私が経験したこれまでの帰り道を考えてみると、自分の足で帰った経験が一人暮らしをするまでほとんどありませんでした。
保育園、小学校、中学校、高校、その殆どが家族による送迎です。ありえない程山の奥にあった実家に住んでいた私にとって、何処かに行くには誰かの力を借りねばいけなかったのです。私の家までの帰り道には、鹿・猿・猪が出るのは当たり前ですし、当時街灯もなく公共交通機関も側になかったので、必然と送迎になってしまった訳です。
特に小学生の時が厳しくて、学校が終わったら公衆電話から家族に連絡して迎えに来てもらっていました。仲のいい友人たちが一緒に帰っていく中で、一人ぽつんと体育館裏やベンチで本を読んでいて、本の世界に触れていたのです。こうやって書くと文学少女っぽいですが、実際はテニスの王子様を読んでました。
しかし…といいますか、楽しそうに帰っていく友達の姿だけを見つめる日々を過ごし、次の日友人の話題に「昨日の帰り道」が出てくるともうついていけません。案の定、私は誰かと一緒に帰ること、放課後に友人と遊ぶこと、そして歩いて帰ることにとてつもない羨望を抱いたのです。ある時は、祖父母に黙って友達と歩いて帰ったこともありました。同じ方向に帰る友達も少ない上、一緒に帰ることができる時間は僅かなものでしたが、本当に楽しかった。「ただいま!」と帰ってきた時の祖父の驚いた顔は忘れません。またある時は、放課後に友人との遊びに夢中になりすぎて、祖父母に探されたこともありました(お転婆娘だったのです)。そして母にめちゃくちゃ怒られました。中学校に上がるとまた事情が変わってくるのですが、私の小学校6年間は凡そそのようなものでした。
あぁ、思い出に耽ってしまいました。私にとって帰り道といえば、車からの風景だった。そして、ここからが本題。誰かと一緒に帰ることに憧れを抱いた私の「好きな帰り道」は高校時代にあります。
それは当時付き合っていた方と帰ったある日の帰り道です。どのタイミングだったのか忘れてしまいました。なかなか学校で話せなかった私たちは、放課後の時間を共有することでお互いの距離を縮めようとしました。
その放課後の時間の共有の方法といいますのが、一緒に帰るということです。
といっても、高校から彼の家まで自転車で20分の距離に対し、私の家まではその数倍かかる距離でした。幸いにも同じ方角ではあったので、私たちはたまに彼の家の近くまで「歩いて一緒に帰った」のです。その後私がどうやって家まで帰っていたのかは忘れてしまいました。ただ、国道を通ったら知り合いに見られて恥ずかしいため裏道を歩いて帰ったことははっきり覚えています。普通に歩いて行くより倍の時間がかかりましたが、その方がきっと私は嬉しかった。
勉強したり部活動をしたり、毎日を忙しなく過ごしていたあの頃のとある日の出来事です。いつものように彼は自電車を押しながら、私はその横を歩きながら帰っていました。夕日が照らす、9月の終わり頃に彼が「二人乗りする?」と私に聞きました。その頃は二人乗りが違法などとつゆ知らず(当時違法だったか未確認)、二つ返事で了承し荷台に腰掛けました。映画「耳をすませば」の二人乗りシーンを想像していただければわかりやすいかと思います。最初は安定しなかった自電車がゆっくり走り始め、ぼーっと流れる景色を見つめていたのです。どこまでも続く田畑、山際に沈み始めた赤い夕日、心地いい風が吹いていて、秋を感じ少し物悲しくなったその瞬間、「私はこの景色を絶対に忘れないだろう」という予感がしました。予感というよりもう確信です。最初から分かっていたかのように、理由はわからないまま、そこに何の疑いを挟む余地なく確信したのです。
今でもあの時の風景、空間を切り取ってしまったかのようにいつだって思い出すことができます。名探偵カメラちゃんばりの記憶力です。カシャってシャッター音は聞こえませんでした、残念。しかしその時の彼の背中の広さとかそういった物は一切覚えてないのが我ながら清々しいです。
結局、そのあと右折した際に彼はバランスを崩して、私は自電車ごと後ろに倒れてしまったのです。彼はひらりと身を翻し無傷で、私は腰の青じんたんと擦り傷をこさえてしまいました。皆さん、二人乗りは危険です。
私の好きな帰り道…というよりは私の忘れられない帰り道の思い出になってしまいましたが、結構この思い出が好きだったりします。きっと大切な記憶なのでしょう。
ここまでお付き合いくださって本当にありがとうございます。
おわり。
(編集責任:ちくわ)
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