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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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それは根拠を求めたから / 著者:大人たん - ch23

「自分には代わりがいくらでもいる」という命題、それは思春期の少年少女エブリバディが思い悩むこと——という風に御題で紹介されていましたが、私の思春期に、そのような悩みはありませんでした。かつて一度も悩んだことがありません。

そんなこと言うと、大人たんはもしかしてまだ世襲制なのですか? みたいな誤解をされてしまうかもしれませんが、もちろん世襲制でもありませんよ! 私は自分で自分の就く仕事を見つけました。

では、なぜ「そんなこと」に悩まないかというと、別に根拠を求めていないからです。いまの自分が考えていることは(他人からみて)正しいかなとか、いまの自分がしていることは(他人からみて)合っているだろうかとか、そういうことを考えないので、やることなすことに根拠が要らないんですね。今風に言えば「無責任」ということです。

ちょっとデリケートな話題ですけれど、「福島県産の野菜」と言われて、たぶんうちの母親ならヒステリックを起こすのでしょうけれど、私は「別にどこの野菜でもいい。食べてみて美味しくなかったら普通に次からは買わない」というスタンスをとっております。

私、自分以外のものにいちいち頼りながら選択するの嫌いなんです。

福島県産の野菜だったら、「専門家」とか、「被曝数値」とか、「政府の発言」とか、「農家への社会的同情」とか、「風評」とか、いろいろな情報がありますね。そういうのに頼る人は、そういう情報をネットやテレビでかき集めて、吟味して、根拠として成立させようとします。食べる/食べない(スル/セザル)の選択は《自己責任》だから、そうやって頼りになる何かの情報を「言い訳」にして、生きていくわけです。

でも、それって、ちっとも「自己責任」じゃないんですね。単に「最終的に選んだのが自分」なのであって、その根拠となる情報は外部にあります。誰々がこう言ってたから、どこどこでこういうことがあったらしいから、数値によればこうだから、そういう根拠を集めたところで、自分という人体にとって安全かどうかなんて分かりっこないのです。「正確な選択」というのは、彼方まで行ってもやってきません。選択の責任を取るために情報を集めていたはずが、いつの間にか他人の情報を言い訳にしようとしているのです。

つまり、自己責任というのは、集めた外部の情報を《越えていく》ことであって、集めた外部の情報に日和って埋もれていくことではないのです。他人が言っていること、他人が教えてくれたこと、そういう貴重な情報を受け取り、もちろん尊重したうえで、自分で決めるために《踏み越えて行く》ということなのですね。

なぜ私たちが「自己責任」なんてことに悩み始めたのかを話すと長くなってしまうので避けますが、「ギデンズの再帰性」「ポストモダンとヘーゲル批判(国家・道徳・真理)」などに関連することをお調べいただくと、ある程度は分かってくると思います。

さて、本題です。

自分には代わりがいくらでもいる、そう思ってしまうのは、根拠を求めてしまうからです。つまり、自分の固有性を確かめようと、それを保証してくれる情報、それを確実にしてくれる情報を探し回ってしまうのですね——まるで福島県産の野菜が安全かどうかの根拠を探すように。

それを俗に《じぶんさがし》なんて言ったりするわけですが、そんな根拠を「どこか」に求めてしまった時点で、言い訳する気まんまんということになります。親の言葉だったり、友だちの言葉だったり、占いの言葉だったり、カウンセラーの言葉だったり、ネットで見つけた言葉だったり、同じクラスタの言葉だったり、宗教の言葉だったり、そういった誰かの言葉を言い訳にしようとしているのです。自分を探そうとしていたはずなのに、いつの間にか誰かの言葉を探そうとしてしまっているのです。

昔は、そんなの探さなくても「神」とか「先祖(家系)」とかそういうのが《当たり前》だったので、「選ばない責任」に気付かなくて済んでいたわけです。でもいまは、自己責任という概念が流行していて、国家の言葉も、道徳の言葉も、真理の言葉も、神の言葉も頼りにすることができなくなり、自分が「選ばなかったこと」にさえも責任があったことに嫌でも気付くようになりました。

