人生は偶然(デタラメ)で成り立っているということに耐えることができますか。僕は18〜19歳ぐらいのときに、ようやく「耐えうる」と言えるようになりました。そのおかげで、自分のやりたいことに気づけたり、それを少しずつ実行に移せたりしています。
この『みんなでしんがり思索隊』だって、どう考えても発想が「古い」んです。思いついても「古いから」といって棄却されるようなアイデアなんです。でもやりたかったということに気付いたのでやりました――つまり、こういう《古くても新しくてもいいから、とにかく確かで温かいサンドボックス》が欲しかったんです。
しんがり思索隊のサンドボックス(砂あそび場)には、年功序列がありません。いちおう編集長がいるけれど、何の権力も持ちあわせておりません。達成-スベキ-売上がなければ、追求-スベキ-勝率もないし、あるとすれば「書くって結構いいことじゃないか」という曖昧な理念ぐらい。かなりデタラメに成り立っています。
では、日本の社会は、どうして年功序列を求めるのでしょうか。
それは、デタラメでは困るからだと思います。《年上は目上である》という意味不明なエイジズムを採用するのは、そういうことにしておかなければ困るからなんです。あらゆる関係を上下のどちらかに押し入れることによって、変化の移動性=情報の方向性を予め制限しておくことができるんです。
たとえば、親に向かって「あなたがこれまでしてきたこれこれを、今日からなになにに変えて下さい」とお願いできる人は、あまり多くないのではないでしょうか。親子を上下関係に押し込まれた人たちにとって、親に何かを指図する(お願いという形で新情報を与える)というのは、ほとんど始めから無理なことなのです。そんなチャンスは用意されていないのです。
親に何かの情報(情報という命令)を与えることは、すごくすごく難しいことのように思われます。上下関係に嵌めこまれたら最後、下から上への情報(命令)はほとんどの場面で無効になるのです。そうすることで「子どものデタラメな発想」を切り落とし、変化を制限し、できるだけ自分の知っている安全地帯へと情報的に移動しようとするのです。親子関係を円滑にしたいなら、親の情報に従うしかないし、親と人間関係を築きたいなら、上下関係から外れなければならないでしょう。ただ、核家族で、しかも友達もいないとなると、「親子関係から出て行った後の居場所」がないため、やむなく親子の上下関係に縛られるはめになります。核家族って、頭のいい支配者思想ですよね。
さて、そんな大人が、むかしの中国にもいたのだろうかと思わせる論語があります。
孔子(子罕9-23)は、「若い人ならだれでも持っている《若さという可能性のヤバさ》を侮るなかれ、マジでヤバイからね、でも4,50代になっても名前が挙がらなかったらソイツはダメだね」――子曰、後生可畏也、焉知來者之不如今也、四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已矣――と言いました。
「後から生まれてくるやつは畏るべし」と書いてあります。あえて上下関係的にいえば「後輩」のことは畏れるべきだよ、「後輩」ってのは可能性やばいからね、ということです。
ぼくの想定をはるかに越えたいろぉんなことに興味をもって吸収している16とか17くらいの少年少女がTwitterにはたくさんいて、この子たちが大学生になったり大人になったりする頃にはどんなすごい人になるのだろうって震えてる。
――編集長ちくわ(twitter, 12/4)