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chiasma30:「私の通過儀礼」

chiasma30:「私の通過儀礼」
・「iPhone6」(蛙教授)



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 「いーれーて!」「いーいーよ!」――輪になることに何の資格も必要なかった低学年のころにくらべて、老いれば老いるほどいつからか、《もう既にある輪のなか》に入るためには、通過儀礼(イニシエーション)を要するようになりました。

 通過儀礼とは、「いまの自分ではあそこの輪に入ることができないので、そんな自分なんか殺して、《めでたく認められる自分》を新しく手に入れるためにやらねばならないこと」です。

 簡単に言うと、もう既に回っている大縄に入るためには、《自分のタイミング》を捨てて、縄のタイミング(縄を回している人たちや、跳んでいる人たちのタイミング)に合わせなければなりません。大縄なら単調で分かりやすいんですけれどね。

 身近な話だと、七五三、義務教育、受験、卒業、成人式、就職活動を成功させることによって、《あそこにある大人の輪=社会人の輪》に入ることが許されます。裏を返せば、義務教育に失敗した人、受験に落ちた人、成人式に出なかった人、就職できなかった人、そういう人たちは「われわれ(社会)の一員としては不要」という烙印をおされ、輪に入ることができないということです。最近の日本でしばらく続いている傾向のようですね。

 「成熟すること=大人になること=社会という輪のなかに入れてもらうこと」――これは、大なり小なり文明ができて以来、人間がずっと気にしてきたことかもしれません。そのために通過儀礼が発明され、その儀礼をやり切ることで「今日から君は大人になり、社会の輪のなかに属する」と認めてもらえ、目的を果たすことができます。

対立する二項があるとき、それを調停するには二通りの方法があります。一つは両者を近づけ、はじめの矛盾・対立をなくす方法です。もう一つは両者を離れたままにしておいて、どちらとも異なるが、どちらにも関係のある第三項を両者の間に導入する方法です。
――レヴィ=ストロース『構造・神話・労働』p.78より

 通過儀礼というのは、《どちらにも関係のある第三項》を措定して、それを媒介者として利用し、(私と輪のあいだにある)矛盾や対立を解消する方法です。ときにそれは「酒の一気飲み」かもしれないし、「ありがとう、と改めて言うこと」かもしれないし、「貸し借りをチャラにすること」かもしれないし、「大きなものを盗んでくること」かもしれないし、「独特な度胸試し」かもしれないし、「何かを暴露すること」かもしれないし、「自分の名前をかえること」かもしれません。それをすることによって、私と輪が近づくわけではなく、親密になるわけではなく、ただただ「対立が解消される」だけであり、「輪のなかに入ることができる」だけです。

制度としてのイニシエーションは、近代社会において消滅した。しかし、人間の内的体験としてのイニシエーションの必要性は無くなったわけではない。ここに現代人の生き方の問題が生じてくる。子どもが大人になるということは実に大変なことだ。だからこそ、古代においては社会をあげてそれに取り組み、それぞれの社会や集団が、それにふさわしいイニシエーションの儀礼や制度を確立してきた。それを無くしてしまったのだから、個人に対する負担は大変重くなった。言うなれば、各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった。しかしながら、現代人の多くは近代の流れのなかにそのまま生きていて、イニシエーションの制度のみならず、イニシエーションそのものも「迷信」として否定してしまっている。意識的に拒否しても、人間存在に根ざすイニシエーションの必要性は、無意識の働きとして生じてくる。
――河合隼雄『心理療法とイニシエーション』p.9より

 生まれや育ち(バックグラウンド)が自分とは異なる人が増えていき、それぞれのルールや前提が複雑になっていき、《知らないオジサンにはついていっちゃイケマセン》という命法が幅を利かせ、他人がどんどんと遠くなり、無関係になり、輪になるのが難しくなっていきます。

 《僕は君のためにこんなに犠牲になれるよ》という貧しい手法でしか、善意を伝えることができなくなっていき、「いーれーて」「いーいーよ」は、もうどこにいっても通用しなくなってしまいました。自己犠牲的な通過儀礼を自作自演しないと、だれとも仲良くなれない時代になったのかもしれませんね。

 通過儀礼というのは、そういう意味で自己伝授的です。自分で考えて、自分で舞台をそろえて、自分で演じて、自分で成熟するしかないのです。もちろん、それを全て意識的にこしらえることは難しいでしょうから、「後から思えば、あれが通過儀礼だった」とか、「あれは運命的に通過儀礼であった」とか、「今回のこれがまさに通過儀礼だ」とか、「こういう通過儀礼があればいいのに」のように、運命的に感じたり、偶然的に感じることもあるでしょう。

 とにかく《大人になるために、成長するために、何かの輪に入るために、他者との複雑な関係を乗り越えて、自分という存在を変更し、何かの対立を解消することができた》という通過儀礼の経験を教えてくださいませ。

 なんだそれ意味不明で難しいなと思った方は、「通過儀礼と聞いて思い出す自分の経験」について書いていただけたらと願います。









(御題提供:蛙教授、前口上:らららぎ)
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