だから、「それに早くから気付けなかったことをコンプレックスに思っている親(私の人生がうまくいかなかったのは早くから気付けなかったせいだ!と思い込んでいる親)」が、自分の子どもに習い事をさせて、選択肢の幅を広げようとするわけですね。そして子どもは、何でも選択できるのだと知り、今度は「何でも選択できるのだから、何かを選択するためにはそれなりの根拠が必要である」と気付き、一生懸命に根拠を探すようになります。

ピアノも習った、習字も習った、剣道も習った、ダンスも習った、英会話も習った、作文も習った、絵画も習った——さてその子は「自分の人生が唯一無二であることを証明するために、どんな根拠で、どの道に進めばよい」のでしょうか。そして、その根拠は、巨額の富を子どもに投資した親(投資家)を満足させるに足りているでしょうか。

親切に提供された豊富な選択肢を前にして何かひとつを選ぶとき、《考えるまでもなくそれが当たり前だから》では許されないのです。固有性というのは、それが当たり前だからという根拠以外では成り立たないのに、選択肢が平等に並べられ、それに「客観的な=他人と一緒に納得できる」根拠が求められたとたんに、固有性は失われてしまうのです。

いまの時代は、もう、「それが当たり前だから」という根拠が通用しなくなっているのです。「いろいろな習い事をさせてもらったけれど、やっぱり私はこの道をいきたい。なぜならそれが考えるまでもなく私にとって当たり前のことだから」という説得に納得する親は、もういないんじゃないですかね。きっと「考えるまでもないってどういこと、ちゃんと考えなさい、あなたの人生なのよ、一回きりなのよ、もう一度、真面目に考えなさい」みたいなこと言うんじゃないでしょうかね。

固有じゃない、つまり代替可能なのも大変ですが、固有なのもまた大変な時代なのかもしれません。どっちにしろ、たくさん不安になると思います。

私は、すごく単純に言って、私の人生のことでいちいち誰かを納得させるだけの根拠を見つけてくるのが面倒なので、無責任に生きているだけですが、それが固有性に繋がっています。きっとその根拠を求め始めたら、一気に「交換できる存在」になってしまうのでしょうね。

つまり…

大人たん「私の人生は固有です。なぜなら考えるまでもなくそれが当たり前だからです」
他人「?????」

という人生を送るか、

大人たん「私の人生は固有です。なぜなら私には先祖がいて、代々家系があり、私はその大きな物語を受け継いでおり、この時代の、この場所に、奇跡的に生まれたからです。あとこんな特殊な技能も持っています。私はこんなに変わった人です。どうか変態と呼んでください。希少価値のある言葉で私を認めてください。私はとても貴重なんです、サブカルなんです」
他人「それは分かりましたが、それは誰でも、大小あるものの、みな同じですよね?」
大人たん「はい…そうですね…(私の人生なんて代替可能なんだ…ッ!)」

という人生を送るか、ということです。

根拠をどんなに挙げたところで、その根拠が他人のものでもある以上、代替可能性が見え隠れします。だったら、もう面倒だから、一般性のある根拠なんか提示しないで、「それがそうであることが当たり前だからです」と言ってしまえばいいのだと思いますよ。

「自分の代わりなんて〜」と悩んでいる自分が好き、という特殊な嗜癖を持っている方でなければ、今すぐに固有の人生を送ることができます。他人からの理解や共感は一気に減りますが、それが固有に生きるということです。他人と群れたり、集団に埋もれたりすることに安心感を憶えるのであれば、別に無理して固有になる必要はないと思います。代替可能であることを嘆くこともないと思います。

自分の好きなほうを、好きな風に生きるのが、ベターだと思いますよ。









(編集責任:らららぎ)

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大人たんは大人になりたかった / 著者:大人たん - ch3

「お酒は、美味しいよ」 - と、誰かが言います。

お酒も、麻雀も、株取引も、ファッションも、結婚も、塩辛いものも、社交ダンスも、通勤読書も、畳も、そういうものの「良さ」や「魅力」のようなものが、ずっと分からなかったのです。オトナになったら分かるよ、という常套句ばかりが宙を舞い、私の一端の思春期は、「オトナ」というものを何一つ掴めずに、緩やかな失望と共に終わっていきました。

