとなった。これでいいのだろうか、深く問わざるを得ないと感じている。

2014/06/30の投稿分
・「宗教とは世界中の分業者を信じることである」(らららぎ)
世界中で科学という外部存在が、私のために分業してくれていたのである。科学との関係を作って、科学と接続することによって、私たちは世界の多くを手にすることができていた。科学を「信じていた」し、たぶん今でもかなり「信じている」。

2014/06/29の投稿分
・「there's nothing good, because nothing lasts」(西洋中世史たん)
だからこそ、終わりの終わりを見据えて、イエスの教えを実践するための共同体として、キリスト教文化や教会が生まれる余地が出来上がったのです。ちなみに現代は「終わりの始まり」が始まってから2014年たってしまった、ってところですね。

・「宗教は標識だ。」(こはく)
僕が創価学会で学んだことは、突き詰めるとこれになります。家族を思いやること、もっと言えば、人と人のつながりを大事にすること。これが僕がこの団体から受け取った、最大にして最高のメッセージです。

・「信仰と共同体の分離は可能か」(ドーナツ)
このように、今は大人となってしまった私たちも、信仰の有無にかかわらずなんとなく神様めいたものを幼少期に思い浮かべたことがあるのではないだろうか。神様のような、人間を超越した存在を何となく意識しながら生きること、これが私にとっての信仰である。

・「何もない空間」(めがね)
公園で遊具で遊ぶという選択肢がなくなり大人にとっての公園は『何もない場所』になった事で場所の持つポテンシャルが増えた訳です。ポテンシャルという言葉は直訳すると『潜在性』というそうです。潜在とは、外から見えない状態で存在している様だとの事。現存している空間(外)に何もないからこそなんでも頭の中で自由にその出来上がった様子を想像できるというのが私は楽しくて楽しくてしょうがないなという気持ちに改めて気づかされました。

2014/0628の投稿分
・「ひとり暮らしに関する思考」(黒崎咲夜)
真面目な話をすると、俺が大学2年の夏、ひとり暮らしだった大学の先生が、毎日更新していたSNSが1週間の音信不通の後に帰らぬ人となって発見されました。ひとり暮らしで、しかも亡くなってしまうと自分にも、あなたの周りの人にも消えない傷を残しかねなく、悲惨です。

・「帰り道に関する思考」(黒崎咲夜)
また、「誰かと帰る帰り道」には、誰か他人と帰っている以上、必ず別れが来ることも、なかなか胸を迫る想いがあります。

2014/06/27の投稿分
・「学校という場所」(ドーナツ)
学校という場所は、お金で定義されない関係が成り立つ場所だと思う。 私はこういう関係性を信じていたい。

・「問題意識の行方」(ドーナツ)
「勉強する」「研究する」ということは、まず文献を漁り、ディスカッションをし、気になる点は先生に質問するなどし、場合によっては調査をするということだ。 「深刻」が「問題意識」へと変化し、「研究」に昇華されていく、これは大学生としては最高の生き方ではなかろうか。

・「背伸びしなくてもいいんだ」(こはく)
僕らがすべきことは持っていないものを追い求めるのではなく、既に持っているもの、生まれた時に与えられた自分という素材を、最大限活かしていくことなのです。真珠は核があるから真珠になる。

2014/06/26の投稿分
・「上手に笑えない。」(めがね)
整っていないものというのは脳で処理される時にエラーが起こりやすいので不快感を示す事が多いそうです。私は歯並びがとても悪いので極力口を開けて笑わないようにしています。これは不快感を示されるか否かというのは個人差があると思いますが。コンプレックスは極力仕舞っておきたいのです。

・「そんな昔のことは忘れたね」(ちくわ)
ぼくは、すごく普通の中学生だった。

2014/06/25の投稿分
・「雨が好きな理由」(あめ子)
シャワーを雨に重ねているといえば分かりやすいでしょうか。 纏わりついた土ぼこりや汗を洗い落とす、洗い流す。 自己嫌悪も浅ましい考えも怒りも嫉妬もマイナスな感情を水に流す。 汚れを浮かしたり溶かすには洗剤や石鹸の存在は無視できませんが、雨にはそのような一種の洗浄作用があるように感じてます。 綺麗さっぱり洗ってしまって、ありのままの私でいること。

