知ってる人はこんばんわ。はじめの方は初めまして。
めがねと申します。ざっくりと自己紹介します。ファッションで童貞をやっており、デザイン関係の仕事をやっております。漫画が好きです。愛しています。
スポーツなんかも好きです。バスケットボールが一番好きです。
さて、本題『私の最も好きな法則』という御題をいただいたので、簡潔にさっくりと書いていきたいと思います。よろしくお願い致します。お付き合いください。
『影響を受けたものが人格を形成していく法則』これが私の好きな法則です。
ではわかりやすく私を例にあげてみましょう。先に申した通り、私はバスケットボールが好きです。漫画も好きです。ならば、『スラムダンク』を読んでしまうのは道理と言えましょう。『スラムダンク』はバスケットボール漫画の金字塔と言っても過言ではありません。では他にどんなバスケットボール漫画があるのか、試合を重視するのかはたまた普段の練習風景も取り入れ、日常を切り取ったような作風なのか。
この興味から次の作品を手に取ります。次の作品は内容はそこまで好みではないが、この絵柄はとても好きだ。ではこの絵柄は誰の影響を受けているのだろうか。
このように、好きなものというのはどんどん増えていきます。音楽であったり著名な方の本であったり、映画であったり、絵のタッチ、文字の書き方、尊敬している人の理念。
この影響を受けたものが個性であり、人格を形成する個人足り得るものかもしれませんね。
一つ好きなものが一致しているからといって好きな理由が一致しているとは限らないですし、個人の趣味、趣向が違うところもまた面白いところですね。
初回なのでざっくりと自己紹介もかねて この辺で。
ありがとうございました。
じゃあのwww
やると言ったけれど書くことがない。書くことがないのに書いている自分。なんでこんなことしているのか考えない。書く。いま書いている。まだ見つからない。見つけたところで書く気にならないかもしれない。というよりもむしろ書くことを見つけようとしていないように感じている。面倒くさい。テーマが欲しい。テーマが無いのにすぐ書けるかよ。
・「あのね、うしがいたよ。よかったよ」長いのでどれかひとつ読んでいただけたら嬉しいです。小学生が書いたものを、ネットから拾ってきたものです。私も小学生の作文教室を任されていたことがあるので分かりますが、この文章レベルは序の口です。もっと、もっと、「名文だ!」と叫ばずには居られないものがたくさんあります。
・「よう虫はきらいです。なぜかというときもちわるいからきらいです。なんできもちがわるいかというと、ふんをするときのうごきが、きもちわるいからです。わたしは、ちょうちょになっても、とんで、つかまえようとしたら、すぐとんでいってびびるからです。なんで、びびるかというと、うごきがはやいからです。でも、びびらないように、できるようになりたいです。がんばりたいです。」
・「きょうすみとくんとあきらくんであそびました。きょうは、プールであそびました。ぼくはプールのために水てっぽうをかいました。そして十一時二十九ふんぐらいにかえってきて三十ぷんぐらい遊びました。そしてつぎにインドりょうりてんでごはんをたべました。またかえってきて水てっぽうでたたかいをしました。プールがなつかしいです。」
・「ぼくは、アルバムをつくってお父さんや、お母さんにたい切にそだてられたいです。5時間ぐらいそだてられなかったら、生きられなかったとおもいます。」
・「このまえあった「美しい日本語教室」では劇団四季のみなさんが、劇団四季なので四人かと思ったらなんと三人なのでびっくりしました。」
