私が「
あめこ」という音の響きに自分を繋げたのが何時なのか忘れました。たぶん3・4年前ぐらいのことです。それまで私は「渚」とか「汀」を名乗っていたのですが、今までの私を全部消すように「雨子」や「飴子」を名乗るようになりました。「
雨子」は日常の些細なことを垂れ流す場所。「
飴子」は創作活動をする場所。
ツイッター、その他SNSのアカウント名(@~)は全て雨具に関するものに変更。
とくに大した理由もなく、ただ雨が好きで、○○子という名前に少し憧れがあったので、くっつけてみました。
(
あめこ、うんうん、丸っこくて可愛いがね)とそんな感じです。
これだけで終わるのも味気ないので、自分語りを交えつつ、
「雨」についてお話したいと思います。
私は梅雨の時期に産まれました。ちょうど本日が誕生日です。
ですので雨に親しみに似た何かをもとから抱いていた気がします。
私の本名が水に関わるものでしたので、それも関係あるのかもしれません。
実家で過ごしていた頃は、雨が草木を打ち、川の流れが聞こえてきてきました。
それが何よりも愛しかったように思います。
今は雨がコンクリートを打つ音に耳を傾けています。それもまた一興です。
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くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる / 正岡子規
いつの日か教科書で見たこの和歌が私の頭の中にずっと残っています。
平仮名の丸み、「の」で言葉がつながっていき想起される春雨のやわらかさ、夏に入る前の瑞々しい景色が鮮やかに描き出されます。
くれなゐを包むやはらかく優しい春雨が
、「雨は優しく包むものである」という印象が私へ滲んで染み込んだのでしょう。
そして中学生の頃聞いていたこの曲。
雨音、ある種の暗さ、ネガティブなイメージ。
言葉がぽつりぽつりと降ってきて流れて消えていく。
雨に対する陰鬱さやもどかしさが、雨の日のアスファルトの匂いのように立ち込めます。
また、
「涙の雨」という表現があります。涙と雨は重ねられることが多く、涙の比喩として雨が使われることもあります。
漫画で登場人物が雨に打たれてるシーンを何度か目にしました。
泣いていても雨をに打たれていたら分からないですしね。
私も真似したことがあります。葬りたい過去です。
最後に雨の持つ「
水」としての性質。
いつの日だったか次のようなことを「飴子」で呟きました。
雨がふればいい。君と僕との間に出来てしまった氷塊を溶かしてくれるいうな、温かい雨がふればいい。
— 飴 (@am_gappa) 2012, 8月 7
ここでは温かい雨に限定していますが、雨は
「洗って落とす、洗い流す」性質があると考えます。
(誤字はそっとしておいて下さい。大事なところで噛む人間なのです。)
水もそうですね。洗濯とか食器洗いとか。
シャワーを雨に重ねているといえば分かりやすいでしょうか。
纏わりついた土ぼこりや汗を洗い落とす、洗い流す。
自己嫌悪も浅ましい考えも怒りも嫉妬もマイナスな感情を水に流す。
汚れを浮かしたり溶かすには洗剤や石鹸の存在は無視できませんが、雨にはそのような一種の洗浄作用があるように感じ
てます。
綺麗さっぱり洗ってしまって、ありのままの私でいること。化粧や見栄でゴテゴテに装飾した私をつるっと引っぺがしてほしいという期待の表れかもしれません。
すっかり長くなってしまいました。
以上のような感じで私は「
雨」が好きですし、だからこそ適当につけた「
雨子」が私に馴染んでいるのかも知れません。
ここまで目を通してくださった方、お付き合いいただきありがとうございました。
おわり。
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