言葉にとって、ささやかれるという経験は、どれだけ珍しいことなのだろうか。伝言ゲームというメッセージ行為において、私たちが言葉を正確に扱えないのではなく、もしかしたら、言葉たちがささやかれることに慣れていないのかもしれない。
ささやくことを、中国語では「嗫」(niè)という。これは「口を動かしながら、何度もつっかえること」(呑呑吐吐)を意味しており、そこからためらうことを示すこともある。あらゆるささやきには、どこか「負の目的」があるといえるだろう――つまり、人に聞かれてはいけない、大声で言うには憚られる、あえて確実に伝えてはいけない、みたいなこと。
誘い受けと呼ばれる恋愛テクニックのひとつに「ささやく」というのがある。それは、「ブスの大声」なら無視できるけれど、「この世界中で、今この場で、おそらく私にしか聞こえないだろう誰かの小さな声」は、どうしても気になってしまうという人間の性質を利用したものだとおもう。あえて確実に伝えないことによって、他者の注意資源を獲得することができる。これはかなり戦術的だといえる。(ぼくの姉の子どもも、口だけ大きく動かして、何かを必死に伝えてるっぽくして、ぼくに「え?」と注意させることを好むテクニシャンである、そしてぼくはそれにまんまとはまって10回ぐらいまでは「え?なんだよー、なにいってるの?」って相手してしまう――ぼくは「ささやかれている」)。
ささやかれるというのは、そんなに多くある経験ではないだろう。電車でUSBメモリを落としたとき、美しい女性が後ろからぼくに「あの…」―(間)―「USBが…」と、ささやいてくれたこと、あれはとても興奮した。そういえば、汚い話で申し訳ないが、異性が興奮しているときに出すと噂されている声も、でかい声より、ささやくような声の方が好きかもし…(ry)。
閑話休題。つまり、無目的でささやくことはないのだ。ぼくらはそれを経験から知っている。
ささやかれたことには意味があり、その意味の方に集中してしまうため、「ささやかれた言葉の一語一句性」を見失ってしまうのだ。それが正常だと、ぼくは主張したい。むしろ、ささやかれた目的を探らず、言葉を逐語できたところで、それはコミュニケーション不全なのだと強烈に指摘したい。(もちろん目的を探ったうえで、さらに一語一句間違えない人もいるだろうし、その人はそうとう集中しているはずだ)。
伝言ゲームのミスは、人間主体でみれば、ささやきの機能が果たされており、言葉主体でみれば、そんな珍しいことしないでおくれよ、揺蕩ってしまうではないか、ということだろう。ささやくことで、人間は言葉を重視しなくなり、言葉もまた動揺する。言葉と人間が、ダブルで、複合的に咬み合わないので、ミスって当然ということにしよう。
え?納得いかないって?――すまんやで。
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