ぼくはクリスティアノロナウドがすきです。クリスティアノロナウドはあしがはやくて新かんせんみたいです。ぼくのゆめはクリスティアノロナウドのようにはしっておかあさんとおとうさんをおどろかせることです。だからぼくはクリスティアノロナウドになりたいです。クリスティアノロナウドぐらいあしがはやくなればかんとくやコーチにしかられないとおもいます。「彼」という人称代名詞では「全く頼りないから」、何度も何度も固有名詞を呼ぶのでしょう。クリスティアノロナウドの強みをしっかり理解しているし、それに大人たちがびっくりしているのも知っていますね。「そういう存在になりたい」という純粋な気持ちを持っているので、プロに向いているかもしれません。突然でてくる監督やコーチに対する本音も超最高です。
どこまでも続く田畑、山際に沈み始めた赤い夕日、心地いい風が吹いていて、秋を感じ少し物悲しくなったその瞬間、「私はこの景色を絶対に忘れないだろう」という予感がしました。
幾度時をかけようと、何万回夏休みを繰り返そうと、どれだけ世界線を移動しようとも、ぼくらの心に刺さっているのはあの「夏の終わり」だけである。
それは「自分がいなくても自分の代わりなんて幾らでもいる」というような思春期らしい失望感ではありません。「自分と全く同じ身体的、精神的特徴を備えた、今自分と認識している自分とは異なる『自分という他者』はあり得る」のではないか、ということなのです。
帰り道でときどき,この広くて人がたくさんいる東京で,ぼくはひとりなんだ,ということを実感する。すれ違うたくさんの人はぼくとは無関係な他人であって,今日あったことすら,話すことはない。頑張ったり頑張らなかったりした毎日は,だれにも報告することがないまま,終わっていく。
メンタルブロックを壊したい人は、私のことを思い出してほしい。
火の両端ってどこなんでしょう?
だってそこに「痛み」なんかなくて、いたって平和で健全で皆、慈愛に満ちている。僕はそんなの御免こうむる。
”海”と呼ばれる部分では特殊な装備が無ければ呼吸することも出来ない。ずっと”海”にいればいろんな意味でむしろ死ぬ。
俺はこの「エアリーズ」としてキャスフィでアドバイスを受け、根回し・印象操作・時には半ば買収のような政治術を伝授されて幸運にも生徒会長の地位を獲得するに至ったのですが、その後ひょんな事から俺のハンドルネームに関する重大な事実を感知するに至ります。
ピアノも習った、習字も習った、剣道も習った、ダンスも習った、英会話も習った、作文も習った、絵画も習った——さてその子は「自分の人生が唯一無二であることを証明するために、どんな根拠で、どの道に進めばよい」のでしょうか。そして、その根拠は、巨額の富を子どもに投資した親(投資家)を満足させるに足りているでしょうか。
選ばれなかったひとは死にゆくゲームがあったとして、誰か愛するひとをひとり生き残らせられるとしたら誰を選ぶか (相談不可)、という想像をよくしていました。そしてひどく孤独でした。わたしはその想像ではかならず生き残らなかったからです。
《いろんな人の存在で私の趣味や嗜好ができてゆく》というのは、私の生を支えてくれている重要な部分です。
問題にぶつかったとき、それがどんな種類のものであれ、じっくり時間を置いておく、しかもその間その問題については考えない。そんな時間を作るというのも一つの『打破』の仕方だと思うのです。
鰯がいつも《死の端っこ》に居るなんて、人間で考えてる人なんてそう何人もいないだろう。頑張れ鰯。負けるな鰯。そして人間が祝日で浮かれている今日も、集団で生きるという生存戦略を繰り広げているのだろう。
自分の本名に少しでも因んでいるアカウント名を見ることで、過去自分がおかしてしまった過ち繰り返さないように。そうすることで、今ネットをしている自分はまぎれもなく、リアル世界の僕なんだ、ということをいちいち確認できるように。
例えば、僕は煙草を吸いません。そして煙草が嫌いです。おそらく幼少期に父から受動喫煙していたのが大きな原因でしょう。でも、喫煙所は好きです。