大人という言葉には、これまで、たくさんの人がたくさんの意味を与えてくださり、手垢でびっしり、油汚れ大好きなジョイをいくら投入したところで、もうその汚れ(歴史)が落ちることはないでしょうね。精神的に成熟することだとか、20歳を越えて自責を理解することだとか、子ども期を経たがもう子どもではない存在という否定形の定義であったり、社会に出たら大人だという考えの人もいると存じております。

だから、「大人とはこういうものだ」という単一の見解を打ち出したところで、その定義はすぐに現実という手のひらの指のあいだから、ぽろりと零れ落ちてしまうようなものなのだと思うのです。そのため(というわけではありませんが)、大人たんのつぶやきでは、何回も定義し直すことを試みており、現在は92個(+α)の更新があります。たとえば、

大人というのは、諦めながら探すと探し物がうまくいくことを知っています。備え付けの不器用さのせいで、私たちはついつい「ない場所を探してしまう」ものです。そのうえ同じところを探してしまいます。「探している場所を優先的に諦めて何度も切り替える」ことで、探し物はうまくいくのです。(92)

大人というのは、没批判的になれる人です。誰の悪口にも共感せず、誰の愚痴にも同情せず、誰の嫌味にも激情しません。しかしそれを無視するわけではなく、バランスのよいところに立って、それらの「言葉の裏地」にある隠されたままの感情まで、奥深く聴いてあげることのできる人なのです。(26)

大人というのは、幸か不幸かという稚拙な二項対立に逃げ込まず、「幸福だった日々にも増して、不幸だった日々でさえも捨て難く思えるか」を問い続ける人のことです。不幸だった日々に敢えて人生を見出すことで、「自分の人生を全肯定すること」を誰かにしてもらうことなく自分で出来るのです。(51)

このような方式を採用しており、フォロワーさんの方に、できるだけ「大人というのは種々様々だし、種々様々なのが大人なのかもなあ」みたいなことを感じていただければなあと思って、ゆっくりではありますが、少しずつ、着実に、定義(のやり直し)を増やしております。

その中で、定義とは関係なく、「大人たんは大人だなあ」と感じていただくことができれば、私の居た意義もあったのかな、なんてことを思うのです。たくさんやり直してきた大人の定義の中から、あるいは私が何度も何度も定義をやり直すその姿から、<自分なりの大人というもの>の切れ端を見つけ出し、その種を大切に大切に育てあげていき、「最初の切れ端は、大人たんから見つけ出したものだけれど、今はもう私が私のために育んできた<大人というもの>を持っているんです」という境地(?)にまで至っていただけたら嬉しく思います。

要するに、大人というのは、「自分だけに宛がうもの」なのです。私にとっての大人、という在り方しか、現実には無いのだと感じております。それは、どうしても、自分で見つけるしかないものですし、他人から丸ごと与えてもらうものでもないのです。それぞれが、どこかのタイミングで、「あ、こういうのが大人なんだな」と感じ、それを自分のなかで仕上げていくことで、それぞれの"大人観"みたいなものが萌えていくもの。

私が初めて大人を感じたのは、お酒の席にお呼ばれして、お酒を楽しそうに呑んでいる人たちを見たときでした。隣の方に「何がそんなに美味しいのですか」と尋ねると、「んーよく分からないけれど、お酒は、本当に美味しいよ」というのです。ビールは苦いし、カクテルならジュースの方が良いし、日本酒はまるで罰ゲームだし、ウイスキーは味がイライラするし、スピリタスは自傷行為だし、果実酒はやっぱりジュースの方が良いし…なんてこと思ってたら、ますますお酒の何がよいのか分からなくなっていきました。

それから幾年か経て、懸想人にたくさん飲まされ、だんだんとお酒へ接近することへの抵抗がなくなっていき、少しずつではありましたが、お酒の美味しさというものを掴みかけたのですね。(逆に言えば、お酒の美味しさというものが私の心のホックに引っかかってくれたということです)。そのとき、「私の知らないお酒という理法を、あの人たちは理解していたんだな」と、しみじみ思いました。

「あの人たちは、私の知らない楽しみ方を、心から知っている」というのは、私にとって「大人」を感じるのに充分な事実でした。それからというもの私は、大人がどんな理法(私の知らない物事の楽しみ方)を知っているのだろうか、興味がどんどん湧いていきました。

