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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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打破などないと知りながらも / 著者:らららぎ - ch22


 『R.U.S.E.』――なんとなく始めて気付いたら朝でしたレベルでハマっていた戦争シュミレーションゲーム。打破とか打開という中国語をきくと、このゲームを思い出す。戦争シュミレーションというのは、戦闘部隊をコマに見立てて、それを動かし、特定の目的(敵を殲滅だったり、敵を倒さずに目的にたどり着くことだったり)を達成するゲームのことで、地形(地政)やキャラクターの特性を理解し、瞬間ごと(あるいはターンごと)にうまく活かすことが重大となるところが面白かったりする。

 戦争を有利にすすめるためには、「いま=戦況」を把握することが肝心で、そのためには情報がとにかく欠かせない。あらゆる情報は《リアルタイム》を求められ、それにおいて兵力を操ることを「機動」(maneuver)という。

 打破というのは、機動をくりかえした結果でしかない。つまり、打破というアクションがあるのではなく、複数形の機動があるだけなのだ。打破や打開において大事なことは、何度も何度も機動すること――《自分の兵力を問題に集中させること》――である。

 それについて説明する。まずは引用から。

Dans la vie il n'y a pas de solutions; il y a des forces en marche: il faut les créer et les solutions suivent.
解決というのは、人生に属していない。あるのは、ただ前に進んでいく力だけである。その力を作ることで、解決は後から付いて来るものだ。
――アントニオ・サン=テグジュペリ『夜間飛行』(Vol de nuit)より、らららぎ拙訳

 戦争における兵力(兵士の数や物理的攻撃力)とは違って、個人的な意味での《兵力》というのは、サン=テグジュペリが言った「ただ前に進んでいく力 des forces en marche」のことだといえる。いまの自分がどんなに低い高度で飛行していようと、頼れるものがない夜を飛んでいようとも、進むしかないのである。キリの良い答えがみつからなくとも、モヤモヤやスランプに足を引っ張られても、具体的な道をみつけて、正誤に関係なく機動するしかないのである。

 その精神性は、若山牧水の詩歌のなかにもみられる。

幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく
(どれだけの山や河を越えて行けば、寂しさのない国へとたどり着くのだろうか。そんなものがないと知りながらも、旅を続ける毎日である)

 《そんなものがないと知りながらも》という精神性によって、僕たちの個人的な兵力が再編成される。その兵力によって、機動――若山牧水でいうところの旅――を続けることができるようになり、そのうち打破とか解決といったものが生まれる(ように感じる)のだ。スランプというのは、(心の)夜である。だから夜間飛行をしなくてはいけない。立ち止まったら、機動力を喪ってしまう。

 そのとき空間識失調(プライドトラブル)*を起こさないように、重力とのバランスだけは保たねばらない。そのバランスというのが、《打破などないと知りながらも、打破はあると思ってただ前に進むこと》という幻想パワーである。自分の抱えている問題、自分が経験している夜、そういったモヤモヤに兵力を集中させるために、そういう幻想をみること、みとめること、しんじること、それが欠かせないのかもしれない。

 ありがとうございました。おわる。

 しーゆーれーらー







*****************

*空間識失調:[vertigo]暗い海の上や、水平線の見えない霧のなかを飛行機で操縦しているとき、平衡感覚を喪って、どちらが上で、どちらが下なのか分からなくなる状態のこと。このバーティゴに陥ったパイロットは、(ベテランであっても)上下を正確に示す計器よりも、自分の上下感覚が正しいと信じ込もうとしてしまうため、墜落事故が起きてしまうという。ここでは、最初の自分の感覚を正しいと信じたいと思ってしまい、現実(計器)とのすり合わせが取れなくなるところから、プライドトラブルとルビを振った。つまり、「私が最初に感じたこと、思ったこと、判断したことが正しい」と思い上がってしまうメンヘラ特有のプライドのあり方と、モヤモヤしている状態、混迷していて前が見えない状態の「夜」と、サン=テグジュペリの「夜間飛行」をかけて、「空間識失調」という比喩を用いた。

*also see:拙稿「乗り越えるというのは、自己を歯切れよく展開することである ― 『したいならすればいいじゃん』という無理解について」
http://ellizaveth.blog65.fc2.com/blog-entry-890.html

悩んで悩んで(答えは出なくとも)悩み抜いて、もやもやを「抽って」(破って)、自分にとっての春がぱーっと展開されたとき、「草」が生えてくるでしょう。そうして完成するのが《描破》という現象です。「抽 + 草 = 描」。どれだどれだと、たくさんある道や、たくさんある選択肢や、たくさんある未来の「視えている範囲」や「視えていない範囲」のことも勘定して、大人の意見を聴き、親の希望を慮り、理想の自分を参照し、悩み、悩み抜き、それでも「はっきりとした結論」を訴求することはできず、それでも歩まねばならず、揺らぎながら、震えながら、断念しながら、挫折しながら、「私は一体どこに辿り着くんだろう」と誰も答えを知らない問いを何度も試練にかけながら、自分を審問し、世界を問い糾し、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、いつか具体的な場所に《着地する》――その具体を「描」といいます。

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