《そんなものがないと知りながらも》という精神性によって、僕たちの個人的な兵力が再編成される。その兵力によって、機動――若山牧水でいうところの旅――を続けることができるようになり、そのうち打破とか解決といったものが生まれる(ように感じる)のだ。
深くて薄暗い井戸の底から星明かりに向かって必死に手を伸ばしている者が、その場所から引っ張りあげられた時に眼前に広がる、はるかに続く地平線、のような救いを夢見ているのかもしれません。
自分の言っていることは、本当に自分らしい発言なのか、自分の趣味や美学にそった言葉なのか、どうにも自信がなくなってくるのです。本当は、自分なりの輪郭というものは何かしらあるはずなのに。
僕が思う『友達』というのは、時間も距離も空間も関係なく、そこに居ればいつでもどこでも本音で語り合える人のことで、一朝一夕、一期一会で獲得できるものではない。膨大な会話の擦り合せと相互の理解によって成り立つものだ。
けれど私は極度の負けず嫌いで、なによりも若いので、いずれ打たれるとしても力のかぎり伸び続ける愚直な杭でありたい。
僕にとってiPhone 6というのは紛れも無く、一つの通過儀礼として重要であったし、其れを自分ので購入してしまえば、永遠に解決することのない関係性というのも存在する。
僕らのあまりに個人的なことはほとんど全て、小数点以下の切り捨てられがちな《端》にある。終わりがけていて、隠れがけている、陽の当たらないそこにある。
子どもというのは残酷なものだ。彼らはおそらく「恩を受けている」という意識を持ち合わせていない。かつての私がそうだったように。
やっぱり紙は「人間の思考スピードに寄り添う」ものであると思うのです。
僕が考える上下関係とはどちらかがずっと学ぶわけではなく、どちらかがずっと教えるわけではない、常に流動的で瞬間瞬間に入れ替わる、「学びあい、教えあう関係」なのです。 学んでいるとき自分は後輩になり、教えているとき自分は先輩になる、そう僕は思うのです。
『そう、そうだな、俺たちは兄弟だ。
親子で、兄弟で、友達で、いろんな関係だ。
それが俺たちだ。』
「まあ、良いことならなにより」僕はそんなことを言った。特に深いところを言わないほうがいいだろうと思った。彼女は「うむ」と返答した。
淡白で、薄情で、空虚で、純粋で、優しくて、味気なくて、正しくて、狂っていて、無茶苦茶で、傷つけることが苦手で、弱くて、何もない。画用紙は色鉛筆から色をとりながら、そんな私を見つけてくる。
要するに、現実世界で鉛筆を動かすための物理的なルールにぼくは抗えないわけで、なんだか「ぼくが書いている」というより、「ぼくと紙が書いている」と言うほうがしっくりきます。
私がこのバイトを辞める、後の時代には塾産業が少しでも衰退しているようこそこそと活動しているのです。
紙は光を反射して、《そこにどれだけの光量があり、私の視覚を支えているか》ということをリアルタイムで教えてくれる
紙を「面」ではなく、「線」として見たときのお話をしたいと思います。
「わたしの場所」を感じ続けられるようになるためには、その「自分」を大事にしつつ、「自分」を無くさないように、ゆっくりと信頼関係を築いていくことです。
もう「恩を直接もらったり直接返したりする」ことはやめた。
僕にとって、数えてきた時間は時間は目的ではなく結果でした。
そしてその時のわたしは、今のわたしから見ると、嫌悪すべき他人のようでした。
代わりがいることに絶望するような人間は、代わりがいなくなって単独になったときにだって絶望するといえる。
その箱を開けたときのこと,それを初めて使ったときのこと,日常的にそれを使うときのことを,ぜんぶ想像します。それが僕にとってものすごく楽しい時間なのです。
私の好きな帰り道には、常に恋があった。
――今、話しているその思い出、本当にそのときの心のままなのかい?
