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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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ユーザー名と拗らせ / 著者:蛙教授 - ch3

アカウントの由来について語ろうと思う。最初、インターネット上でハンドルネーム、スクリーンネーム、ユーザー名というものを初めて使ったのは、2011年にTwitterを始めた時である。当時、何者でも無い自分、何者にもなりたくない自分は、何かいい言葉を探していた。当時は何者かとして振る舞う、何者かであるという事其れ自体に強い反発を覚えていた。其処で付けたのが『虚数』というユーザー名である。Twitter IDも虚数にちなんで、imaginary_numberにしたかったが、既に取得されていた。其処で、imaginary set of number(虚数集合)の最初の二単語を取って、imaginarysetというユーザー名を取得した。今となっては「想像上の集合」という意味となって、より透明感のある名だと気に入っている。

当時に、私は何に対して、反発心を持っていたのであろうか。当時読んでいたサルトルの言葉を引きつつ説明したい。サルトルの言葉に「実存は本質に先立つ」というものがある。人間には最初に決まった本質があり、其れが現実世界に於いて現れ出ているのではなく、<今此処>に於いて自由意志と選択権を持った存在である人間は、常に自分で選択し続け、自分を作り続けるものだ、という思想を端的に表したものである。何者かとして振る舞う、何者かとして期待される。其の何か目指すべき像があり、其の完成や適応に向かって、自分を律し、社会や周囲の人間に適応していく事が、本当に幸福なのか、倫理的なのか。そんな青臭い事について考えていた。サルトルは即自存在、対自存在、という概念も導入していた。即自存在とは、Aであり且つA以外ではあらぬところのもの。対自存在とは、Aであり且つAであらぬところのもの。具体例を出して説明したい。

簡単のに、即自存在は「物」、対自存在は「人」として説明する。Aである事以外の選択肢を持たない「物」である即自存在は、自らの意志に於いて、自分が何であるかを選択する事が出来ない。一方、自由意志を持つ存在である対自存在の「人」は、其の瞬間瞬間に自ら選び、自己を獲得していく事が出来る。サルトルは、其の事実に目を背け、自分はこう振る舞わなければならない、と考える個人の規範や社会からの圧力を、自己欺瞞、人間疎外として批判した。然し、本当に我々は選択する事が可能なのだろうか。

此の世界は物理法則に依って支配されており、我々が自由意志であると思っているものは幻想だ。そう言われた時に、どう反論すれば良いだろうか。広く認められた世界観の一つである自然科学の世界観をどう転覆させれば良いだろうか。サルトルはフッサール哲学に準拠する事で、其れを可能にした。フッサール哲学は<今此処>を特権化することで、真理に到達しようと試みた。フッサールの現象学は、其の最初のモチーフを実現する事は出来なかったが、様々な分野に応用されていった。文学、思想、哲学、看護学、社会学、等々。其の中で、特に大きな成果を見せたのがサルトル等の実存主義文学、実存主義思想である。規範、機械論、決定論と言ったもので説明され尽くす、或いは、自分の意志を奪われてしまうという恐怖、不安、反発を代弁する実存主義は、フッサールの視点を応用することで、大きな華を開かせた。自分の論を打ち立てる時に自然科学の知見を援用しないこと、<今此処>を特権化し既存の物語に収束させないこと。其の2つに依って、サルトルは自由意志について思索を深めていったのだ。

我々は、過去、現在、未来が実在していると思っている。然し、其れは本当だろうか。現象学の視点は過去と未来の実存に疑義を唱える。過去は記憶の中にしかない。過去は現在の表象に対する説明として呼び出される情報である。認識の枠組みとして過去が存在しているだけである。そして、過去の囚われて選択する事にサルトルは警鐘を鳴らす。「過去にこんな事があったから、自分はこう振る舞わなければならない。自分は何々をしなければならない」というのは、自己欺瞞であるとサルトルは言う。「今、此の瞬間にも人は選択をしているし、其の選択権は常に貴方に与えられているものだ」とも。対自存在である「人」が即自存在として振る舞う事が自己欺瞞であるのは、人間の尊厳である自由意志を自ら放棄しているからである。

さて、本稿は自分語りを目的として作成している。少し、自分語りの要素を増やそうと思う。何故、私は2011年にこんな事を考えていたのだろうか。其れは当時浪人生であった私は、何か特定の学問を「学ぶ」為に、何者かに「なる」為に、大学を目指し、進学するという風潮に嫌気が差していたからだ。興味というものは、常に移り変わる。にも関わらず、大学入学時に自分が何になりたいか、何になりたいかを決められ、其の枠組みの中で進学し、卒業し、就職し、経済力を得る事が求められる。人生設計を迫られる。私が反発心は、在学中に勉強したいことが変わった場合に他の授業を受けられないということではなく、特定の職業の社会人になるのが普通であるという風潮に対してであった。最初になりたい者があり、努力して其れになろうとする。成程、社会からすれば、合理的で有用性の高い人材を生産することが優先されるだろう。然し、私は、最初に疑問や面白いものが眼前に存在し、其れの解消と更なる刺激と情報を求めて行動する者である。学位を取ること、社会的地位が保証されること、社会に貢献すること、其れは確かに素晴らしいことであるが、第一義にすべきではない。私は、ただ、目の前の面白い事を追いかけつつ、其の面白いと思うものの規則性を発見し、更に其れをフィードバックして人生設計を立てたかったのだ。大学のカリキュラムや学問分野の一覧を渡されて、君がなりたいのは何か、などどと詰問される言われは無いのである。


さて、3年前の私の葛藤の代弁を措いて、アカウント名の話に戻ろう。より多くの人に覚えてもらいたいという理由から「動物の名前+役職」というユーザー名にしようと考えた。最初に候補に上がったのが、蛇、梟、蛙で最も身近で親しみやすい蛙にした。「世界を変える」の「変える」を捩りたかったという中二病的な発想もあったと思う。次に、インテリっぽい役職を付けたいと考え、真っ先に博士と教授が浮かんだ。然し、博士も教授も他の人と被りそうという理由で、准教授と付けることにした。修士と付けようかとも考えたが、教授、准教授、博士の中で、特にネームバリューがなく、年齢的にも修士課程に籍を置く院生に間違われる恐れがあったために、准教授に落ち着いた。蛙准教授の誕生である。

其後、ピュグレム、虚無、真理など、時々、ユーザー名を変えてはいたが、imaginarysetという名前だけは変えずに来た。imaginarysetがweb name(web上の本名)で他の名前は、web sub name(覚えて貰いやすくする為のニックネーム)という設定である。形骸化している感じは否めない。現在は、「准」がとれて、「蛙教授」というユーザー名にしている。何年も「蛙准教授」として振る舞ってきたが、蛙教授、蛙博士という名の人物は終ぞ聞かなかったからだ。名前上は昇進である。此の数年間は、昇進に値する成長を伴っているだろうか。

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