「生主」なんて言葉が完成する前に、ニコニコ生放送をやってみた時期もあります。碁打ちに囲碁を習ったこともあります。パンを焼いてみたこともあるし、社交ダンスを踊ってみたこともあります。俳句を詠んでみたこともあって、株取引をやったこともあって、有名人の講演会にも参加したことがあります。

どれも「何でそれを面白いと思っている人がいるのだろう」というのが、行動の火種でした。そのとき「私は子どもなんだな」と悟ったのです。何でもかんでも興味を持って走り回っている自分をメタ認知(というか俯瞰視)して、これはまさに子どもじゃないか!と喝采しました。何の理法も知らなくて、何の楽しみ方も知らなくて、大人が楽しんでいる「それら」に、ただ必死に、しがみつこうとしているだけの、未熟な子どもなのだと感じました。

今は少しぐらい大人になれたでしょうか。少なくとも、自分のことを子どもだと思っていたときに知らなかった理法を一通り知ることができ、それに少し満足しているから、「成長」とか「成熟」みたいなものはあったのかもしれませんね。もちろん「私なりの」という枕詞が、そこには必要ですけれども。

というわけで、これはあくまで「私にとっての大人」「私なりの成熟」の話ですが、みなさんが大人になるときのヒントにでもなれば、とても嬉しく思いますよ。

それでは、また会いましょう。

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ネコの尻尾の耐えられなくない軽さ / 著者:大人たん - ch2

ネコ二匹、これが我世界である。しかもこの二匹のネコが余には多すぎるのである*1。

私、ネコ大好きなのですが、そう言うとみなさん、「ペットとして(猫可愛がりの対象として)」という固定観念も同時に鳴り響くのではないでしょうか。実はですね、「コミュニケーションのロールモデルとして」という意味合いで好きなのです。(もちろん、ネコを猫可愛がりしたい!、という気持ちもたくさん持ち合わせております)。

すなわちすなわち、私の断念したこと、それは「ネコになること」です。

「コミュニケーションのロールモデル」というと横文字ばかりで、どこの外資系の企業だよ!、と自分ツッコミを入れたくもなりますが、きっちりと日本語に直せば、「人と交際するときに、あのやり方いいな、その考え方いいな、参考にしたいなって思えるひとつの様式(をネコに見いだしている)」ということでございます。

ネコは尻尾を振ります。ネコだって、色々なことを考えているのでしょうね。その振り方が、シチュエーションや気分、相手によって、少しずつ異なっているのです。なかでも本当に羨ましいのは、「コミュニケーションをギリギリのところでサボらない姿勢と、それを実現可能にする尻尾の振り方」でした。

それについて手短に説明して、余談を長引かせて、終わりにしますね。
どうか、お付き合いくださいませ。

割合にせよ回数にせよ、かなり多くの場合、ネコは私のことを構ってくれません。「ネコ~!」と言い駆け寄って行っても、「ご主人、それうざいっすよ」ぐらいの眼差しを私に送っては、そそくさとその場からログアウトしてしまいます。

それでもネコも「無視はさすがに悪いかな、呼んでもらえるのは結構嬉しいし」なんてこと思ってくれているのか、返事はしないし、見向きもしないけれど、呼び声に合わせて自分の尻尾を相づち程度に振ってくれるのです。「それ相づちのタイミングとして最悪だよ!適当に振りすぎだよ!」と思うこともありますが、とりあえず「聞いちゃいるよー」ぐらいにほんのり優しく ー つまりギリギリで礼を欠かないレベルで ー 尻尾を振ってくれます

これを小さいころから見てきて、いいなーいいなーって思ってきたけれど、どうすれば「ネコが尻尾を振るようにコミュニケーションする」ことができるのか分からずに、ずっと断念してきたのだと思います。

「ああ、はい、そうですか」というビジネスライクな相づち、「うん、おっけー」という既読スルーじゃないですよアピール、「さすがですね」という心も何もない褒義詞、嗚呼、なんて要らないんだろうと世界を祟ったこともあるかもしれません。大人になってからも、子供のときも、尻尾が欲しいと願っております。

