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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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死に泥む人間の存在 / 著者:大人たん - ch1

 Is there nothing that interests us all? Is there nothing that concerns everyone - no matter who they are or where they live in the world? Yes,  dear Sophie, there are questions that certainly should interest everyone. They are precisely the questions this course is about.
 What is the most important things in life? If we ask someone living on the edge of starvation, the answer is food. If we ask someone dying of cold, the ansewer is warmth.If we put the same question to someone who feels lonely and isolated, the answer will probably be the comapny of other people.
 But what these basic needs have been safisfied - will there still be something that everyone needs? Philosophers thinks so. They believe that man cannot live by bread alone. Of course everyone needs food. And everyone needs love and care. But there is something else - apart from that - which everyone needs, and that is to figure out who we are and why we are here.
 Being interested in why we are here is not a "casual" interest like collecting stamps. People who ask such questions are talking part in a debate that has gone on as long as man has lived on this planet.
 誰しもが関心を持つようなことがあるでしょうか。世界中のどこに住んでいる人にでも、誰にでも関係のあるようなことがあるでしょう。それはあるのですよ、愛すべきソフィー、すべての人が関わらねばならない問題というものがあり、これは、それについて考えていく講座となります。
 生きることにおいて最も大切なことはなんでしょうか。食べ物に飢えている人にとっては、食べ物です。寒さで身を滅ぼしそうな人にとっては、温かさです。孤独感に耐えられない人にとっては、きっと人との関わりでしょう。
 ですが、こういった大事なことを満たしている人たちにとって、まだなお満たされないことがあるでしょうか。哲学者たちは、ある、と考えておりました。人はパンのみで生きるわけではありませんからね。食べ物は大事ですけれど、愛を受け取ることや、誰かに手当してもらえることもまた必要です。しかし、そういうことではなくて、私たちは何者で、なぜここにあるのだろうか、それを理解したいという誰にとっても切実なことがあるのです。
 なぜここにあるのか、それは切手集めのような「ちょっと始めてみました」という趣味ではありません。この疑問を持った人たちは、この星があったときからずっと議論を重ねてきたのです。
(Jostein Gaarder "Sophie's World" p.12、大人たん訳)


 ハイデガーさんという方は、人間という存在のことを「死への存在(Sein zum Tode)」と呼びました。人間は生まれる前から「死ぬこと」と関わっていると考えたのです。つまり、人間は生まれながらにして死ぬのに充分な年をとっている、と見抜いてしまったのですね。そして彼は、人間は死に向き合っているときが正しい姿で、死から目を背けるのは「頽落」(Verfallen)だとして良くないんじゃないかって考えておりました。

 本当にそうなのでしょうか。

 1秒のあいだに、3人も死んでいると聞きます。ここまで読むのに何人の人が死んでいるのでしょうか。哀悼すべきことでしょうけれど、私はあまり哀しくありません。私が薄情な性格をしているからかもしれませんね。ですが、ですがですが、その「3人」の内訳が、私の大切な人、私のハグしたい人、私の数少ない友愛な人、私の生命に深く刻み込まれている人、そういう方たちだったら、私は悲哀に暮れ、臓器が焼けるほどに泣きじゃくるでしょう。いま、想像しただけで、身体が停止するほどです。怖いのは、愛する人の死。愛する自分の死、なのかも。

 「死」というものは、一様ではないようです。いわゆる死の人称(私の死、あなたの死、その他の死)というのも、死の質的な変化でしょう。私たちは、死ぬことが怖いのか、死ぬことで失うのが怖いのか、死ぬことで限界や何かが明らかになってしまうことが怖いのか、分からないところがあります。

 それでも哲学者たちは、「死ぬ確率がゼロになるシステム」を創造しようとしません。「あー死ぬー」ということを延々と議論しております。私たちがどんなに難しい議論を続けたところで、死は無邪気に背中を突いてくるものです。それはとても面白い。法則的に言えば、「人は必ず死ぬし、人は必ず死ぬことについて小さな議論を引き起こすし、死ぬ確率をゼロにしようとはしない」でしょうか。

 私はそれを「死に泥む人間の存在」と表現したいのです。

 「生まれながらにして、死ぬのに充分な年をとっている」
 確かにそうなのかもしれません。






(編集責任:らららぎ)

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