つまり、「名前」は精神における「身体」なのである。
あらゆるささやきには、どこか「負の目的」があるといえるだろう――つまり、人に聞かれてはいけない、大声で言うには憚られる、あえて確実に伝えてはいけない、みたいなこと。
彼は「何となく冬が好きだ」と言っていたが、その「何となく」の部分を理解した冬だった。
部屋の状態は、あなたの今の状態、生き様、人生そのものを表しているのですから。
格言はインスタント食品みたいなものです。さっと頭に入って消化は良いですが、摂りすぎると自分で言葉を噛みしめる能力が少しずつ衰えてきます。でも、何だかボーっと意気消沈しているとき、焦って心の拠り所を失っているとき、一瞬であなたにパワーを与えてくれるのはたぶん、知恵のある昔の人たちが加工してくれたこいつらなのです。
私は彼女の事を「3年さん」彼女は私を「3年くん」と呼び合うようになりました。
三度の飯よりシュークリームが好きです。
お酒も、麻雀も、株取引も、ファッションも、結婚も、塩辛いものも、社交ダンスも、通勤読書も、畳も、そういうものの「良さ」や「魅力」のようなものが、ずっと分からなかったのです。オトナになったら分かるよ、という常套句ばかりが宙を舞い、私の一端の思春期は、「オトナ」というものを何一つ掴めずに、緩やかな失望と共に終わっていきました。
大切にしているものは確かにある。本だったり、誰かからもらったものだったり、長年使ってきた品だったり。だが、本当に大切にしているのは、その品そのものではなく、その品にまつわるエピソードやそれを取り巻く人のことではないだろうか。
とりあえず衣食住が整っていてともに暮らす人がいればなんとかなるということ。
そうやって,色んなものを「つなげて」いくのが「人生」っていう作業なんじゃないかな,と最近は思っています。
数えなくたって生きていけることはこれまで生きてきた中でよくわかっているけれど、いろいろな数え方を知っていれば見える世界が変わってくるかもしれない。
「みんなに、きょう起きたことを、きょう知ってもらいたい」
不条理は、合理的な選択を行えない者が、其の主導権を行使することに依って、引き起こされる現象だ。私は、目的達成の為に合理的な判断能力、最適な手段を選択したい。少し考えれば、より最適な選択肢があることに気付くにも関わらず、知能の不足、経験の欠乏、情報収集能力の欠如に依って、事態が悪化するのを好まない。然し、現実にはそういった状況に陥ることは日常茶飯事である。どう対処すればいいか。
何者かとして振る舞う、何者かとして期待される。其の何か目指すべき像があり、其の完成や適応に向かって、自分を律し、社会や周囲の人間に適応していく事が、本当に幸福なのか、倫理的なのか。
ネコ二匹、これが我世界である。しかもこの二匹のネコが余には多すぎるのである。
ヒトが思考空間、学習空間に於いて、何かを認識する境界、終端を表す機能としての「端」は、ヒトの認識に存在する普遍的な機能なのである。
宗教とは「快楽」である。
ケーキがおいしいのでう。
ところで、このアカウント、最初は西ヨーロッパだけを想定していたんですよ。もう気づいてる方も多いかもしれないですけど、さらにそのなかのイギリスフランス独逸を中心に考えていたんですね。でもよくみたら「西洋」中世史になってるじゃないですか。。。。フエェ
自分は何者かは分からないけれど、少なくともいま私がここにいるのは、誰に、何に、支えられてきたのだろうか
私は「先生」と呼ばれる経験を通し、先生になることをやめた。先生という仕事は、私には荷が重すぎると思ったのだ。
そもそも、たぶん、ぼくは貧乏な母子家庭の宿命的に、姉のお下がりばかりだったので、「私の財布」というのがどこからカウントされるのか分からず、すでに「数え始める」のを見逃してきたのかもしれない。数えることを不能にさせられているんだ、財布を大事にできるわけがない、そう言い訳させてほしい。
