「ほんとうにおもしろい」という本は、子供のときにはおとぎばなしであり、それから冒険物に進むのであろう。おとぎばなしだろうが、冒険物だろうが、そのときに「ほんとうにおもしろい」と思ったその感じを忘れてはいけない。勉強なら「意志」でやらなければならない学科もあろう。しかし自由時間に読む小説に「意志」や「おつき合い」を妙な工合に持ちこむと、ほんとうの感興と、おざなりの感興の区別がつかなくなり、真の意味での読書の向上が害されるおそれがあるからである。探偵小説でもよいから、ほんとうにおもしろかったら、その「感じ」をたいせつにする。そして漱石を読んだときに、その感じが出たら、自分自身のために祝杯を上げればよい。それは明白な知的向上を示すものだからである。そのほんとうの「感じ」が出るまでは、同級生が漱石を持ち歩いてるのを見ても、ロマン・ロランを称えるのを聞いても、あわてて自分もわかったふりをする必要はない。自分におもしろくないということを公言する必要はないが、ほんとうにはおもしろいと思わないものを、おもしろいなどというふりをしてはいけないのだ。他人に対しても自分に対しても。特に自己をいつわってはならない。自己の実感をいつわることは、向上の放棄にほかならないのだから。
(渡部昇一『知的生活の方法』)
ぼくは、何かや誰かに対して「良さがわからない」と言えない人間です。「あの人にがて」「あの人こわい」と言うことはありますが、「あの人は好きじゃないな」と言うことが ― というより、思うことが ― できないのです。もちろん、「好きじゃない」という言葉は元々ずいぶんきつい響きを持っているので、公の場では言わないに越したことはないのかもしれませんが、「好きじゃない」「嫌い」という極端な表現に限らず、「これはつまんない」「これは良さがわかんない」といったような評価を口に出すのが苦手なのです。たとえば、難しく書かれた本を読んで挫折したときに、「こんなの何が面白いのかさっぱりわかんねえな」とは言わないだろうと思います。
「良さがわからない」なんて、ポジティブなフレーズではないのだから、別にいいではないか、と言われるかもしれません。確かに、ぼくはこの「何かに対してプラスでない評価をなかなか口に出せない、心の中でさえもなかなか言えない」ことによってそれなりに穏やかな性格だと見られているでしょうし、そのおかげで不必要な争いに巻き込まれずに済んだことも多かったように思います。しかし、です。「良さがわからない」がぼやけると、「良さがわかる」― 「あっ、これいいな」という気持ち ― もぼやけてしまうのです。
ぼくたちの輪郭というものは、無数の「あっ、これいいな」から成り立っています。「良さがわからない」と「あっ、これいいな」の間に引かれた線(イメージ的には面!! ほんとは面って書きたかったんだけど、タイトルに線って書いちゃったもんね!!)をひたすらつなげることで、ぼくたちの輪郭というものは形作られるものです。そうすると、
「良いと思わない」が言えない(そして本当の意味で「良いと思う」が言えない!)ぼくは、自分の輪郭というものをどんどん見失うことになります。自分の言っていることは、本当に自分らしい発言なのか、自分の趣味や美学にそった言葉なのか、どうにも自信がなくなってくるのです。本当は、自分なりの輪郭というものは何かしらあるはずなのに。ついったーで言うと縦ふぁぼ状態ですね。なんでもかんでもふぁぼふぁぼふぁぼ。あとで見返しても、そこにあるのはタイムラインの写しだけです。
そして、哀しい影響は現在だけに留まりません。自分の輪郭がぼやければ、自分の輪郭の変化もぼやけます。つまり、
いつかもし「本当に良さがわかった」と思える日がやって来そうになっても、それを捕まえることができないのです。それはもうほとんど、「本当の良さがわかる」瞬間 ― 冒頭に引用した文章で渡部昇一さんはそれを知的向上と呼んでいました ― が訪れることを諦めているようなものです。世の中には、わからないものを叩いたり排斥しようとする過激な人たちも多いですが、「わからないけど、わからないと気づく前に全部『良い』のほうに放り込んでしまう」ということをしているぼくも、「未来のために保留をしない」という点においてそういう人たちと何ら変わらないわけですね。