・「ギャルが苦手」(めがね)
『可愛い女の子紹介してや』と言う高校生にありがちな一言で始まり今後、僕のギャルが苦手というメンタルブロックと女性不信の根幹と言っても過言ではない重要な人物と出会いました。

2014/06/24の投稿分
・「自分とは何か、ドーナツとは何か」(ドーナツ)
大学で『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』とかいう本を作ったので、「ドーナツの本と無選別ドーナツさんは関係あるんですか?」という問い合わせをたくさんいただいたが、まぁあるけどないってかんじだよね。というかんじだ。

2014/06/23の投稿分
・「約束をしよう。」(こはく)
約束が人々を結びつけ、国家を形成しました。ひとり暮らしとはいわば、自分ひとりだけの国を持つということ。その国を守り続けるために必要なものこそ、ほかならぬ秩序なのです。

・「繰り返して繰り返してどうでもよくなる。」(あめ子)
繰り返している行動は、繰り返している期間中、どこをとっても愛していて、例えば本を買わずにえびピラフだけ食べるとか、そういう欠片でも私は満たされます。そして繰り返しが完遂できた時、十分な充足感を得られることができるのです。きっと突然どうでもよくなるのは、おいしいとこばかり食べていて慣れてしまったか、消化しきってしまったからなのでしょう。

2014/06/22の投稿分
・「Life=生活と人生の一致」(ドーナツ)
生活が一人の人間の「横の歴史」であるなら、人生は「縦の歴史」ではないだろうか。緯糸と縦糸が織り合わさって、私やあなたの"life"が作られていく。だから、「縦の歴史」である人生において大変革を強いられるときであっても、自暴自棄にならずに生活していたい。

・「大事なのは、葛藤に気付いて面白がれるかってこと」(らららぎ)
…野菜室の奥でキャベツが腐っていることも、布団にカビが生えることも、トイレに蜘蛛が棲み付くことも、テレビを付けたまま寝てしまうことも、寂しさと苦しさで心が混み合って鬱ぎ込むことも、すべてが「いまここにいる自分にしかできない代えがたい唯一の経験」なのだ。それを愛すること。不幸も幸福も、どちらも自分の人生なんだと思って無条件に愛撫してやること。それが大事なことだろう。

・「自分に関する思考」(黒崎咲夜)
また、初孫かつ女であった俺に対し、「女であっても強くなりなさい」「女であっても学が無くてはならない」と祖母は俺に小さい頃から教えてきました。

・「断念に関する思考」(黒崎咲夜)
だけれども、最終的に譲歩をしたとしても自らが結果に納得している、ということが、「物事を断念した」という意識を消し去っているのやもしれません。さらに、何かを成し遂げる為ならば、自らに出来る全てのことは努力し、こなしてきましたし、何か物事を成し遂げるにふさわしい人間になるよう努めてきました。ここにも、断念したという意識が無い理由があるのかもしれません。

・「因果性に関する思考」(黒崎咲夜)
歴史上の出来事は、様々な原因が1つの結果として生み出されたもの、というのはよくお分かりかと思います。ほんのちょっとの原因であっても、その原因が存在しなければ、導き出される結果も存在し得ないわけです。自分の行い(=原因)によって、相手の行動(=結果)が決まる。よく、「他人は自分の鏡である」という言葉を聞きます。自らの行動によって、相手が返してくれる行動が変わって来るからです。

・「自信を持つこと - how to maintain yourself」(ちくわ)
まずは「じゃあどうしたらいい?」で自分の逃げ道をふさいで頑張って自分と戦いましょう。そしてどうにかこうにか手順を用意できたら、最後には「あとは、手順通りに」と自分を安心させてあげましょう。手順通りにやるのなら、バイト先の掃除と同じですね。終わったあとには「そうか、私は手順通りにやればこれができるのか」になるでしょうし、それが積み重なれば「そうか、私は手順通りにやれば大抵のことができるんだ、そしてひとつ終われば次のことに取り組めるんだ」になるかもしれません

