「いーれーて!」「いーいーよ!」――輪になることに何の資格も必要なかった低学年のころにくらべて、老いれば老いるほどいつからか、《もう既にある輪のなか》に入るためには、通過儀礼(イニシエーション)を要するようになりました。
通過儀礼とは、「いまの自分ではあそこの輪に入ることができないので、そんな自分なんか殺して、《めでたく認められる自分》を新しく手に入れるためにやらねばならないこと」です。
簡単に言うと、もう既に回っている大縄に入るためには、《自分のタイミング》を捨てて、縄のタイミング(縄を回している人たちや、跳んでいる人たちのタイミング)に合わせなければなりません。大縄なら単調で分かりやすいんですけれどね。
身近な話だと、七五三、義務教育、受験、卒業、成人式、就職活動を成功させることによって、《あそこにある大人の輪=社会人の輪》に入ることが許されます。裏を返せば、義務教育に失敗した人、受験に落ちた人、成人式に出なかった人、就職できなかった人、そういう人たちは「われわれ(社会)の一員としては不要」という烙印をおされ、輪に入ることができないということです。最近の日本でしばらく続いている傾向のようですね。
「成熟すること=大人になること=社会という輪のなかに入れてもらうこと」――これは、大なり小なり文明ができて以来、人間がずっと気にしてきたことかもしれません。そのために通過儀礼が発明され、その儀礼をやり切ることで「今日から君は大人になり、社会の輪のなかに属する」と認めてもらえ、目的を果たすことができます。
対立する二項があるとき、それを調停するには二通りの方法があります。一つは両者を近づけ、はじめの矛盾・対立をなくす方法です。もう一つは両者を離れたままにしておいて、どちらとも異なるが、どちらにも関係のある第三項を両者の間に導入する方法です。
――レヴィ=ストロース『構造・神話・労働』p.78より
制度としてのイニシエーションは、近代社会において消滅した。しかし、人間の内的体験としてのイニシエーションの必要性は無くなったわけではない。ここに現代人の生き方の問題が生じてくる。子どもが大人になるということは実に大変なことだ。だからこそ、古代においては社会をあげてそれに取り組み、それぞれの社会や集団が、それにふさわしいイニシエーションの儀礼や制度を確立してきた。それを無くしてしまったのだから、個人に対する負担は大変重くなった。言うなれば、各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった。しかしながら、現代人の多くは近代の流れのなかにそのまま生きていて、イニシエーションの制度のみならず、イニシエーションそのものも「迷信」として否定してしまっている。意識的に拒否しても、人間存在に根ざすイニシエーションの必要性は、無意識の働きとして生じてくる。
――河合隼雄『心理療法とイニシエーション』p.9より