何かを「良いと思えない」と明言するのには、責任が伴います。「○○って何が面白いのかわからんわー」って呟くと、○○ファンが両手に生卵を持って押し寄せてきても文句は言えn……いや文句は大いに言っていいんですが、ともかくそういう可能性が存在するので、そこに責任が生まれるわけですね。だから「これは良いとは思えない」ということをきちんと述べている人の言葉は重みを持ち、文章全体、発言全体が引き締まるものです。その言葉が、それなりの責任を持って発されたものであると、聞く側も感じるからでしょう。逆にぼくは、そうしたことをはっきり言わないことによって、あらゆる責任を回避しようとしているのかもしれません。評価だとか感想だとか反応だとかを全て、「私はわかっていますよ!(だから生卵投げんといて!)」ということを伝えるためだけに使ってしまっているのです。それも大事なことなのでしょうが、なんとももったいないなぁと思います。自分の輪郭を丁寧に描写するために使えたはずの「イイネ!」を、宣言的な「イイネ!」でぐしゃぐしゃと塗り替えて消してしまっているなんて……。あたしって、ほんと宣言的!(©らららぎさん、最後の注釈参照)
さて、そんなチキンなぼくなのですが、「きのこの山」と「たけのこの里」、どちらが良いですかと訊かれれば「たけのこの里に決まってるでしょ起きて」と即答します。そう、ぼくは「たけのこの里」を愛しています。サクッ、とチョコ部分とクッキー部分を一緒にかじることのできるあの幸せは、きのこには到底つくりだせないものです。なぜ「きのこの山」派が一定数存在するのか、そもそもなぜ「きのこの山」などと言うものが生産され続けているのか、理解に苦しみながら二十数年を生きてきたといっても過言ではありません(過言です)。
こうして、ようやくたどり着くわけです。「きのこたけのこ戦争の理想的な終わり方」……。ふむ。理想的なのは、終わらないことだと思いますね。
「きのこたけのこ戦争は、このまま続くべきである!」
これがぼくの答えです。
きのこたけのこ戦争は、「これは良いと思う」「これの良さがわからない」と主張するための勇気を、ぼくたちに与えてくれます。勇気を与えるというのがおおげさであれば、格好の練習場になります。わからない、と言って自分の輪郭を探す練習。わからない、と言って責任を持つ練習。わからない、と言って未来の自分のために保留する練習。「なんできのこの山なんて存在してるんだ!」と叫ぶことが、そうしたトレーニングに使えるのではないでしょうか。だって、これは間違いなくぼくの考えだと、自信を持って言えるのですから。
ところで、終わらせないのが理想だとは書きましたが、ぼくは「んで、終わることはあるのか、ないのか」については特に触れていません。しかし……、このきあずまはぼくで3人目ですが、未だ「理想的な終わり方」を真っ向から提示する方が現れないあたり、やはり「きのこたけのこ戦争」は永久に不滅なんじゃないか!? とぼくは思いますね! ……なんて煽りもしつつ、ここは次の方にバトンをぶん投げて ― 結論を委ねて ― 終わろうと思います。いつも心に、たけのこの里。ちくわでした。
▽注釈▽
宣言的な…というのはらららぎさんが文芸誌に書いていた言葉遣いを使わせてもらったものです。らららぎさんは(「宣言的な『好き』」という説明の導入として)「かわいい」を宣言的になってしまった言葉のひとつに挙げていて、今の文脈にもあてはまるので、というかほぼ同じ話なので、少しだけ引用しておきます。
それは、元々の意味を離れ、次々と多義化していき、結局は「それが自分にとって理解のできる価値を有したものであること」をアピールするための言葉に代わったからだといえるかもしれない。つまり、本当はよく知らなくとも、「かわいい」と主張してしまえば、自分にはその価値が分かっているということになる。そういう態度をとることが「善い」とされているのだ。知っていることは善いことであり、理解していることは善いことである、そういう時代の価値観が言葉の使い方を巧みにすり替えてていく。かわいいというのは、何かへの主観的な評価ではなく、自分を善いものとして映すための宣言になったのだ。
(らららぎ「好きな人という多義的で独特な言葉に寄り添って」『あみめでぃあ』)
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