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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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そんなことよりチョコを楽しもう。 / 著者:めがね - ch15


そこで何をするつもりだったかって、言うとさ聾唖者のふりをしようと思ったんだ。
そうすれば誰とも、意味のない愚かしい会話をかわす必要がなくなるじゃないか。
誰かが僕に何かを言いたいと思ったら、いちいち紙に書いて手渡さなくちゃならないわけだ。
しばらくそんなことを続けたら、みんなけっこううんざりしちゃうだろうし、
あとは一生誰ともしゃべらなくていいってことになっちゃうはずだ。
みんなは僕を気の毒な聾唖者だと思って相手にせず、放っておいてくれるはずだろう。

The Catcher in the Rye
J.D. Salinger
翻訳:村上春樹

前回の更新よりもだいぶ間隔があいてしまいました。こんにちは。めがねです。
先に述べておきますが私は重度のチョコレートジャンキーであります。
と、同時にきのこたけのこ戦争におけるきのこ厨と言われる人種でもあります。
しかしながら、きのこたけのこ戦争に加担する気など毛頭ございません。
なぜならば、私はチョコレートを愛しているから。
ではそんなこんなで、chiasma 15:「きのこたけのこ戦争の理想的な終わり方」始めていきます。
よろしくお願いいたします。

・明治製菓がつぶれてしまえばいい
極論だがこれが一番手っ取り早い。争いの元凶たる商品を提供する明治製菓が潰れてしまえば、戦いなど怒らない。火のないところに煙は立たぬ。ということわざ通りだ。
戦いをしていた者たちもきっと戦いをやめて明治製菓の復活を祈るだろう。もしかしたら、復活の為に手だって取り合うかもしれない。一致団結というヤツだ。
しかしながらこれはナンセンスだ。
明治製菓は大企業である。吹けば飛ぶような中小企業とは違う。
仮にきのこの山、たけのこの里が無くなっても新しいコンテンツを開発して、きっとそこでまた派閥争いがおこる。まったくもって阿呆くさい。ではどうするか。私は一つの結論に達した。

・傍観者に徹する
前口実で述べたが私はチョコレートをこよなく愛している。一日1P何かしらのチョコレートを食べている。それぐらいチョコレートが好きだ。
きのこの山、たけのこの里を食べるという事はそもそもにチョコレートが好きで購入しているはずだ。
なぜ、チョコレートが好きなもの同士で貶め、貶し合わなければならないのか。
なぜチョコレートの中で優劣をつけなければならないのか。
チョコレート分離主義。良いじゃないか。チョコレート混合主義。良いじゃないか。
そもそもチョコレートが世の中に一種類しかなければ、食べ比べることも出来ないのだ。
LOTTEアーモンドチョコレートの控えめな甘さと明治製菓のアーモンドチョコレートの甘ったるい甘さも比べる事ができないのだ。
ポッキーのスティックにチョコレートをコーティングしてある食感とトッポの空洞にチョコレートを注入してある食感の食べ比べも出来ないのだ。
チョコレートが一種類しかない世の中を想像すると絶望する。
きのこの山のチョコとビスケットが分離したカリカリ感も、たけのこの里のクッキーにチョコレートがコーティングされたサクサク感も楽しむことは出来ない。
一括管理された一定量のチョコの量、コーティングされる素材は一種類。
なんて、ディストピアだ。信じられない。
戦争は破壊だけで何も生まない。巨乳貧乳論もそう。ゲームハード戦争もそう。互いに貶め貶し合うだけだ。生産性なんかあったもんじゃない。
だから、私はこの件にたいしてはうんざりしたので口を噤んで傍観者に徹する事に決めたのだ。闘争は人間の本能だ。これは仕方ない、振り上げた拳は振り下ろすしかない。
だが逆説的に言ってしまえば、拳を振り上げなければ振り下ろす必要はない。そんなことより揺り椅子に座ってチョコレートを楽しむ方が私にとっては有意義である。
これが、私のきのこたけのこ戦争の終わらせ方だ。

