Twitterで一度つぶやいたが、曲がりなりにも専門分野が教育にかすっている学生として、「教育」を語ることなど畏れ多くて出来ない。
だから、私が「先生」と呼ばれていた時のことを振り返ってみる。
教育について私が語れることは、そのくらいしかない。
教職の実習や塾講師のバイトを通して「先生」と呼ばれる機会をいただいた。
私は「先生」と呼ばれる経験を通し、先生になることをやめた。
先生という仕事は、私には荷が重すぎると思ったのだ。
実習も塾講師も、中学生と高校生ばかりを相手にしていた。
彼らが「先生」をどのような人間として位置づけているのかさっぱりわからない。
せいぜい19歳、20歳の私は若いし気さくに話しかけやすい方ではなかっただろうか(とはいえ、老け顔なので塾ではそこそこ年上の先生だと思われていたようだが……)。
思い出深いエピソードはたくさんある。
そのエピソードはいずれも良い思い出ばかりだ。
生徒が成長していく姿を横で見ていられるのは幸せなことだった。
もちろん、腹が立ったこともあるし悲しい思いもやりきれない思いもたくさんしてきたが、どういうわけかあまり思い出せない。
だが、あまり思い出せないマイナスな気持ちが積もり積もって、教師になどなれないと私に思わせたはずだ。
それは決して忘れてはならない。
子どももいろんなタイプの子どもがいる。
リア充っぽい子もいれば、大人しい子やオタクになりそうな子、ただの体育会系や部活一筋の子もいる。
どんな子であれ、私は先生として個人個人と接するだけだ。いずれにしても私の性格と合わない子がいるのはおかしいことではない。
あくまでも先生として、大人として接するのみだ。人間関係の築き方がその点で特殊である。
しかし、子どもたちを見ていると、コンプレックスの塊だった生徒時代を追体験するようであまり良い気分ではなかった。
先生と生徒という関係だから、感情が出やすい面もあるのだろうか。
「いい子」という評判だった生徒と話していたときに、急に「あんまり部活に行ってない、やめるかもしれない」と言われたことがあった。
そんなタイプの生徒ではなかったので、正直なところ面食らってしまったが、友達にも親にも言えないことを言える先生がいてもおかしくないのかもしれない。
私自身もそうだったし。
高校生くらいになると、先生を上手に利用してくる。
「友達や先輩後輩間では解決できないけど、親には言うのは面倒な問題」を相談する相手として先生が選ばれるらしい。
その最たるものが進路で、進路の相談は散々聞いた。
一番エネルギッシュだし、多少は人間としてのわきまえもあるし、接しやすい子どもではある。
「先生」と呼ばれるときに、決して弱みを見せないように、私は「先生」の仮面をかぶっていた。
そうすることしかできなかったのだが、これがいいことなのか悪いことなのかはわからない。
「先生」の仮面をかぶることで、私は模範的な大人として生徒に接することを心がけようとしていた。
しかし、その仮面の脱ぎ着がうまくできず、ストレスを溜めて結局は塾講師のバイトをやめるという結果に至った。
そこで知ったのは、教師の適性は教師としての仕事ができるかどうかではなく、教師として振る舞えるかどうかであるということである。
私は、教師として振る舞うことは出来ても、心の健康を保ったまま教師であることは出来ないらしい。
だから、私のことを先生と呼ぶのはやめてほしい。
でも、「先生、すきー!」と言ってくれた子どもがいたことを、私は決して忘れない。
先生として彼らと接した日々のことは、大事な思い出として残しておくつもりだ。
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