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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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断念と私 / 著者:浜乃木 千春 - ch2

 私は自分のことをそれなりに興味の範囲の広い人間だと思っている。だがしかし、ここで言う「興味」とはなにかを始めるきっかけとなる程度の小さなそれでしかなく、実際に興味の対象に手を出してみるとそれはすぐに薄れはじめる。続けていくことの面倒さに興味が塗りつぶされてしまうのだ。例えば私は読書を趣味としていて、有名な作家の本が話題に上がっていれば比較的気軽に読んでみることが多い。しかし最初に読んでみた一冊でその作家に対する興味を失うことも多く、結果一冊しか読んだことのない作家ばかりという状態になってしまっている。興味を深めていくことがなかなかできないのだ。
 さて、この記事の主題は「私の断念してきたこと」であった。では先に挙げたような経験、すなわち興味を持った作家の本をとりあえず一冊だけ読み、その一冊だけで満足してしまうという経験は、はたして「断念」と呼べるのだろうか。個人的な感覚としては、どうもそれは「断念」という域に達していないように思える。「断念」とは確たる到達点、大きな目標を意識していてこそ生じるものであって、興味本位でとりあえず手を出してみるというのは、最初から自分の興味が長続きしないことを予期した上での刹那的な行動であり、そこに到達先への展望は存在せず、故に「断念」にすらなっていない、と感じるのである。
 今こうして「私の断念してきたこと」を探すべく今までの人生に視線を巡らせても、そこには「断念」にすら到らなかった経験、その場限りの興味に基づく刹那的な経験しか見当たらない。なんのために生きているのか、その答えに将来への展望を据えたことも一度たりともないのだ。それは方針として刹那主義を採用していたからでもあるとは思うが、それと同時に、大きな目標を据えてそのために長期的に経験を積み重ねていくということが、自分には根本的に向いていないのだと、そのような諦念に甘んじていたからでもあるだろう。そして未だにその諦念、その甘えから抜けだせずにいるのだ。
 「断念」は目標へ到達する決意と表裏一体であり、精神的に向上心のない馬鹿であるところの私の人生にはこの決意がないのだろう。故に「私の断念してきたこと」というのもまた存在しないのだと思う。


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