きのこの山のチョコとビスケットが分離したカリカリ感も、たけのこの里のクッキーにチョコレートがコーティングされたサクサク感も楽しむことは出来ない。一括管理された一定量のチョコの量、コーティングされる素材は一種類。なんて、ディストピアだ。信じられない。
標準語を話している人はみな同じ話し方をしているように思いました。その話し方から突き放すような印象を受け、標準語は冷たい言葉だというメンタルブロックが築かれたのです。
宝くじで高額当選した人はまさにこの他人からもらったポケモン、しかも通常プレイではありえない、レベル100オーバーの怪物をバトルに使っているようなものです。数ターン後には、自分がそれに踏み潰されることも知らずにね。
小学生の頃に宿題で出た音読、あれはいつも口にしない文語をあえて声に出すことで文に慣れる、伝言ゲームのトレーニングといっても過言ではありません。
生きるということは、可能性を捨てることだ...と、私は言います。
私が好きかどうか、私に必要かどうか。
しかし,それは防衛機制と合理化の機能すら停止させる.諦めることを諦めざるを得ない.口に触れた事すら無いのに惹きつけられる.他の飲み物を飲んでも,喉が渇く.湿っているのに精神的には乾いた喉.朦朧として,その名を口にしてしまう.求めるだけでは寄ってすら来ない絶対的な究極の法則のような存在…
そして、宝くじは、「当選」を与えるものである。当選を与えられた人は、これより「当選者」となる。何者にもなれない「一箇の市民」というものが、日頃の行いや風水に従うことによって、つまり「善良な市民」になることによって、「当選者」という存在者になることを願う。それが宝くじの周辺にある「夢」である。
自分の中の心地のよいぬるま湯的な世界に浸っていることが、日々を楽しく過ごすことだと信じていました。僕は僕を愛するあまり僕の人生を置き去りにしていました。
ぼくが悩んでいたことはなんだったのか、来週の食費とか綿密に計算しながら生きていたりしたぼくはどうなるんだ、金銭的な理由から見切りをつけようとしていたあれこれはどうすればいいのか、すべて考え直しというか、考えることが馬鹿らしくなる次元に飛ばされてしまいそうである。
そして私は、「いま当たり前のこと」さえもできていない。「いま当たり前のこと」さえ欠けている私が、外から冷たい視線を送っている。そんな誕生日前夜のデモとなった。これでいいのだろうか、深く問わざるを得ないと感じている。
世界中で科学という外部存在が、私のために分業してくれていたのである。科学との関係を作って、科学と接続することによって、私たちは世界の多くを手にすることができていた。科学を「信じていた」し、たぶん今でもかなり「信じている」。
だからこそ、終わりの終わりを見据えて、イエスの教えを実践するための共同体として、キリスト教文化や教会が生まれる余地が出来上がったのです。ちなみに現代は「終わりの始まり」が始まってから2014年たってしまった、ってところですね。
僕が創価学会で学んだことは、突き詰めるとこれになります。家族を思いやること、もっと言えば、人と人のつながりを大事にすること。これが僕がこの団体から受け取った、最大にして最高のメッセージです。
このように、今は大人となってしまった私たちも、信仰の有無にかかわらずなんとなく神様めいたものを幼少期に思い浮かべたことがあるのではないだろうか。神様のような、人間を超越した存在を何となく意識しながら生きること、これが私にとっての信仰である。
公園で遊具で遊ぶという選択肢がなくなり大人にとっての公園は『何もない場所』になった事で場所の持つポテンシャルが増えた訳です。ポテンシャルという言葉は直訳すると『潜在性』というそうです。潜在とは、外から見えない状態で存在している様だとの事。現存している空間(外)に何もないからこそなんでも頭の中で自由にその出来上がった様子を想像できるというのが私は楽しくて楽しくてしょうがないなという気持ちに改めて気づかされました。
