ずっと疑問だったことがある。
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宝くじがギャンブルというのなら、破産する人がいないのはなぜだろうか。
他のギャンブルでは、破産した話をよく耳にする。射倖の煽度が違うからだろうか。「今日の損失を取り戻す」ということが、宝くじにあるのだろうか。
その違いのひとつとして、参加の仕方があると思う。
競馬であれば、騎手や馬を選ぶ。(プロは蹄鉄師を選ぶ)。
パチンコであれば、釘を見抜いて台を選ぶ。(かなり運だが)
スロットであれば、目押しという選択技術がある。(かなり運だが)。
公営ギャンブルも、スポーツ賭博も、カジノ系も、基本的に「選ばせれる」のが基本姿勢である。つまり参加者は「
選ぶことで勝つこと」を目指している。
宝くじの発祥は「みずほ銀行(日本勧業銀行)の特殊な債権」だったという。この債権を買っておくと、"還元金"の他に"割増金"という莫大な利子の抽選権利を手に入れることができ、そのシステムから「割増金」の部分だけが切り取られ、現在の「宝くじ」(
債権を買うけど還元金は無く、その代わりに高額な割増金だけが当たるくじ)になったとされている。
なるほど、もともとは「
違うものを買ったらラッキーで付いてくるもの」だったのだ。つまり、宝くじの本質は「
選ばれるために何かを介しているということ」だと、ひとまず言えるだろう。
それが当時は「債権を買う」というものだったが、今では無くなってしまったために、なるほど「日頃の行い」(善行)とか、「見えない権力への忠誠」(風水)とか、何を介するかは自由になっているようである。そして、参加者にとって、
何かを介さねば「選ばれる」ことはなく、宝くじよりも「介するもの(こと)」の方が大事になってくるといえる。
破産しないはずである。
そもそもこれをギャンブルと言うのだろうか。
宝くじは「介すること」を教えてくれる。きっと胴元が自治体ということも影響しているだろう。自治体は、確かにお金がほしいだろうが、それ以上に自治体の存在を知ってもらおうともしているよう感じる。「これは宝くじの収益によって~」という枕詞には、どこか自治体としてのプライドというか、我々は市政であり、我々は市民であるという共同体的な自尊心を感じる。
宝くじは、市政にとって誇らしい代表のようなものなのだ。
そして、
宝くじは、「当選」を与えるものである。当選を与えられた人は、これより「当選者」となる。何者にもなれない「一箇の市民」というものが、日頃の行いや風水に従うことによって、つまり「善良な市民」になることによって、「当選者」という存在者になることを願う。それが宝くじの周辺にある「
夢」である。
宝くじはすぐ買えるが、すぐには結果が分からない。その間に善きカルマを積むことができる。いつもより部屋をきれいにしてみたり、いつもより元気に挨拶してみたり。宝くじを所有しているというのは、「
選ばれる権利を持ちながら生活する」というきわめて尊くて、きわめて貴重な時間を得ることだといえる。
あなたは、「選ばれる権利を持ちながら生活したこと」がどれだけあるだろうか。学校の生徒会選挙期間中か、内定待ちか、プロポーズを宙づりにされているか。基本的には不吉でうしろめたくて自信のない「待機」しかしたことがないのではないだろうか。しかし、宝くじはポジティブである。待機している期間中でさえ、善行を積むことができる。(積んだところで当たらないという退屈な確率主義は勘弁してください)。
確率主義も、科学主義も、「自分の外部にある強い影響力」を信じない。「ツキ」とか、「運勢」とか、そういうものが本当に無いと言えるだろうか。
ギャンブルの本質というのは、そういう「外部の得体の知れないやつの影響を意識すること」である。そうすることによって、人は謙虚さも知る。
「必勝法」などに頼ろうとする確率主義が、どんどんと横暴になっていくだけの話であって、
ギャンブルをギャンブルする人は「運あるいはツキ」の前で謙虚になる。宝くじは、そういう要素が非常に強い。確率的にはふざけているし、自治体に持って行かれる取り分も暴利と呼べる。だけどみんが「宝」と呼んでやまず、それを富の象徴としようと必死になるのは、
「お金」や「確率」では計れない<何か>がそこにあるからではないだろうか。そういう疑問を提示して、終わりにしたい。
ありがとうございました。おわる。
しーゆーれーらー
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