chiasma 14:「私の数えてきたもの」
・「
数を算えるということ」(らららぎ)
・「
生は死を召し捕り、死もまた生を召し捕る」(大人たん)
・「
数を数える時間なんて僕らにはない」(こはく)
*前口上は
皆さんが書く内容を制限するものではありません!皆さんはお題を見て
心に描いた風景をそのまま書いてくださればよいのですよ。ここより下にある文章は、あれです、
ガリガリくんの「あたり」のようなものです。お、なんか書いてある、別になくてもよかったけど、まぁあるなら暇なとき見るか、みたいな感じで、うちわパタパタしながら気楽~に眺めて下さいね(べ、べつに無理して読まなくてもいいんだからね!)
An honest man has hardly need to count more than his ten fingers, or in extreme cases he may add his ten toes, and lump the rest. Simplicity, simplicity, simplicity!
I say, let your affairs be as two or three, and not a hundred or a thousand; instead of a million count half a dozen, and keep your accounts on your thumb nail.
正直に生きている人なら、十本の指で足りなくなるほど数えなければいけないことなんて、めったにありません。どうしても足りない場合でも、あと足の指を使うぐらいで、残りはひとまとめでいいでしょう。シンプルに、シンプルに、シンプルに!
自分のことは、百とか千とかではなくて、二つか三つにしておきなさい。数えるのはヒャクマンなんかではなく六つまでにして、親指の爪にでもメモっておきなさい。
― H. D. Thoreau "Walden"
お待たせしました、新しいきあずまです。
さてさて、これできあずまは何個になったでしょうか?
14? はい、14ですね。
私たちはなにげなーくやっていますが、
数えるということはとても高度な営みです。こう言い換えてもよいですね、
数という概念はとても高度なものです、と。
たとえば、アラビア語の書き言葉には名詞の
双数形というものがあります。英語を少しでも知っている方は単数形や複数形は聞いたことがありますね。単数形は1つのものの形、複数形は複数あるものの形。双数形というのは、
二つあるものにだけ使う形です。
今でこそ少数になってしまいましたが、これは印欧語族にもしばしば見られるものです。スロヴェニア語やリトアニア語にもあるそうですし、ロシア語をかじってる人は数詞にその名残があるといえばピンとくるかもしれません(ロシア語の2って色々ややこしいよね)。古英語には「ic(私)」と「we(私たち)」のほかに「
wit(私たち二人)」という一人称双数がありましたし、サンスクリットにも、古代ギリシャ語にも、古代教会スラヴ語にも、名詞の双数形はありました。時代を遡れば、ヨーロッパでも多くの言語で、この双数形が厳格な形として現われていたのです。
では、どうしてそんなものがあったのでしょうか。わざわざ二つのときに形が変わるなんて一見するととても不便で非効率的ですね(言語に効率を求めてもしょうがないのですけれど)。正確なことは誰にもわかりませんが、「
人が2というものを認識するよりはるか以前から二つの物は存在し、人はそれをそのまま認識していたから」という考え方が有力なようです。
二枚の葉。二個の石。二本の槍。二頭の獣。二人の人間。それを認識することははるか昔から人類にはできていたのでしょう。けれど、
2という概念は独立して存在していなかった……ということです。
考えてみてください、
2ってなんですか。
2なんてもの、あなたは見たことがあるでしょうか。2というのは間違いなく概念上の存在です。私たちが現実に目にするのはあくまでも二本のちくわだったり二個のドーナツだったりだけです。
むかしむかしの人も、一つのものと二つのものが違うことくらいはわかっていましたし、区別する必要も感じていました。そこで一つのものと二つのものを違う呼び名で呼んだのです、だって、違うものだから。それより多いものもまた区別の必要があったので、自然に複数形も現れました。でもそこまでです。羊が7匹か8匹か、そんなことはどうでもよかったのでしょう。違和感として「あれ、さっきいたあの羊がいなくなった」と気づければ十分で、「8匹が7匹になった」という数としての理解はどうしても必要なものではなかったのかもしれませんね。