真面目な話をすると、俺が大学2年の夏、ひとり暮らしだった大学の先生が、毎日更新していたSNSが1週間の音信不通の後に帰らぬ人となって発見されました。ひとり暮らしで、しかも亡くなってしまうと自分にも、あなたの周りの人にも消えない傷を残しかねなく、悲惨です。
また、「誰かと帰る帰り道」には、誰か他人と帰っている以上、必ず別れが来ることも、なかなか胸を迫る想いがあります。
学校という場所は、お金で定義されない関係が成り立つ場所だと思う。 私はこういう関係性を信じていたい。
「勉強する」「研究する」ということは、まず文献を漁り、ディスカッションをし、気になる点は先生に質問するなどし、場合によっては調査をするということだ。 「深刻」が「問題意識」へと変化し、「研究」に昇華されていく、これは大学生としては最高の生き方ではなかろうか。
僕らがすべきことは持っていないものを追い求めるのではなく、既に持っているもの、生まれた時に与えられた自分という素材を、最大限活かしていくことなのです。真珠は核があるから真珠になる。
整っていないものというのは脳で処理される時にエラーが起こりやすいので不快感を示す事が多いそうです。私は歯並びがとても悪いので極力口を開けて笑わないようにしています。これは不快感を示されるか否かというのは個人差があると思いますが。コンプレックスは極力仕舞っておきたいのです。
ぼくは、すごく普通の中学生だった。
シャワーを雨に重ねているといえば分かりやすいでしょうか。 纏わりついた土ぼこりや汗を洗い落とす、洗い流す。 自己嫌悪も浅ましい考えも怒りも嫉妬もマイナスな感情を水に流す。 汚れを浮かしたり溶かすには洗剤や石鹸の存在は無視できませんが、雨にはそのような一種の洗浄作用があるように感じてます。 綺麗さっぱり洗ってしまって、ありのままの私でいること。
『可愛い女の子紹介してや』と言う高校生にありがちな一言で始まり今後、僕のギャルが苦手というメンタルブロックと女性不信の根幹と言っても過言ではない重要な人物と出会いました。
大学で『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』とかいう本を作ったので、「ドーナツの本と無選別ドーナツさんは関係あるんですか?」という問い合わせをたくさんいただいたが、まぁあるけどないってかんじだよね。というかんじだ。
約束が人々を結びつけ、国家を形成しました。ひとり暮らしとはいわば、自分ひとりだけの国を持つということ。その国を守り続けるために必要なものこそ、ほかならぬ秩序なのです。
繰り返している行動は、繰り返している期間中、どこをとっても愛していて、例えば本を買わずにえびピラフだけ食べるとか、そういう欠片でも私は満たされます。そして繰り返しが完遂できた時、十分な充足感を得られることができるのです。きっと突然どうでもよくなるのは、おいしいとこばかり食べていて慣れてしまったか、消化しきってしまったからなのでしょう。
生活が一人の人間の「横の歴史」であるなら、人生は「縦の歴史」ではないだろうか。緯糸と縦糸が織り合わさって、私やあなたの"life"が作られていく。だから、「縦の歴史」である人生において大変革を強いられるときであっても、自暴自棄にならずに生活していたい。
…野菜室の奥でキャベツが腐っていることも、布団にカビが生えることも、トイレに蜘蛛が棲み付くことも、テレビを付けたまま寝てしまうことも、寂しさと苦しさで心が混み合って鬱ぎ込むことも、すべてが「いまここにいる自分にしかできない代えがたい唯一の経験」なのだ。それを愛すること。不幸も幸福も、どちらも自分の人生なんだと思って無条件に愛撫してやること。それが大事なことだろう。
また、初孫かつ女であった俺に対し、「女であっても強くなりなさい」「女であっても学が無くてはならない」と祖母は俺に小さい頃から教えてきました。