以上。

ばーいちゃ。

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chiasma 15:「きのこたけのこ戦争の理想的な終わり方」

chiasma 15:「きのこたけのこ戦争の理想的な終わり方」
・「そんなことよりチョコを楽しもう。」(めがね)
・「ケーキはおいしい」(西洋中世史たん)
・「きのこたけのこの境界線、それがぼくだ!」(ちくわ)




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chiasma 14:「私の数えてきたもの」

chiasma 14:「私の数えてきたもの」
・「数を算えるということ」(らららぎ)
・「生は死を召し捕り、死もまた生を召し捕る」(大人たん)
・「数を数える時間なんて僕らにはない」(こはく)


*前口上は皆さんが書く内容を制限するものではありません!皆さんはお題を見て心に描いた風景をそのまま書いてくださればよいのですよ。ここより下にある文章は、あれです、ガリガリくんの「あたり」のようなものです。お、なんか書いてある、別になくてもよかったけど、まぁあるなら暇なとき見るか、みたいな感じで、うちわパタパタしながら気楽~に眺めて下さいね(べ、べつに無理して読まなくてもいいんだからね!)

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標準語から関東弁へ / 著者:ゆうちゃん - ch7

こんにちは、ゆうちゃんです。

私の思い出の詰まったメンタルブロックについて、お話したいと思いますので、どうぞお付き合いください。

私は関西で生まれ、関西で育ちました。生まれてからずっと関西弁という言葉の中で生活をし、関西弁という言葉を使うのが当たり前になっていました。旅行等で関西を出るときも(中国地方、四国地方が多かったこともあり)常に関西弁を話していました。

そのため、関東の言葉もとい標準語を耳にすると、聞きなれない違和感とともに自分と違った言葉を話している彼らを軽蔑の眼差しで見るようになっていたと思います。標準語を話している人はみな同じ話し方をしているように思いました。その話し方から突き放すような印象を受け、標準語は冷たい言葉だというメンタルブロックが築かれたのです。

そんな私のメンタルブロックを壊すきっかけをくれたのが、居酒屋でバイトをしているときに知り合った方でした。東京から転勤してこられ、その店で私がバイトを始めたときにはすでに常連さんでした。はじめはメンタルブロック、苦手意識を持ちながら接していましたが、月日が経つにつれてその人自身とアイスブレイクすることができ、なんの抵抗もなく話せるようになったのです。このころから関東の言葉を耳にしても、違和感は感じるものの、「標準語だ」と思う程度になってきました。

そんな小さくなったメンタルブロックが外れたのはつい最近のことです。先日行われたなゆらぎ誕生祭で私のメンタルブロックは外れました。それは参加者の話し方や言葉、つまり、無機質で突き放すような標準言語、みんな同じトーン、みんな同じ話し方をしていると思っていたものが、実は違ったのです。

このなゆらぎ誕生祭で私にとってとても大きな発見となりました。同じ東京育ちの人であっても、話し方、イントネーション、間など人それぞれ違うのです。それを発見したとき、私の中で今まで「標準語」であった言葉が「関東弁」に変わりました。関西弁を話してる人がみんな同じ話し方やイントネーションではないように、関東弁を話してる人もみんな同じではない、そう気づくことができたのです。無機質なイメージだった言葉が、有機的な意味ある言葉へと変わったとき、私のメンタルブロックは外れました。

みなさんにとっては何気無く話している関東弁かもしれませんが、私のようになんらかの抵抗を持っている人も少なからずいる、と、知っていただけたらと思います。また、言葉はすごくおもしろいものです。地方ごとに方言があり、方言の中にも違いがあり、個人の中でも違いがある。
私にはまだまだ勉強しなければならないことがたくさんあるようです。

下手な文章にお付き合いいただきありがとうございました。




おーわり

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宝くじは夢を捨てるものである / 著者:こはく - ch13

皆々様こんにちは、こはくです。
今回は僕が提案させていただいたきあずま「宝くじについて思うところ」についてお話させていただきます。
ではでは、よろしくお願いしますね。