・『めんどくさいが最大の敵』(めがね)
比較的『問題を先送りにするタイプ』な訳です。お恥ずかしい話ですが、私はこれで一つ仕事がなくなりました。業務能力の欠如という烙印を押された訳です。洒落にならなかったです。もの凄く凹みました。一ヶ月間ニートしたくらいには凹みました。悪いことは続くもので困った事が起こりました。

・「調音点で活躍している音の群れ」(らららぎ)
「ら」は外側に発散する。「ら」は明るさを押し広める。「ら」は陽気と歓楽を瞬時に生成し、言語空間の音楽性を整える。「ら」は平和の音声であり、あらゆる制御に解放を唱え、他者を優しくする。「ら」は、五十音のなかで唯一、連続で聞いても苦しくない音素である。

2014/06/21の投稿分
・「断念と私」(浜乃木 千春)
今こうして「私の断念してきたこと」を探すべく今までの人生に視線を巡らせても、そこには「断念」にすら到らなかった経験、その場限りの興味に基づく刹那的な経験しか見当たらない。なんのために生きているのか、その答えに将来への展望を添えたことも一度たりともないのだ。

「ラブやで~」の連鎖(寝返りレタス)
ただ、愛とは少し違います。重みが、すこし、ちがうのです。見た感じの印象からもその重みの違いは明らかですよね。ほとんどそのままの差だと思います。「愛」はなんだかひとつのスペースにぎゅっと詰まって、それに心なしかきらきらしているし、ずしんとした重みがあります。「ラブ」のなんとまあ風通しが良くて、どんくさい文字面だこと!けれど、ラブがすっからかんだという意味ではないのです。ラブは、ぎゅうぎゅうに詰まっている愛にはない隙間がたくさんあって、その隙間ごと、ラブなのです。

『帰り道というショートショート』(めがね)
一人の場合だとこれを気にする必要がないので、楽しくはないかもしれませんがとても楽です。今日は本を読みながら帰ろうだとか好きな音楽を聞きながら帰ろうだとか星を見てすこしゆっくり帰ろうだとかもてる感度をめいいっぱい自分に向ける事ができるからです。自分しか登場しない物語ですが、物語の可能性が無限にあることがメリットかと思いました。

・「死に泥む人間の存在」(大人たん)
私たちがどんなに難しい議論を続けたところで、死は無邪気に背中を突いてくるものです。それはとても面白い。法則的に言えば、「人は必ず死ぬし、人は必ず死ぬことについて小さな議論を引き起こすし、死ぬ確率をゼロにしようとはしない」でしょうか。私はそれを「死に泥む人間の存在」と表現したいのです。「生まれながらにして、死ぬのに充分な年をとっている」。確かにそうなのかもしれません。

『アカウント由来』(めがね)
アドレスなんかも大抵そんな感じで付いています。昔は色々凝ってつけていたのですが変われば変わるものだなぁ。凝った美しさよりも単純な構造なものの美しさに惹かれていくのもそういう意味で大人になったのかぁとか思う今日この頃です。

2014/06/20の投稿分
・「歩いて帰る道」(ドーナツ)
大学に入ってから原付に乗ることが増えた。原付の程よいスピードに乗って帰るのも悪くないが、歩きながら経験することの密度は何物にも代え難い。だから今日も私は、大量の本と疲れと持て余している感情を抱えて、田んぼのあぜ道を歩いて家に帰って来た。

『復讐』(めがね)
私の手によって『復讐』が完遂することは一生ないと思いますが、別の誰かの手によって『こんな人生予定してなかった。』だとか『俺のしたかった生活はこんな結婚生活じゃなかった』だとか、他の誰かの手を借りた『間接的な復讐』によって彼らが死んでいってくれたらいいなと今は思います。