中学生の頃、私も疑問に思っていました。なんでわざわざ複数のものを分けて複数形で呼ぶんだろう、と。違うのです、言葉を操り始めたころ彼らは(けっきょく単複の区別をしなかった日本語などに比べれば
*1)「個」は意識していたものの、数という概念は手に入れていなかったのです。先にひとつの物があり、ふたつの物があり、たくさんの物があり、それを別の呼び方で呼んでいただけ。
数なんて概念は、あとからやってきたのです。この考え方を知ったときぼくはとても納得がいったものでした。
ちなみに、このあとヨーロッパの人々は数の概念を少しずつ手に入れていきます。数を手に入れてからの道のりも平坦ではありませんでした。基数と序数を同じものとみなすことに気付くのにもとても時間がかかりました(one,twoとまったくちがうfirst,secondという言い方があることを不思議に思ったことのある人も多いでしょう)し、「量」と「個数」を同じ数概念に落とし込むのにも途方もない長い期間を要しました。
閑話休題。このように、
数というものは恐ろしく抽象的なものなのです。本来であれば気付くのも難しかったような、概念上の存在。数という概念を手に入れて、私たちは何でも数に落とし込むことができるようになりました。それどころか、私たちは位取りをする記法によってその「数」の大きさまでも「桁数」という形で抽象化できるようになりました。指数や対数を使うことで「その『桁数』の大きさ」を抽象化することにすら(!)成功してしまいました。そんな世界を生きているのです。
数。
あなたはこれまでどんなものを数えたことがあるでしょうか。
いつも頭の中に置いてあるカウンタ、それは何を数えるものですか。
数えるというのは、抽象化する作業。数というものに丸め込んで、それ以外の違いを消してしまうこと。"
それがそれであること"を全て捨て去り、数だけを残すということです。
「今までn人とつきあった」というとき、一回一回のさまざまな出来事は捨象され、一人ひとりの恋人との関係は同値類に放り込まれ、nという数値の情報だけが前面に出されます。多ければ良いと思っているのか、少なければ良いと思っているのか、10だとキリがよいのか、素数だと誰かが叫びだすのか、それはわかりませんが、ともかく数というものだけにピントを合わせていることは伝わります。それ"だけ"が伝わります。数に表すことが表現として前進なのか後退なのかはともかくとして、初めにあった具体的な何かに比べるとずっとずっと抽象的になっているように思えますね。いえ、きっと、数えることで生まれるものもたくさんあるでしょう。
― 私は何を数えてきたのだろう。
― ずっと数えているものはあるだろうか。
― それを数えるようになったのはいつからだったろう。
― 数えたことで私は何を失って、何を得たのだろうか。
百も二百も数え上げなくていい。
ひとつかふたつ、そんなものを書きだしてみませんか。
*1: 日本語には単数複数という概念がない、と言われる一方で、重要なときにだけ(250以上もの)助数詞を使って数の存在を輪郭ごと強調することができます。
逆に「蛙飛び込む水の音」といったときに、日本人なら一匹の蛙だと分かるのですが(わざわざ数えてないので、そもそも数は重要じゃないとすぐに分かる)、数を数えないと状況を把握できない言語から見ると、区別のない言語となるようです。英語だとなぜか複数の蛙になってますし。
そんなこと言うなら、sisterって姉なのか妹なのかはっきりしろよ、ってなりますけどね。(家族というのが大事なので上下関係は重要じゃない)。言語における区別の問題は、いささか、どの概念を重要視しているかによるし、それに対する予備策が用意されているものです("old" sister、"二棹の"箪笥、こねこちゃん"たち": これは「たち」を付けることによって、こねこちゃん=人間という比喩を説明していて、たとえばこれを「二人のこねこちゃん」にしてしまうと、猫の比喩が台無しになるし、「二匹のこねこちゃん」にすると侮蔑の要素を発見できます。だから、あえて助数詞を使わず「たち」という人間扱いがちょうどよいのですね)。
あと、「ヒーローもの」といったとき、ヒーローが何人か重要ではなく、ヒーローの存在が重要なんだ、重要なとき以外は数えないシステム作る方が高級じゃないか!というご意見もあります。
(御題提供・前口上:ちくわ / 注釈:らららぎ)
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