1.宝くじは夢を捨てるものである

2.お金のキャパ=ポケモンバッジ

3.自己成長のためのギャンブル

1.宝くじは夢を捨てるものである

基本的に僕は宝くじというものには否定的です。
理数系の人ならば宝くじに当選する確率がいかに非現実的な数字かを理論的に知っているでしょうし、過去に宝くじを何度か買ったことのある人ならば経験的にそれが当たらないことを知っているはずです(僕も含みます)。
それでもなお、それに望みをかけて毎シーズン数万円単位(数十万円?)で宝くじを買っている人がいますよね。
僕はあれをみて、何とも言い難い気持ちを覚えるのです。
僕が宝くじについて思うところ。それは、
宝くじを買うことは夢を買うことではなく夢を捨てている、それどころか自分自身すらも捨ててしまっている、ということです。

宝くじに限ったことではありませんが、外部の仕組みに自分の余剰を投入することで何かしらのリターンを期待するものは、結局自分で何かを生み出してはいません。
これは何を意味するのかというと、自分自身を無視した結果だと思うのです。
すなわち一種の現実逃避、現実に向き合えない人間が、宝くじによって自分を転生させようとしているように僕には思える。

「でも、どれだけ望みが薄くても当たるかもしれないじゃないか!
毎回数人だけど1等2等に当たっているんだから
って思う人がいるでしょう。
では仮に、仮に一等に当選したと仮定してみましょう。
その場合、僕らは幸せになれるでしょうか?
きっと、なれないと思うんですよ。
なぜなら僕たちは、そのお金の使い方を知らないから。
つまり自分のステージ、立ち位置に対する適切な使い方ができないということ。
「俺は大金持ちになったんだぞ!」という事実を回りに知らせたいがために、そして今までの暮らしとはかけ離れた生活を望むがために、一般的なステータスシンボルであるスポーツカー、ブランド物、豪邸を後先考えずに購入して、崩壊してゆくパターンがあとをたちません。
まぐれ当たりで宝くじに当選した人は、そうして自分を見失ってゆくのです。

2.お金の許容量=ポケモンバッジ

自分とはかけ離れた金額のお金を手にすると、自分が分からなくなり、最終的に破滅してゆく。
あぶく銭って本当に、役に立たないんです。
ただこれは、あぶく銭そのものが有害という訳ではありません。
僕が言いたいのは自分のステージ・自分のキャパを超えた金額が自分にとって有害になるんだ、ということ。
本来健康を維持するためのものであるD○Cなんかの錠剤タイプの栄養剤を過剰に摂取すると、逆に体を壊してしまうのも似たようなことです。
変毒為薬ならぬ、変薬為毒。
お金も、栄養も、恋人も、寿命も、自分のキャパを超えた量を手に入れるとそれは役に立たないだけでなく、自分を破壊してゆくのです。

例えば。
僕はファッションが好きですが、最近はブランド物を身につけることが増えました。
ルイヴィトンのアタッシュケース、ジョルジオアルマーニのビジネスシューズ、エトロの柄シャツにポケットチーフ、エトセトラ。
僕はこれらを着こなしていると自分で信じていますが僕以外の一般ピープルがこれらを持つと、ともすれば過剰な服装に見えかねません。
ユニクロのTシャツにエドウィンのデニムをはいた人がルイヴィトンを持っていると、それがなんだか滑稽に見えるのはみなさんも共感できるはずです。
これらのアイテムはその人、ユニクラーのキャパを超えたものなのです。
僕がブランド物を身につけても過剰にならない理由は単純明快で。
ファッションと長く、深く向き合ってきたからです。
僕はファッションに関して他の人と比べられないほどの背景、バックグラウンド、コンテクストを持っています。
「自分に似合う服装とは何か?」から始まり、それぞれのメゾン、ブランドの成り立ちも調査しました。
メゾンのショップに行き、毎回数時間以上店員さんとお話しながら服と触れあい、常に新しい思想を取り込んでいます。
こういった前提を踏まえないまま単なるステータスシンボルとしてブランド物を買う人は、残念ながらそれを持つにふさわしくないのです。
もちろん、僕もまだまだ発展途上です。
ジュエリー関係―特にダイヤなどの宝石がついたジュエリーですね―は自分のキャパを超えたアイテムだと思っています。
僕が宝石を指にはめ、腕にはめ、耳につけるとただただギラギラしてしまうはずだと分かっています。
ジュエリーはまだ僕にはふさわしくない。
ファッションと付き合っていけば、いつかそれらを身につけるステージにたどり着けると思って、日々努力している次第であります。

