忍者ブログ

みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
MENU

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


chiasma29:「私の上下関係――後発を認めたのはいつのことですか」

chiasma29:「私の上下関係――後発を認めたのはいつのことですか」
・「上下関係は逆転する。」(こはく)
・「『こんちくしょう、』精神」(てだ)


拍手


 人生は偶然(デタラメ)で成り立っているということに耐えることができますか。僕は18〜19歳ぐらいのときに、ようやく「耐えうる」と言えるようになりました。そのおかげで、自分のやりたいことに気づけたり、それを少しずつ実行に移せたりしています。

 この『みんなでしんがり思索隊』だって、どう考えても発想が「古い」んです。思いついても「古いから」といって棄却されるようなアイデアなんです。でもやりたかったということに気付いたのでやりました――つまり、こういう《古くても新しくてもいいから、とにかく確かで温かいサンドボックス》が欲しかったんです。

 しんがり思索隊のサンドボックス(砂あそび場)には、年功序列がありません。いちおう編集長がいるけれど、何の権力も持ちあわせておりません。達成-スベキ-売上がなければ、追求-スベキ-勝率もないし、あるとすれば「書くって結構いいことじゃないか」という曖昧な理念ぐらい。かなりデタラメに成り立っています。

 では、日本の社会は、どうして年功序列を求めるのでしょうか。

 それは、デタラメでは困るからだと思います。《年上は目上である》という意味不明なエイジズムを採用するのは、そういうことにしておかなければ困るからなんです。あらゆる関係を上下のどちらかに押し入れることによって、変化の移動性=情報の方向性を予め制限しておくことができるんです。

 たとえば、親に向かって「あなたがこれまでしてきたこれこれを、今日からなになにに変えて下さい」とお願いできる人は、あまり多くないのではないでしょうか。親子を上下関係に押し込まれた人たちにとって、親に何かを指図する(お願いという形で新情報を与える)というのは、ほとんど始めから無理なことなのです。そんなチャンスは用意されていないのです。

 親に何かの情報(情報という命令)を与えることは、すごくすごく難しいことのように思われます。上下関係に嵌めこまれたら最後、下から上への情報(命令)はほとんどの場面で無効になるのです。そうすることで「子どものデタラメな発想」を切り落とし、変化を制限し、できるだけ自分の知っている安全地帯へと情報的に移動しようとするのです。親子関係を円滑にしたいなら、親の情報に従うしかないし、親と人間関係を築きたいなら、上下関係から外れなければならないでしょう。ただ、核家族で、しかも友達もいないとなると、「親子関係から出て行った後の居場所」がないため、やむなく親子の上下関係に縛られるはめになります。核家族って、頭のいい支配者思想ですよね。

 さて、そんな大人が、むかしの中国にもいたのだろうかと思わせる論語があります。

 孔子(子罕9-23)は、「若い人ならだれでも持っている《若さという可能性のヤバさ》を侮るなかれ、マジでヤバイからね、でも4,50代になっても名前が挙がらなかったらソイツはダメだね」――子曰、後生可畏也、焉知來者之不如今也、四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已矣――と言いました。

 「後から生まれてくるやつは畏るべし」と書いてあります。あえて上下関係的にいえば「後輩」のことは畏れるべきだよ、「後輩」ってのは可能性やばいからね、ということです。

ぼくの想定をはるかに越えたいろぉんなことに興味をもって吸収している16とか17くらいの少年少女がTwitterにはたくさんいて、この子たちが大学生になったり大人になったりする頃にはどんなすごい人になるのだろうって震えてる。
――編集長ちくわ(twitter, 12/4)

 われわれの編集長は、既に後輩に震えております。このつぶやきを読んだときに、すごいなあって思いました。

 なかなか信じてもらえませんが、かつての僕は野球チームとバスケ部に入っていて、いろいろな「シゴキ」を目の当たりにしてきたし、実際に喰らったこともあります。肩パンって、ものすごく痛いんですよ。グランド20周したのに、「お前らはまだ1周目だ」みたいな情報を与えられて、(コイツは数も算えられないのか)と思いながらもそれに従うしかないんですよ。そりゃもう大変でした。

 そういうマッチョイズムからようやく抜けだして、情報に上下の方向性を想定するなんて馬鹿げているなあって思ったときに――つまり、情報の入口も出口もデタラメにして、さまざまな情報を予定せずに受け取ろうと思ったときに――人生はデタラメで成り立っているということに耐えられるようになり、自分のやりたいことを追求できるようになりました。

 あなたが、後発(後輩――という言葉はマッチョイズム的で好きじゃないので後発)のことを認めたのは、いつのことですか。後からやってくる人たちに上下(前後)関係なんかなくていい、むしろ自由にしていてくれと心から言えるようになったのはいつのことですか。後発(後輩)たちが予め持っている上下関係の素養(俺たちは後輩だから先輩の顔を立てておこう、敬っておこうという頼んでもないのにやってくれる処世)を無意識に利用しなくなったのはいつのことですか。上下関係を利用して、無意識に誰かや何かを精神的に軟禁しなくなったのはいつのことですか。

 上下関係は、日本人であればおそらく誰にでもある(無意識にはびこる)関係概念です。幼きころに取りつかれ、死ぬまで縛られている人だっていることでしょう。このキアズマで、自分がいつの間にか手にしていた上下関係(上でも下でも構いません)を見なおしてみませんか。そしてそれについて、過去のことでも現在のことでも構いません、書いてみませんか。
PR

Comment

お名前
タイトル
E-MAIL
URL
コメント
パスワード

× CLOSE

ブログ内検索

× CLOSE

Copyright © みんなでしんがり思索隊 : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]