だけれども、最終的に譲歩をしたとしても自らが結果に納得している、ということが、「物事を断念した」という意識を消し去っているのやもしれません。さらに、何かを成し遂げる為ならば、自らに出来る全てのことは努力し、こなしてきましたし、何か物事を成し遂げるにふさわしい人間になるよう努めてきました。ここにも、断念したという意識が無い理由があるのかもしれません。
歴史上の出来事は、様々な原因が1つの結果として生み出されたもの、というのはよくお分かりかと思います。ほんのちょっとの原因であっても、その原因が存在しなければ、導き出される結果も存在し得ないわけです。自分の行い(=原因)によって、相手の行動(=結果)が決まる。よく、「他人は自分の鏡である」という言葉を聞きます。自らの行動によって、相手が返してくれる行動が変わって来るからです。
まずは「じゃあどうしたらいい?」で自分の逃げ道をふさいで頑張って自分と戦いましょう。そしてどうにかこうにか手順を用意できたら、最後には「あとは、手順通りに」と自分を安心させてあげましょう。手順通りにやるのなら、バイト先の掃除と同じですね。終わったあとには「そうか、私は手順通りにやればこれができるのか」になるでしょうし、それが積み重なれば「そうか、私は手順通りにやれば大抵のことができるんだ、そしてひとつ終われば次のことに取り組めるんだ」になるかもしれません
比較的『問題を先送りにするタイプ』な訳です。お恥ずかしい話ですが、私はこれで一つ仕事がなくなりました。業務能力の欠如という烙印を押された訳です。洒落にならなかったです。もの凄く凹みました。一ヶ月間ニートしたくらいには凹みました。悪いことは続くもので困った事が起こりました。
「ら」は外側に発散する。「ら」は明るさを押し広める。「ら」は陽気と歓楽を瞬時に生成し、言語空間の音楽性を整える。「ら」は平和の音声であり、あらゆる制御に解放を唱え、他者を優しくする。「ら」は、五十音のなかで唯一、連続で聞いても苦しくない音素である。
今こうして「私の断念してきたこと」を探すべく今までの人生に視線を巡らせても、そこには「断念」にすら到らなかった経験、その場限りの興味に基づく刹那的な経験しか見当たらない。なんのために生きているのか、その答えに将来への展望を添えたことも一度たりともないのだ。
ただ、愛とは少し違います。重みが、すこし、ちがうのです。見た感じの印象からもその重みの違いは明らかですよね。ほとんどそのままの差だと思います。「愛」はなんだかひとつのスペースにぎゅっと詰まって、それに心なしかきらきらしているし、ずしんとした重みがあります。「ラブ」のなんとまあ風通しが良くて、どんくさい文字面だこと!けれど、ラブがすっからかんだという意味ではないのです。ラブは、ぎゅうぎゅうに詰まっている愛にはない隙間がたくさんあって、その隙間ごと、ラブなのです。
一人の場合だとこれを気にする必要がないので、楽しくはないかもしれませんがとても楽です。今日は本を読みながら帰ろうだとか好きな音楽を聞きながら帰ろうだとか星を見てすこしゆっくり帰ろうだとかもてる感度をめいいっぱい自分に向ける事ができるからです。自分しか登場しない物語ですが、物語の可能性が無限にあることがメリットかと思いました。
私たちがどんなに難しい議論を続けたところで、死は無邪気に背中を突いてくるものです。それはとても面白い。法則的に言えば、「人は必ず死ぬし、人は必ず死ぬことについて小さな議論を引き起こすし、死ぬ確率をゼロにしようとはしない」でしょうか。私はそれを「死に泥む人間の存在」と表現したいのです。「生まれながらにして、死ぬのに充分な年をとっている」。確かにそうなのかもしれません。
アドレスなんかも大抵そんな感じで付いています。昔は色々凝ってつけていたのですが変われば変わるものだなぁ。凝った美しさよりも単純な構造なものの美しさに惹かれていくのもそういう意味で大人になったのかぁとか思う今日この頃です。
