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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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3つの嫌いなこと / 著者:蛙教授 - ch19

私には嫌いなものが3つ在る。退屈、未調理のトマト、そして、自分より出来の悪い人間に主導権を握られること、だ。本当は気が進まないし、試みたことも無いのだが、いい機会だから、考えてみたいと思う。嫌いなものを褒める文章を。

私は刺激と新規の知見が好きだ。だから、退屈を嫌う。主観に於いて、新しいと感じられるものを得ていないと、精神状態が悪化するし幸福度が下がる。然し、世の中には退屈、俗にいう、平和な生活が好きな人間も存在している。其の人々の気持ちになって、私の嫌いなものである退屈を褒めてみたい。

「退屈が何故素晴らしいのか。其れは此の世が平和であるからだ。退屈である事に依って、自分の生命や自分の大切な人、物、事象が脅かされていないと確信する。大切なものが失われる。脅威に晒される。そういった物を良しとして、刺激を求める人間の気が知れない。彼らは愉快犯である。彼らは侵略する。退屈を好むことは、其の周囲の人間を不安定の中に突き落とす性質である。倫理に依ってではなく、幼稚な己の快楽の為に、他人を巻き込み、又、自らも辛苦の道へと邁進する。此れは蛮勇であり、狂気である。確かに、人類の長い歴史の中でrisk-takingな性格が、人類の大きな進歩を導いた時代もあっただろう。然し、今は21世紀で、此処は日本である。退屈を希求する精神は、平和と安定を好み、余計な事をしない高い倫理観を持つのだ」

次は、未調理のトマトを褒めようか。此れに関して言えば、純粋に私の味覚嗅覚の問題であり、全世界の人間が皆、生トマトを食べるべきではない、ということを主張するつもりはない。従って、此処では単なる主観的な好みの異なる人間を仮構し、褒めてみたいと思う。

「トマトは赤い。其れが料理に彩りを加える。目を閉じて欲しい。そして、トマトの無いサラダ、トマトの無いハンバーガー、トマトの無いピザ、トマトの無いタコライスを思い浮かべて欲しい。さぁどうだろうか。どんな色彩の世界が、読者諸君の瞼の裏に浮かんだであろうか。トマトの鮮やかな赤が欲しくなってきてはいないだろうか。そうだ、此れこそがトマトの存在意義である。料理というものは、味覚聴覚を愉しませれば、其れで良いというものではない。視覚的にも、十二分に愉しめなければならないものである。其の意味で彩りは非常に重要だ。トマトは其れを与える。更に、トマトが与えるのは彩りだけではない。高い栄養素、安価で供給される生産性の高さ、様々な環境で生育する逞しさ、小学生でも対応可能な育成に関する専門知識の少なさ。どれをとってもトマトは素晴らしく、此れからも導入されるべきものである。私の味覚、聴覚、視覚を楽しませる為にも」

最後に、「自分よりも出来の悪い人間に主導権を握られること」について、其の逆を褒めてみたいと思う。其の前に、此の状況が嫌いになった背景と、現実で直面する此の状況への、私個人の対応策を述べる。

私は不条理が嫌いだ。合理的でない理由、合理的でない采配に依って、十分なリソースがあるのも関わらず、目的が達成されないという事がある。不条理は、合理的な選択を行えない者が、其の主導権を行使することに依って、引き起こされる現象だ。私は、目的達成の為に合理的な判断能力、最適な手段を選択したい。少し考えれば、より最適な選択肢があることに気付くにも関わらず、知能の不足、経験の欠乏、情報収集能力の欠如に依って、事態が悪化するのを好まない。然し、現実にはそういった状況に陥ることは日常茶飯事である。どう対処すればいいか。

自分の思考空間の中に、現状採用されている手段よりも最適なものがあるのにも関わらず、其れを選択出来ない事に、強い苛立ちを感じる。ならば、自分が最適な手段を持たない環境に飛び込めば、其の苛立ちを解消できる。自分の不得手なこと、自分にとって未体験な分野に飛び込んで行けば、周囲の人間は、大体に於いて、自分よりも優秀であり、多くの事を学ぶことが出来る。苛立ちも少ない。私は、今までにこういった場所に来たことがない、こういった表象をしたことがない。そういう機会に対して、アンテナを張っては実際に経験することにしている。此れが「自分よりも出来の悪い人間に主導権を握られること」に対する嫌悪感を解消する手段だ。何も、力技で主導権を握り返すことだけが、合理的な選択ではない。では、此のスタンスに対して反論する事で、嫌いなものを褒めてみたいと思う。

「自分よりも出来の悪い人間に主導権を握られることが嫌いな人間がいるそうだが、自分はそう明言する事自体に抵抗がある。自分よりも出来の悪い人間、という視点で他人と接している時点で、他者をステータス、或いは、道具として見做している。自分にはないもの、自分よりも優秀な人間から学びたいと言えば聞こえは良いが、其の態度は他者を自分の目的の為に利用する行為である。常に自分の不得手な分野に手を出すということは、其の周囲の人間に対して益になるよう振る舞うのではなく、自分の個人的な好奇心を満たすため、個人的な苛立ちを解消するために、他者を利用している。其の人が学習している間の、コミュニティ全体の生産性は落ち、学習が一定水準に達したら、コミュニティを去るというのは、学習のフリーライドであり、他者に対して貢献しようという気のない人間の考えである。主導権という物の見方にも違和感を感じる。人間は常に誰かの支配下に置かれている訳ではない。人間は自ら主体的に選択し、主体的に生きているのである。其れに対して、主導権という幻想を導入し、自らの責任の所在を有耶無耶にするのは、倫理的にどうであろうか。以上を、自分よりも出来の悪い人間に主導権を握られることに対する反対意見とする。私が此処で褒めたいのは、其の逆、自らの能力を活かして社会に貢献し、主導権という言葉で自分の意志と責任を有耶無耶にしない態度である」

如何だろうか。私は3つの嫌いな事について、褒めてみた。最後の一つに関しては、何やら詭弁めいた文章であると感じる人も多くおられるのではないか。此の論理展開はおかしい、此の議論は成り立たないというのがあれば、Twitterでも、此のブログでも、メッセージやコメントを飛ばして欲しい。忌憚ない批判を募集する。


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