哲学者の千葉雅也さんが提唱している「接続過剰」*2の問題は、ネコの尻尾的処世術が解消してくれるように思うのです。

そこでまず言わねばならないのは、「しっかりしすぎてはいけない」*3ということでしょう。しっかりしすぎてしまう ― 理由はさまざまでしょうけれど、好かれたいとか、信用されたいとか、そうしておけば無難だからとか、監視されているからとか、そういう教育を受けてきたから ー つまり教育の「しつけ糸」を外してもらう前に義務が終わってしまったから ー とかが思いつくあたりですね。

たとえ話ですが、近所のスーパーで100円の安っちいポップコーンを購入したときの店員さん。「いらっしゃいませ」と深々としたお辞儀、狂いのない分度器で測っているかのような美しい角度はロボットのようで、指二本で持てるほどの重量しかないポップコーンを両手で優しく持ち上げ、優雅な動作でレジの左辺へ移項しました。(移項したので私の財布にマイナスの符号をつけなくてはっ!)。

料金を嫌みのない声で読み上げ、しっかりと言い終わってからレジ袋を取り出し、私が100円を探している隙をみてはすかさず丁寧に袋へ入れるのです。丁寧さに余念も御念もなく、それはまるで意志のうえにも惨年、といったところ。言葉遊びがすぎましたが、私の汚い1000円札を喜んで受け取り、わざわざ料金と受取金額を二度見してから小計ボタンを押しました。その間にも「お客様のお金は大切に扱っておりますよ」と言わんばかりに、お札が見やすい位置に立ててあるのです。汚いのが恥ずかしいぐらいに堂々と立ててあるのです。

どんな訓練を受けてきたのか、素早く正確に4枚の100円玉と1枚の500円玉を取り出し、それとほぼ同時にセットアウトされたレシートをきれいに千切り、財布に入れやすいような乗せ方と角度で、これまた両手で差し出してくれます。私がモタついても嫌な顔せずに、「大丈夫ですか」と声かけまでしてくださった。無事にお釣りをしまうと、私がサッカー台へと動き出すベストタイミングで、「ありがとうございました、またお越しくださいね」とポジティブなトーンの声 ー まるで無垢な笑顔が大きく手を振っているかのような声 ー で、私の背中に後押しをくれます。

この一連の感情労働(接客)に対して、商品を含めて100円しか払っていない私は、とても情けなくなりました。善いのか悪いのか、私には「丁寧すぎる」のです。喜ぶべきことかもしれませんし、店員さんは慣れきっていて何も感じていないかもしれません、が、「丁寧すぎてはいけない」と叫びたいのです。

丁寧すぎというのは、無難のみを過剰に求めた結果です。無難は、堅牢さです。殻性といってもいいぐらいです。「重たい」殻で身を守っているのです。相手のことを神聖化(他者という場所を聖域化)するためには、「私はあなたに攻撃意志を全く持っていませんよ」ということをオーバーアクションで示さねばならないのです。そういう時代の趨勢なのかもしれませんね。

剣道において、相手への"敬い"*4というのは「蹲踞」「帯刀」で表現されるでしょう。つまり、「これからあなたと剣を交えさせていただきます」という静かな構えと、「これより剣を一切交えません」という控えめな姿勢。これだけで充分です。敬いの念というのは、静かでいいし、控えめでいいと思うのです。それだけあれば「乱暴ではない、攻撃ではない」ということが示せるはずなのです。

オーバーアクションというのは、自分が「軽い」ことを悟られないように「過剰に重くする」表現技法のように感じます。たとえば、「好きだ」といってバラの花束を幾つも幾つもくださる殿方。少女漫画に影響を受けすぎてしまったのか、あまりに過剰すぎて少し気色が悪いよう感じます。自分が「ペラッペラであること」を隠すために、「重たい重たい」バラの花束を"装填"するのです。

ブランド品を身につけることも似たようなところがあるでしょう。「物がいいから」というのは、私もたくさん勉強したので理解できるようになりましたが、「物がいいのは分かったが、だからなぜ身に付けるのか」ということを誰も自省しないのです。物がいいことと、何某が身に付けるべきということは、全く無関係です。「私が身につけるものは、最低限のものではならない」という過剰志向 ― 軽いことを悟られないために過剰に重いものを身にまとおうとする傾向 ― があるように感じます。