大学に入ってから原付に乗ることが増えた。原付の程よいスピードに乗って帰るのも悪くないが、歩きながら経験することの密度は何物にも代え難い。だから今日も私は、大量の本と疲れと持て余している感情を抱えて、田んぼのあぜ道を歩いて家に帰って来た。
私の手によって『復讐』が完遂することは一生ないと思いますが、別の誰かの手によって『こんな人生予定してなかった。』だとか『俺のしたかった生活はこんな結婚生活じゃなかった』だとか、他の誰かの手を借りた『間接的な復讐』によって彼らが死んでいってくれたらいいなと今は思います。
外部世界から降りかかってくる負荷、圧力、プレッシャー、ストレス。これらを受けとめ適切なエネルギーに変換することで、人は成長する。ダイヤモンドや氷みたく砕け散るのではなく、むしろその応力を利用することで自分の理想とする自分に少しづつ近づいていくことができる。ポジティブな絶望が、人を展延させてゆく。
描きたい、でも、描けない。悶々とする日々が続きます。うーん このままではよくない。そういうときは絵を描くということを忘れます。なんにもしません。ただ、だらーんと日々を過ごします。そうすると「無」の時間帯と言うんでしょうか、そういう時間が出来てきます。そういうときになんとなくペンをとって、何気なく、本当に何気なく絵を描いている時があるんです。
その団地は坂の上に立っていて、私のお家は一番端の棟にあったものですから。景色が良かったんです、―――うん、とても。すんでいた町が、すっかり見渡せました。もちろん、鉄塔も。好きだったんです、その部屋の、窓からの眺めが。揺れるレースのカーテンと、吹き込む風。明るい窓辺。そのすべて。それをね、ふっと思い出したとき、私はふかく納得したんです。好きなものはあの部屋にあったんだって。いや、あの部屋にあったから、好きなのかもしれないって。私の好きなものは幼少期に、そしてあの部屋に帰結するんです。もう戻らない、戻れない、帰れない、あの部屋にです。
人類のこれまでの歴史を振り返ると、様々な争いがあり、様々な主義・思想、体制が生まれては廃れてきた。様々な変化があった。もしも人間社会に蛋白質の自然状態 (折りたたまれた状態) に相当する谷底があるならば、我々は今谷底へ至る斜面のどのあたりの凹みにはまっているのだろうか。そして、蛋白質の美しい自然状態に相当する人間社会というのはどのようなものなのだろうか、ということに思いを馳せることがあるのだ。
この法則は、彼がその破天荒な人生の中で体得してきたものなのだろう。だからこそ、その言葉には真実みがあり、私たちが今後の人生で応用していくことも出来るのだろう。
本の目次を意識して眺めるようになった。本物の目次も見たけれど、ジュンク堂で本棚の間を歩きながら目に入ってくる本の背表紙も、図書館で埃をかぶっている本たちも、ついったーで誰かによって呟かれているなにやら難しいことも、大学で開講されている講義の一覧も、高校の友人が集まったときに「いまこんなことやってんだよー」と聞かされた近況報告も、ぼくにはすべてが本の目次だった。読めば読むほど、知らない世界へのインデックスが増えてゆく。
自分を害するやつが裁かれることを求めながら日々を険悪に生きるのはあまり善いとは言えない。
毎朝持って来ていたリンゴをその子に差し出し、「良かったら、これ食べない?」と声をかける作戦。その結果、話すきっかけを作れたぼくは、その子と仲良くなることに成功しました。(その子が一番朝早く来るので、2人きりの時間を意図的に作れたのも大きい)。そこから、その女の子はぼくの友達とも仲良くなり、クラスに少し溶け込めたみたいでした。
このように、好きなものというのはどんどん増えていきます。音楽であったり著名な方の本であったり、映画であったり、絵のタッチ、文字の書き方、尊敬している人の理念。この影響を受けたものが個性であり、人格を形成する個人足り得るものかもしれませんね。