白【しろ】:純粋さ、無垢、善、透明感、無、狂気。
絵を描くための画用紙はなぜ白いのだろう。
そう考えながらじっとその白を見ていると、だんだんと画用紙の中の何かに見られている気がした。
「君は優しい人だね」
高校一年の美術の時間に、美術の先生が後ろから唐突にそう声をかけた。そのときの授業では「目の前にあるものを自由に描く」という課題が出され、私の目の前には花瓶に活けた花があった。私が選んだ画材は、一番なじみのある色鉛筆だった。
「茎の色に対して、花の色が薄い。ずいぶんと優しく色鉛筆を使うようだね」
先生の目線に合わせて絵を見ると、確かに紙に下書きのように薄く描かれた花がある。私は少し恥ずかしくなり「ありがとうございます」と返した。その後、先生は「じゃあ、ちょっと壊してみようか!」と言って、いくつかの色鉛筆や絵の具を置いて別の人の絵を見に行った。
優しい人だね。――その言葉だけが頭に残った。
いったい、絵だけで私のなにが分かるのか。内心ばかばかしく思いながら、先生の指摘通りに色鉛筆を強く握った。が、その色鉛筆を画用紙に押し当てることができなかった。それどころか、強く色をつけることが、まるでカッターナイフで人を切りつけることのように恐ろしく感じられた。
この出来事以降、私はしばらく絵を描くということから離れた。次に色鉛筆を握るのは、大学三年の春になってしまう。
「絵を描くと、すっきりするの。もやもやしていた気持ちとかそういうものがなくなっていくの」
いつも教室で絵を描いている子がそんなことを言っていた。そこから考えると、”絵を描く”という行為にはカタルシスのような効果があるらしい。もやもやした感情を画材にのせて、紙の上に落とす。紙に感情をなすりつけ、自分と切り離すことで浄化される。その子にとっては、きっとそういうことだったのだろう。
ならば、私はどうなのか。私は色鉛筆に何をのせたのか。答えはおそらく”自分自身”だろう。
画用紙に自分自身を残す。画用紙の上にのった私は、存在感が薄くて、弱々しくて、淡白で、なにもない。その無意識に目をそらしていた自分を在り在りと見せつけられる。私が見たくない私を見つけてきて、反映してくる。
それを否定するように強く色をつけようとしても、上手くいかない。それは「本当の私」ではないから、色をつけることができない。それでも無理をして色をつけるとするならば、その「本当の私」を否定して、壊して、跡形も残らないようにしなければいけない。だけど、無理矢理つけた色の絵も、また「本当の私」として、私を見つめているのだ。
淡白で、薄情で、空虚で、純粋で、優しくて、味気なくて、正しくて、狂っていて、無茶苦茶で、傷つけることが苦手で、弱くて、何もない。
画用紙は色鉛筆から色をとりながら、そんな私を見つけてくる。
私にとっての画用紙は「鏡」だった。それも、外面ではなく内面をうつす鏡だった。どれだけ自分を繕おうとしても、画用紙までその意思が届かない。画用紙には全て見透かされている。
それでも画用紙に向き合う。
私はこの画用紙に「私」を試されている。
(編集・校閲責任:らららぎ)
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