「好きな言葉」と言われると、どうしても「作品の中の言葉」ばかりが頭をよぎる。
今回はそれに屈することなく、自分たちの耳できいて、心に残った言葉を紹介しようと思う。
「世の中にこれだけ本があるのに、自分の名前の本が、自分が書いた本が一冊もないのはおかしい!」
我が母の言葉。
幼い頃からいつもどこかに出かけると言えば、本屋だった。その言葉を初めて聞いたときは漫画にしか興味がなく、「自分の名前の本」がどうやってできるのかを知らなかった。
母は小説を書かない。しかし、パソコンの説明を分かりやす書く、いわゆるライターだった。僕らは母の奏でるタイピング音を聞きながら生きてきた。
小学五年のときに、ふとしたきっかけで小説を書き始めた僕らに、母が「僕が小説家にならなかったのは、恋愛経験なんてものがないからだ」と言った。あの頃は、「そんなものがなくても書けるやい」と思っていたが、今になって思うと、確かに大事なものだった。
本屋の本棚を見ると、その言葉を口にする。その本棚はいつも新潮文庫が置いてあるコーナーだった。三島由紀夫に心酔していた母は、もしかすると小説が書きたかったのかもしれない。
「俺、この一日だけでおまえらのことを一生の友だちみたいに思うわ」
小学六年生の頃、冬に学校で祭があっているときにたまたま会った友人と三人で遊ぶことになった。一人は元々一緒に遊んでいた友人で、もう一人は学校でばったりと会ったクラスメイトの男子だった(以下、H君)。そのとき、僕と友人はウイスキーボンボンを買って、学校の友人たちに半ば無理矢理食べさせて「うわーなんだこれ!」ってなるのを眺めて遊んでいた。
その後、その三人で家の近所で色々と話していた。学校の友だちのこと、先生のこと、誰が誰のことを好きだとか、誰が誰のことを嫌いだとか、そんな些細なことだ。
「もうすぐ転校するんだ」
夕暮れになって、H君が言った。その頃の僕らにとって、「転校」と「今生の別」は一緒のようなものだった。
「どこにいくの?」と僕の友人がきいた。
「わかんね。親のことだし。母ちゃんがどこに行くかだな」と、H君。
当時の僕らは、母さんがどこに行くかということの意味の重さを知らなかった。
門限が近い。上記の僕を貫いた言葉は、そんなことを思い始めたときに、H君が言った言葉だ。H君はその後、近くにあった比較的整った石を手に取って「俺はこれを持って帰って、今日のことを思い出す」と言った。
彼は今でもどこかであの石を持っているのだろうか。
「誰かが私を好きだと言っているのか。なら、私はまだ生きていてよいのだな?」
高校時代に、友だちと他愛もない恋バナをしていた。そのときに、「○○が君のこと好きなんだって」ということをその友だちに言ったときに、友だちが言った言葉だった。
僕の知る限り、その女の子は変わっていた。勉強ができて、歌が上手くて、繊細な子だった。ブルーバックスを愛読書とし、小説はあまり読まない。そして、僕のことを「妖怪さん」と呼ぶ。僕が当時知っているその子については、このくらいだった。
「私はまだ生きていてよいのだな?」
その言葉をきいて、僕は彼女について知った気になっていた自分に気づいた。それどころか、僕は彼女について何一つ知らなかったのだ。平坦な口調だった。平坦だったからこそ、その子にとっては普通のことなのだということが分かった。
「まあ、良いことならなにより」
僕はそんなことを言った。特に深いところを言わないほうがいいだろうと思った。彼女は「うむ」と返答した。
「しかし、私のいったい何が好きというのか。物好き過ぎるだろう」
そういうことは、本人には決して分からないのだろう。僕が彼女にできることは何もない。僕にできることは、どうか幸せにと願う事だった。
「男と女が話しているシーンに豚を書く必要はない」
文芸部の恩師の言葉。車に乗って県大会の会場に向かっているとき、二人で延々と小説を書くことについて語っているときに先生が発した、熱のこもった言葉だ。
その当時、先生は迫り来るラノベの嵐に困惑していた。先生が言うには、僕が入る前の文芸部では、ラノベの短編を書いてくるものが多かったそうだ。
「そのライトノベルというやつもな、完成していればいいんだが、不完全なんだ。あたかも、『続きがあります!』と言わんばかりの作品でな。登場人物の設定も何もかも丸投げで意味がわからん! 俺は読んでいてあれほど辛いものはなかったぞ!」
そんな文句を言っていた。
「短編、しかもショート・ショートとなりますと、難しいですからね」
見知らぬ先輩のことを考え、僕はそんなことを言った。
「どうでもいいことをつらつら書き、本編というものに何の関係のないものばかりだ。まったく、何が本当に書きたいものなのか分からない。第一な、男と女が話しているシーンに豚を書く必要はない。だが、なぜか豚を書きたがるんだよ。これは俺には理解ができん!」
握ったハンドルを殴らんばかりの勢いで、先生が言った。「そういう時代なんですよね、今は」と言いながらも、僕は内心愉快な気持ちだった。僕はそういう作品を読めない人間であり、先生の気持ちのだいたいが理解できたからだ。
「おまえはそういうの見て面白いと思うか?」ときかれ、僕は「全然。ものにもよりますが」と答えた。
「だが、これも時代なんだよなぁ」
先生は寂しそうに言った。きっと先生は昔も今と変わらない純文学青年だったのだろう。現代の小説をふりかえり、これから先生はもっとこうした気持ちを抱くのかもしれないと感じた。
純文学の書き方は廃れてしまうのかもしれない。そうした恐怖が僕の中にもいまだ燻っている。読まれない作品ほど、悲しいものはないのだから。
その後、先生と語った結果、先生からは「おまえは産まれてくる時代を間違えているな」と言われた。僕もそう思います。
(編集・校閲責任:らららぎ)
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