で、これらのことを宝くじ、手にする金銭に当てはめるとつまり、自分のステージにふさわしい数量、自分が扱うにふさわしい金額というものがあるということになります。
「じゃあどれくらいが自分のキャパなの?」って聞かれると、明確に答えることはできません。
ふさわしいキャパというものが体系化されていたら、宝くじで破滅してゆく人なんているはずありませんから。
ここではひとつ、メタファーをお話したいと思います。
自分のキャパがどれくらいのものなのかを、理解するための材料としてのひとつのメタファー。それが、
ポケモンバッジです。
ポケモンバッジが僕たちのキャパシティを意味しています。
友達から交換でもらったポケモンって、レベルが高すぎると手懐けることができないんですよね。
トレーナーの命令は聞かないし、場合によっては自分で自分を攻撃したりして、どうにも手に負えない。
宝くじで高額当選した人はまさにこの他人からもらったポケモン、しかも通常プレイではありえない、レベル100オーバーの怪物をバトルに使っているようなものです。
数ターン後には、自分がそれに踏み潰されることも知らずにね。

直接僕たちには見えていませんが、4等や5等、100万円や10万円のような一見すると何の足しにもならない額のお金を手にした人でもそれを使う自分のキャパが足りないために、崩壊してゆく人もいます。
「100万円あったら今年中は仕事しなくていいじゃん!もう辞めちゃお♪」って言って本当に仕事を辞め、そして来年から路頭に迷う人なんかを想像していただくと分かりやすいかもしれません。
こう考えていただくと、自分のキャパが今どれくらいで、仮に宝くじに当たった時に、本当にそのお金を正しく扱うことができるのかを考えることができるのではないでしょうか。

…これは、僕たちは子供の頃は当たり前に知っていたことです。
友達にレベル70のミュウツーを借りても、カスミを倒すことはできません。
それなのに、大人になると僕らはそれを忘れてしまいます。
死ぬまでバカは治らない、彼らは自分を傷つけるミュウツーで人生というゲームを全クリしようと尽力しているのです。

3.自己成長のためのギャンブル

もちろん、自分を捨てるために賭け事にいそしむのではなく自分を磨き、成長させるためのツールとして利用するのならば、それは素晴らしいものになるでしょう。
このブログの創設者のひとりであるらららぎさんの個人ブログにこのようなことが書かれていました、引用させていただきます。
父が私に教えてくれた競馬は、ギャンブルの本質にかなり近いものだったと評価したい。
つまり、12レースの全体をどうやって負け進んでいくかということを教えてくれた。
競馬新聞に赤ペンを入れることでもなく、一攫千金を狙うことでもなく、ただひたすら、朝から夕方までレースに関わり、それぞれをよく観察し、どこで何にどれぐらい賭け、それをどこでどんな形で回収するのか、という問いを立てて考えることを教えてくれた。
(らららぎさん個人ブログ - ケルクショーズ・イリヤ2 第30稿「私の自己紹介」より)
競馬とはつまり依存、頼りきりになるようなものではなく、自分がひたすらに思考するため、自己成長のためのツールとして存在している、と僕は解釈しました。
競馬は決して自分を捨てるもの、思考を停止して組み合わせ・数列のサイコロとして見るようなただの運試しではなく、人との対話のためのもの、人との関わりを仲立ちしてくれるものなんだ、と。
他の誰でもない、自分が価値を生み出していることを思い出させてくれるものなんだ、と。
僕はこれを読んでそう感じました。

