私たちの過去の経験というものは、手を付けないかぎり「曖昧な印象」(つまり自然のままの粗雑な印象)をしていて、自分の中に残っているだけである。しかしながら、個人的な歴史や記憶の厚みのなかで今までずっと不分明のままだった「私秘的な経験」というものは、物語というひとつの形を手に入れることによって、他人に「差出したり」、時空を越えて「伝達したり」、言語ネットワークのなかで「蓄積したり」することができるようになる。昔の人たちは、それをする必要があったからこそ、物語を大切にしてきたのだろう。
たとえば、しっかりと語られている小説や映画などを観賞し、その「物語」に感情移入することさえできれば、作者(作家)の体験を「追体験」することができるといえる。つまり、説明されたものは追体験できないが、物語られたものは自分の体験に還元することができるのだ。
それは、「過去を語るとき」と「過去を説明するとき」の意識の違いにあるかもしれない。説明というのは実用的で事務的で科学的だけれど、語りというのは非実用的で直感的で主観的だろう。しかし、語りは「非実用=虚」の部分を豊かに表現しようとする。その虚の部分 ― 人間的で豊かな隙(fantasy) ― に、人は感情移入することができるのである。
その語りの練習台となるのが、今回の「アカウント名の由来と自分を語る」である。
しかし、由来の話をするとき、私たちはなぜか説明口調になってしまう。そのヒントを探すべく漢典に訊ねてみると、「由來:事情发生的原因」(事実が事実として起こるその理由)と出てきた。事実を<事実>として取り扱おうとするとき、まるでゴシップがジャーナリズムを名乗って報道するかのような、(あたかも)説明的で科学的で合理的な言い草になるのかもしれない。
「物語を語る」という言葉は、「象る」から生まれたという。「象る」ということは、自分というフィルターを通じて世界を解釈することである。それは「知覚したことを事務的にぱっぱと表現すること」ではなく、「知覚したことを自分なりの目的に随って私的に再構成すること」といえる。聞いただけで難しそうで、とてもクリエイティブなことなのだ。そこには「公式の発音やイントネーションを覚えて、分かりやすい決まり文句を多様しながら話す」では済まされない人間的な力学がある。
いまでは「実用的な情報のみが継承されるべきだ」と考えられており、「大切に"語り聞かせ"られてきた昔話」というものも、子どもたちの世界の片隅で「育児事務的に"読み聞かせ"られるもの」に成り果ててしまった。アナウンス学校の真似をしたような朗読勉強会が主婦たちの「自分磨き」に吸収されてしまい、「NHKのように正確無比=機械的に読むこと」という実用面だけがみなに目指され、「下手でもいいから子どものために力を尽くして"語る"」という大事なことは見逃されてしまっている。それが現状といえるだろう。
説明してはいけない、語るのだ。語る練習をするのだ。
失敗してもいいし、うまくいかなくてもいい。
漠然たる過去の経験を自分なりに解釈すること。
虚実を豊かに用いて力を尽くし、他人に伝達してみよう!
(テーマ提供:ドーナツ / 前口上:らららぎ)
編集者追記:普通に難しいので、語れる人は語り、説明(解説)的な自己紹介をする人はする人で全く構いません。文章の練習したいという方は、両パターン(由来解説パターンと物語パターン)の記事を作っていただいても大丈夫ですよ!