「恩」とか「負い目」についてものすごく悩んでいた時期があった。大体いつごろだったか詳しくは忘れてしまったけれど,きっとその頃の僕は「人にする行為」についてものすごく悩んでいたように思う。
だれかになにかをするときに「恩」を感じられるのもあんまり好きではなかったし,だれかになにかをされたときに「負い目」を感じるのも好きではなかった。
でもそれらがまったくなくて平気かというと,逆にそういうわけでもなかった。「じぶんがした行為」について,恩とはいかないまでもある程度の感謝はしてほしかった。逆に相手からされたことをじぶんがなんとも思わず,感謝を示していないかのように思われるのも,それはそれで嫌だった。
とにかくその頃のぼくは「他人に対してすること」に対してものすごく悩んでいたし,困っていた。その結果他人にどう思われるかについても,同じようにものすごく悩んで,そして困っていた。
今でも「じぶんがしたことを他人がどう思っているか」についてはこれでもかってくらい考えてしまうし,その逆で「他人がしたことに対するじぶんの行為を他人がどう思っているか」も同じだ。それで僕の頭はぐるぐるしていたし,今もきっとどこかでぐるぐるしているのだと思う。
他人のことを考えることはできない,と述べる人がこの世の中には一定数いる。他人のことを考えているつもりでも,結局「じぶんだったらどうするか」を考え,それにしたがって相手の行動を予測しているだけだ,と。
「恩」とか「負い目」とかも結局はそのようなものかもしれない。じぶんが発した行動を解釈するのは,それを受け取った相手に他ならない。相手がどう解釈してくれるのかなんていくら考えたところでわからない。
しかも「恩」とか「負い目」とかいうものは,必ずしもリアルタイムで作用するものではない。
後から考えなおしてみて「あの人のあの行為はそういうことだったのか」という風に「負い目」を感じた経験というのはそれなりに多い気がしてしまう。
「恩」についても似たようなことが成り立つ。「そのときはわかってくれなくても,いつか相手がわかってくれればいい」といったようなもののことだ。
そうやって色んな「恩」が気づかれたり発見されたりして「負い目」になっていくのかもしれない。
考えれば考えるほど,他人との関わりというのがわからなくなっていく。「恩」にも「負い目」にもガチガチに縛られて,身動きがとれなくなってしまうようにも思えてくる。
でもいつ頃からだったか,僕は(名付けるとすれば)「サーキュレーション」のような法則(ほど仰々しくないもの)を当てはめて暮らしている。その法則を使うことで,少しだけ毎日が楽になったような気がする。
もう「恩を直接もらったり直接返したりする」ことはやめた。「負い目」を抱いて,恩をもらった人に返すことは難しい。それよりも,恩と負い目がぐるぐる回っていくといいんじゃないか,と考えた。
「恩と負い目がぐるぐる回る」とは,「誰か」からされた行為を「恩」に感じたら,それをとにかく違う「誰か」へと運搬する。といったことを示す。そうやって「恩」や「行為」が世の中をぐるぐる回っていって,そしていつかはじぶんに「恩」を与えてくれた「誰か」に届くかもしれない。僕はそう考えることにした。「恩」を「恩」だと気づいたときに,負い目を感じることなくそれを誰かに運搬する。
そうやって考えることで,僕は少しだけ楽に生きられるようになった。
さっき「他人のことを考えることはできない」と言う人がいると書いたけれど,他人のことを考えるということは別に悪いことではない。むしろ相手のことを考えてなにかをしようとすることは,それができないとしても,少しは世の中を良くしてくれるだろう。
だってぼくたちは,他人のことを考えようとしているからだ。それが無理だとしても逃げ出さずに,きちんと向き合っているからだ。
気づかないうちに僕のところにも,まわりまわって誰かからの「恩」が届いているのかもしれない。あなたが発した「恩」も,まわりまわって誰かに届いているのかもしれない。
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