2014/06/19の投稿分
・「のびる、ひろがる。」(こはく)
外部世界から降りかかってくる負荷、圧力、プレッシャー、ストレス。これらを受けとめ適切なエネルギーに変換することで、人は成長する。ダイヤモンドや氷みたく砕け散るのではなく、むしろその応力を利用することで自分の理想とする自分に少しづつ近づいていくことができる。ポジティブな絶望が、人を展延させてゆく。

・「自然体」(水無月 紫苑)
描きたい、でも、描けない。悶々とする日々が続きます。うーん このままではよくない。そういうときは絵を描くということを忘れます。なんにもしません。ただ、だらーんと日々を過ごします。そうすると「無」の時間帯と言うんでしょうか、そういう時間が出来てきます。そういうときになんとなくペンをとって、何気なく、本当に何気なく絵を描いている時があるんです。

・「好きなもの の ひみつ」(ネコ)
その団地は坂の上に立っていて、私のお家は一番端の棟にあったものですから。景色が良かったんです、―――うん、とても。すんでいた町が、すっかり見渡せました。もちろん、鉄塔も。好きだったんです、その部屋の、窓からの眺めが。揺れるレースのカーテンと、吹き込む風。明るい窓辺。そのすべて。それをね、ふっと思い出したとき、私はふかく納得したんです。好きなものはあの部屋にあったんだって。いや、あの部屋にあったから、好きなのかもしれないって。私の好きなものは幼少期に、そしてあの部屋に帰結するんです。もう戻らない、戻れない、帰れない、あの部屋にです。

・「蛋白質から見る世界」(くびなが)
人類のこれまでの歴史を振り返ると、様々な争いがあり、様々な主義・思想、体制が生まれては廃れてきた。様々な変化があった。もしも人間社会に蛋白質の自然状態 (折りたたまれた状態) に相当する谷底があるならば、我々は今谷底へ至る斜面のどのあたりの凹みにはまっているのだろうか。そして、蛋白質の美しい自然状態に相当する人間社会というのはどのようなものなのだろうか、ということに思いを馳せることがあるのだ。

2014/0618の投稿分
・「恩師の教え」(ドーナツ)
この法則は、彼がその破天荒な人生の中で体得してきたものなのだろう。だからこそ、その言葉には真実みがあり、私たちが今後の人生で応用していくことも出来るのだろう。

・「知れば知るほど、知らないことが増えてゆく」(ちくわ)
本の目次を意識して眺めるようになった。本物の目次も見たけれど、ジュンク堂で本棚の間を歩きながら目に入ってくる本の背表紙も、図書館で埃をかぶっている本たちも、ついったーで誰かによって呟かれているなにやら難しいことも、大学で開講されている講義の一覧も、高校の友人が集まったときに「いまこんなことやってんだよー」と聞かされた近況報告も、ぼくにはすべてが本の目次だった。読めば読むほど、知らない世界へのインデックスが増えてゆく。

・「人を呪わば穴二つ - シャッフルされる主語」(らららぎ)
自分を害するやつが裁かれることを求めながら日々を険悪に生きるのはあまり善いとは言えない。

2014/06/17の投稿分
・「ないすとぅーみーとぅー」(ねぎとろ)
毎朝持って来ていたリンゴをその子に差し出し、「良かったら、これ食べない?」と声をかける作戦。その結果、話すきっかけを作れたぼくは、その子と仲良くなることに成功しました。(その子が一番朝早く来るので、2人きりの時間を意図的に作れたのも大きい)。そこから、その女の子はぼくの友達とも仲良くなり、クラスに少し溶け込めたみたいでした。

『私の最も好きな法則』(めがね)
このように、好きなものというのはどんどん増えていきます。音楽であったり著名な方の本であったり、映画であったり、絵のタッチ、文字の書き方、尊敬している人の理念。この影響を受けたものが個性であり、人格を形成する個人足り得るものかもしれませんね。

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