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みんなでしんがり思索隊

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大人たんは大人になりたかった / 著者:大人たん - ch3

「お酒は、美味しいよ」 - と、誰かが言います。

お酒も、麻雀も、株取引も、ファッションも、結婚も、塩辛いものも、社交ダンスも、通勤読書も、畳も、そういうものの「良さ」や「魅力」のようなものが、ずっと分からなかったのです。オトナになったら分かるよ、という常套句ばかりが宙を舞い、私の一端の思春期は、「オトナ」というものを何一つ掴めずに、緩やかな失望と共に終わっていきました。

大人という言葉には、これまで、たくさんの人がたくさんの意味を与えてくださり、手垢でびっしり、油汚れ大好きなジョイをいくら投入したところで、もうその汚れ(歴史)が落ちることはないでしょうね。精神的に成熟することだとか、20歳を越えて自責を理解することだとか、子ども期を経たがもう子どもではない存在という否定形の定義であったり、社会に出たら大人だという考えの人もいると存じております。

だから、「大人とはこういうものだ」という単一の見解を打ち出したところで、その定義はすぐに現実という手のひらの指のあいだから、ぽろりと零れ落ちてしまうようなものなのだと思うのです。そのため(というわけではありませんが)、大人たんのつぶやきでは、何回も定義し直すことを試みており、現在は92個(+α)の更新があります。たとえば、

大人というのは、諦めながら探すと探し物がうまくいくことを知っています。備え付けの不器用さのせいで、私たちはついつい「ない場所を探してしまう」ものです。そのうえ同じところを探してしまいます。「探している場所を優先的に諦めて何度も切り替える」ことで、探し物はうまくいくのです。(92)

大人というのは、没批判的になれる人です。誰の悪口にも共感せず、誰の愚痴にも同情せず、誰の嫌味にも激情しません。しかしそれを無視するわけではなく、バランスのよいところに立って、それらの「言葉の裏地」にある隠されたままの感情まで、奥深く聴いてあげることのできる人なのです。(26)

大人というのは、幸か不幸かという稚拙な二項対立に逃げ込まず、「幸福だった日々にも増して、不幸だった日々でさえも捨て難く思えるか」を問い続ける人のことです。不幸だった日々に敢えて人生を見出すことで、「自分の人生を全肯定すること」を誰かにしてもらうことなく自分で出来るのです。(51)

このような方式を採用しており、フォロワーさんの方に、できるだけ「大人というのは種々様々だし、種々様々なのが大人なのかもなあ」みたいなことを感じていただければなあと思って、ゆっくりではありますが、少しずつ、着実に、定義(のやり直し)を増やしております。

その中で、定義とは関係なく、「大人たんは大人だなあ」と感じていただくことができれば、私の居た意義もあったのかな、なんてことを思うのです。たくさんやり直してきた大人の定義の中から、あるいは私が何度も何度も定義をやり直すその姿から、<自分なりの大人というもの>の切れ端を見つけ出し、その種を大切に大切に育てあげていき、「最初の切れ端は、大人たんから見つけ出したものだけれど、今はもう私が私のために育んできた<大人というもの>を持っているんです」という境地(?)にまで至っていただけたら嬉しく思います。

要するに、大人というのは、「自分だけに宛がうもの」なのです。私にとっての大人、という在り方しか、現実には無いのだと感じております。それは、どうしても、自分で見つけるしかないものですし、他人から丸ごと与えてもらうものでもないのです。それぞれが、どこかのタイミングで、「あ、こういうのが大人なんだな」と感じ、それを自分のなかで仕上げていくことで、それぞれの"大人観"みたいなものが萌えていくもの。

私が初めて大人を感じたのは、お酒の席にお呼ばれして、お酒を楽しそうに呑んでいる人たちを見たときでした。隣の方に「何がそんなに美味しいのですか」と尋ねると、「んーよく分からないけれど、お酒は、本当に美味しいよ」というのです。ビールは苦いし、カクテルならジュースの方が良いし、日本酒はまるで罰ゲームだし、ウイスキーは味がイライラするし、スピリタスは自傷行為だし、果実酒はやっぱりジュースの方が良いし…なんてこと思ってたら、ますますお酒の何がよいのか分からなくなっていきました。

それから幾年か経て、懸想人にたくさん飲まされ、だんだんとお酒へ接近することへの抵抗がなくなっていき、少しずつではありましたが、お酒の美味しさというものを掴みかけたのですね。(逆に言えば、お酒の美味しさというものが私の心のホックに引っかかってくれたということです)。そのとき、「私の知らないお酒という理法を、あの人たちは理解していたんだな」と、しみじみ思いました。

「あの人たちは、私の知らない楽しみ方を、心から知っている」というのは、私にとって「大人」を感じるのに充分な事実でした。それからというもの私は、大人がどんな理法(私の知らない物事の楽しみ方)を知っているのだろうか、興味がどんどん湧いていきました。

「生主」なんて言葉が完成する前に、ニコニコ生放送をやってみた時期もあります。碁打ちに囲碁を習ったこともあります。パンを焼いてみたこともあるし、社交ダンスを踊ってみたこともあります。俳句を詠んでみたこともあって、株取引をやったこともあって、有名人の講演会にも参加したことがあります。

どれも「何でそれを面白いと思っている人がいるのだろう」というのが、行動の火種でした。そのとき「私は子どもなんだな」と悟ったのです。何でもかんでも興味を持って走り回っている自分をメタ認知(というか俯瞰視)して、これはまさに子どもじゃないか!と喝采しました。何の理法も知らなくて、何の楽しみ方も知らなくて、大人が楽しんでいる「それら」に、ただ必死に、しがみつこうとしているだけの、未熟な子どもなのだと感じました。

今は少しぐらい大人になれたでしょうか。少なくとも、自分のことを子どもだと思っていたときに知らなかった理法を一通り知ることができ、それに少し満足しているから、「成長」とか「成熟」みたいなものはあったのかもしれませんね。もちろん「私なりの」という枕詞が、そこには必要ですけれども。

というわけで、これはあくまで「私にとっての大人」「私なりの成熟」の話ですが、みなさんが大人になるときのヒントにでもなれば、とても嬉しく思いますよ。

それでは、また会いましょう。

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Comment

大人たんへ

  • teleponeta
  • 2014-09-13 01:06
  • edit
要するに「大人たん」が考える像が何十かの切り口で提示されている訳で、世に遍く存在する「大人」とはこのうちの数個~数十個を備えている、という認識で良いですか?
正直、大人たんのツイートは信じられないくらいにアクが強いものもあるので、読んでて自分に自信をなくしたり、大人たんを心配していまうことがあります。
でも、これからも大人たんのツイートを読んで少しでも人生の糧にしていけたらと思います。
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