カトリックのミッションスクールに通っていたので、学校で聖書の言葉が書かれたカードをよくもらっていた。
どれも代わり映えしない、正直見飽きた言葉ばかりだったが、あるときもらったカードの「あなたの心のある場所に あなたの宝もある」という言葉は、なんだか胸に迫るものがあった。
これが、私の好きな言葉だ。
深い意味はないがよく英語で紹介しているので、英語で引用しよう。
For where your treasure is, there your heart will be also. (Matthew 6:21)
中学1年の国語の授業で「宝物を紹介する」というテーマでスピーチさせられたことがあった。
その時、何を紹介したのか全く覚えていない。
が、何を紹介するかものすごく悩んだことだけは鮮明に覚えている。
私の宝物。
一体なんだったのだろう。
今の宝物は一体何なのだろう。
大切にしているものは確かにある。
本だったり、誰かからもらったものだったり、長年使ってきた品だったり。
だが、本当に大切にしているのは、その品そのものではなく、その品にまつわるエピソードやそれを取り巻く人のことではないだろうか。
これが私の「宝物にまつわる違和感」だった。
宝物を紹介するとき、宝物そのものではなくそれにまつわる話をすることになる。
大切にしているのはあくまでも「まつわる話」の部分であり、モノそのものにそれほど執着が持てなかったのだ。
例えば、私の宝物の一つに尊敬する先生からいただいたスカーフがある。
スカーフ自体はもちろん本当に本当に大切なものだ。必ず手元に置いて、なるべく綺麗に保存するようにしている。
だが、スカーフそのもの以上に大事にしているのは、そのスカーフにまつわるエピソードであるということが否めない。
スカーフがその先生と私に共通する意味を持つこと、スカーフをいただくに至った経緯、先生が私にスカーフを贈るという行為をしたことで深まった関係性。
そこに、「私の心がある」のだ。
もし津波に襲われて、そのスカーフが海へ流されていったとしても、スカーフにまつわる思い出は変わらないし、スカーフを贈られたことで深まった先生への敬愛の念も変わらない。
残念に思うことは間違いないけれど。
「あなたの宝のあるところに あなたの心もある」という言葉は、人間が人間として生きる中で、他者を愛おしく思い、他者に心を寄せてもいいのだと私に教えてくれた。
宝物と言える品は確かにいくつかあるけれども、私が愛している他者も私の宝物であり、私の心の片隅にはその人たちが存在する。
そして、私が自暴自棄になってもはや自分の心の中に自分しか存在できなくなってしまいそうなとき、その人たちは驚くほど寛容に私のことを受け入れてくれて、私はその人たちに思いを寄せていたことを再確認する。
心の場所は一つだけではない。
出会えば出会うほど、愛しく思えば思うほど、心の拠り所が増えていく。
そう思うと、とても楽になった。
独りよがりな苦しみに視野を狭めるとき、私を救ってくれたのがFor where your treasure is, where your heart will be also.という言葉であり、この言葉もまた私の宝物である。
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