僕たちはチャンピオンリーグにたどり着けてはいません(ポケモンの話に戻っています)。
僕たちはまだワタルと戦う資格を持っていませんし、サトシと戦えるのはそのもっともっと先の話。
彼らのもとへたどり着き、互角に戦うには、まず自分が成長することが必要なのです。
自分が歩き、悩み、考えた結果として手に入れられたポケモンで、道を歩んでいくしか道はないのです。

以上、今回はこれにて終わりです。
ありがとうございました。
こはく

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声に出す、難しさ / 著者:江藤あかり - ch6

「なぜ伝言ゲームは言葉を正確に伝えられないのか」

結論を先に述べると、「文字で見えないから」。きっと、伝言ゲームが文字で伝えるものであれば、正確に伝わるでしょう。むしろ正確に伝わらないのであれば、文字というツールが機能しませんし、メールや手紙といった文化も発展しなかったはずです。

では、文字として伝えない場合は正確に伝わらないのでしょうか。伝言ゲームは「口から発せられる言葉」で伝えるゲームですが、変則ルールとして「絵」だけで伝えるルールである場合もありますね。絵で伝える場合、言葉での説明は禁止され、紙や板に書いた絵を言葉の代わりに伝えていくルールになります。

「絵で伝言ゲーム」、テレビのバラエティ番組でたびたび目にするぐらいですからだいたいがうまくいかないものです。全力でもわざとでも、絵に関する技術が個人差に大きく左右されるからこそ、うまくいかないのでしょう。うまくいかないのが面白いんですが。

言葉の伝言ゲームでもおそらく同じです。言葉に関する技術が個人差に大きく左右されるから、うまく伝わらないものになるのではないかと。聞き手が普段聞きなれない言葉や文章を、声に出して伝えるというのはとても難しい。東京で生まれ育った人間が、関西弁を自然に発音することはほぼ不可能、それに似ています。小学生の頃に宿題で出た音読、あれはいつも口にしない文語をあえて声に出すことで文に慣れる、伝言ゲームのトレーニングといっても過言ではありません。

普段聞いている言葉というのは、育つ環境や置かれる立場で人それぞれ異なります。その環境や立場による言葉の解釈の違いがあるために、正確に伝わらない。伝わった単語や文章を、普段聞き慣れている単語や文章に無意識に変換してしまう。それが、伝言ゲームが正確に伝わらない原因なのではないかと思います。それが文字であればきっと正確に伝わるのでしょう。

あと原因が考えられるとすれば、ゲーム参加者の遊び心、なのではないでしょうか。

(編集責任ちくわ;改行を頼まれました)

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しちてんばっとう / 著者:西洋中世史たん - ch2

断念したことってなんでしょうね。


多分色々なものを断念してきました。理系に進まなかったり、スポーツ選手にならなかったり。

(なれなかったとか、い、いっちゃ、やなんだからね///)


生きるということは、可能性を捨てることだ...と、私は言います。


生きていく中で、みんな大なり小なり「可能性」を持っています。みんな、だれもが、多分、なんでもできる「可能性」はあるのです。


そこの「運」とか「性格」とか「環境」とか、様々な要素が加わって、いろんな可能性を捨てながら生きてるのです。


努力でどうにもならないこともしばしばですね。


生まれる場所はヨーロッパが良かったといっても、そこは断念するしかありません。

そう考えると人間は無限の可能性を秘めつつも、所与の条件によってほとんどのものに制約をかけられるのですね。


私は、いま、人類学も勉強したいし、フランスとイギリスにも住んでみたいし、ちょっと変わったカフェも経営したいし(これはちょっと本気で考えてるんですよ)、獣医さんにもなってみたいし、オーストラリアで牧場を持ってみたいです。


でも、如何せん、私の時間は限られてます。能力も限られてます。努力ではどうにもならない部分も多々あります。


こうして私はこれからも、色々なものを捨てながら、でももしかしたら、運良く復活させながら、そして思っても見なかったものを手に入れながら、生きていくんだと思います。


人生、どうころんでも、なるようになるのですね。

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