ぼくは「宝くじが怖い」。
そして、
それゆえに、(そうでないと思いたいけれどやはり)自分はお金というものに価値をおきながら生きているのだなぁ、と気づかされてしまう。
……ざっくり言うと、こんなお話を今日は書いていきます。ちくわです。
まず、ぼくは宝くじを買ったことがない。まぁ、宝くじを買わないことは社会的にも別に問題のあることではないので、こんなお題にでもならない限り普段は忘れているようなことだよね。もちろん、買わなくても、宝くじを買う自分を想像してみることはときどきある。そうするとたいてい、はっきりした感覚ではないのだけれど、
なんだか怖い、という感覚にもわっと包まれる。何が怖いのか。お金をつぎこむこと、宝くじが外れること、それは別に良い。
宝くじに当たってしまうことが怖いのである。
何を言ってるんだこいつは、な話ではある。だいたい、宝くじなんてまず当たらない。それはそう。確率の話は誰かが書いてくれるかもしれない(丸投げ)。で、まぁ、それはそうなんだけれども、それはそうとして、一億円とか三億円とか当たったときのことを想像してみると、とても怖いのだ。おそろしい。ぽんっとそんなお金が手に入ってしまったらぼくが直面している問題の半分くらいは解消されるだろう。
それが怖い。今までちょこまかちょこまかとやってきたことが全て吹っ飛んでしまう……ような気がしないだろうか。ぼくが悩んでいたことはなんだったのか、来週の食費とか綿密に計算しながら生きていたりしたぼくはどうなるんだ、金銭的な理由から見切りをつけようとしていたあれこれはどうすればいいのか、すべて考え直しというか、考えることが馬鹿らしくなる次元に飛ばされてしまいそうである。不謹慎な喩えで申し訳ないけれど、
大災害が起きてふだんあった生活そのものが消えてしまう事態に近いものをぼくはそこに感じるのだ。
加えて、ここからは自分でもきちんと説明できない話になるのだけれど、ぼくは
「暴力的な甘やかし」というものに恐怖を感じるのである、昔から。これは何故と言われても、ほとんど反射的に、としか言えなくて、もし近い感覚をお持ちの方がいればぜひ言語化してほしいし、逆に意味わかんねぇよって人は無視してもらっても構わないかなーみたいなそういうやつ。暴力的な甘やかし、例えば、頭の中で
「さぁあなたはここでなにしてもいいわよーなにたべてもいいわよーめんどうなことはなにもしなくていいのよーうふふ」みたいな状況におかれることを考えると、理屈で考える前に
気持ち悪いと思ってしまうのである。(理屈で考える段階になると、そういう状況うらやま!!素晴らしい!!とか言うと思うけれど) なんなのだろう、これは。宝くじにあたった状況というのは必ずしもこういうものと同じ状況ではないと思うけれど、まぁ、このよくわからない感覚も宝くじへのもやもやを増幅させているのは確かである。
ところで、宝くじが当たることが怖いというのは、一見、お金にこだわりがない人の発言のように見えるかもしれないけれど、ぼくは逆だと思う。むしろこれは、ぼくが
金銭という価値基準にこだわっている証拠なのだ。多少語弊はありそうだけれど、ぼくがぞわぞわしているのは、
価値観を変えることを余儀なくされる異常事態に対してだ ― とまぁ言って良いだろう。そして、「3億円が当たったことによって変えなければならない価値観」というのは、当然、金銭に関するもの
だけなのである。ということは、これまで「
自分の行動を決める重要な基準として、金銭という要素を使う」ことを繰り返してこなかった人であれば、その部分にどんな大変化がおきたところで、今まで通りに暮らしていけるだろう。ところがたぶん、今のぼくは、そうではない。いやだいやだと言いながら、貨幣に価値をおきながら生きている。
貨幣にしばられているのだ。つらい。どうしようもないけれど、自覚くらいはしておきたい。
そんなわけで、宝くじが怖い。怖いということは、ぼくはお金に価値をおいて生きている。その価値が転覆するのが怖い。資本主義から逃げられない。いや、本当は多少逃げる方法があるということも様々な例で知っているのだけれど、逃げていない。
たぶんこの価値観によって何かしらの恩恵も受けていて、そのぬるま湯に浸かる方を結局は選んでここにいるのだと思う。宝くじに当たってのんびり暮らしたいですかと聞かれれば、まったくその通り、ぜひとも当たりくじを買ってぼくにプレゼントしてくれよぉと答えるけれど、同時になんだか心が
ざわっとしてしまう。その心の
ざわっこそが、ぼくが
「気にしてないっすよ~www」と笑っていることを本当はめっちゃ気にしてるということの裏返しなんだと思う。みたいな話。
……まぁ、でも、何億も当たったらとりあえず最高だろうなぁ。
おわり。ちくわでした。
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