それが悪いということを申したいのではありません。そういうことに気付かないと、あらゆる生活、あらゆる思考、あらゆる関係が過剰になっていって、ついには「修正できないほど行き過ぎてしまう」こともあるのではないか、と、警鐘をチリンチリンと鳴らしたいのです。

ゆっくりと、ネコのことを考えなおす方向に向かいたいのですが、その前に寄り道をしましょう。

われわれの人生の一瞬一瞬が限りなく繰り返されるのであれば、われわれは十字架の上のキリストのように永遠というものに釘付けにされていることになる。このような想像は恐ろしい。永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。これがニーチェが永劫回帰の思想をもっとも重い荷物(das schwerste Gewicht)と呼んだ理由である。もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである。だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?その重々しい荷物はわれわれをこなごなにし、われわれはその下敷になり、地面にと押し付けられる。しかし、あらゆる時代の恋愛詩においても女は男の身体という重荷に耐えることに憧れる。もっとも重い荷物というものはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同時に無意味になる。そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか?
(ミラン・クンデル『存在の耐えられない軽さ』訳:千葉栄一、p.8~9より)

私はツイッターが大好きです。某掲示板で「大人たんは雑談が多い」と指摘されてしまうほど、雑談好きだし、ファボ好きです。ツイッターも某掲示板も、とても「軽い」ところが私のお気に入りです。著名人が亡くなっても、学者が搭乗している航空機が撃ち落とされても、政府の秘密文書が漏洩しても、大きめの不穏な地震があっても、そこには「日常を日常として営んでいる人たち」がありふれていて、事件や事故に対してそれぞれの感嘆詞を数回程度つぶやき、そしてまた日常に戻っていく、そういった軽さを提供し続けてくれます*5。

軽いことは「緊張感を無下とすること」かもしれません。軽さがあれば、失うものが少ないです。

「好きです」
『ごめんなさい』
「おっけー」

責任を持たないというか、重さを無しにして生きる人は、失うものが少なく、それは充実を諦めたという意味になるかもしれませんが、生きるのが容易いでしょう。クンデルさんの問うように、「われわれはどちらを選ぶべきだろうか」と考え、選択を下さないとならなのかもしれません。

余談ばかりで申し訳ありませんが(久々にまとまった時間をいただけたのでウキウキしているのが伝わりますか!)、先日はじめてローコストキャリア(LCC)を利用しての空旅というものを経験いたしました。安いです。飛行機なので速さもあります。便もたくさんあり、押し付けがましい接客もありませんでした。「ああ、これが軽さなんだ」と実感。どこにでも行きたいという軽さへの熱望をくすぐられました。いつでも-すぐに-安く-速くという軽さの四拍子を実現したローコストキャリアには、軽めの感動を、軽めに覚えました

それと較べて、徒歩は、なんと重たく、地面と接しているでしょうか。でも、私、徒歩も大好きですよ。変ですね。軽いことを望みながら、重いものも好きだなんて。でも実は理解しているんです。「重さも-軽さも、自分のためにデザインできるものなら、私はなんだって好きなんだ」ってこと。格安飛行機という軽さには、「哲学書」という重さを。徒歩という重さには、「散策」や「デート」、「路上弾き語り」という軽さを。私はそうやって、自分の好きなような軽重を求めているのです。

「家族という重さ」に耐えられないのではなく、まったくデザイン不能にされること(機能不全家族)がダメなのです。不良というのは、家族の耐えられない重さに少しでも「軽重の自分なりデザイン」を求めた結果ではないでしょうか。それは家族が過剰に重さだったために、過剰な軽さを生み出してしまうかもしれません。そのどちらに耐えることが良いのか、私には分かりかねます。

ボランティアというのは、優秀な軽さかもしれませんね。就活前に「ふらっと」孤児院に通い、ようやく心を開いてもらったかというところで、「ふらっと」辞めます。それで傷を深くした子どもを見たことがありますが、ボランティアはそういうことを気にしなくていいのです。アルバイト感覚のボランティア、困るけど悪いことではないのかもしれませんね。

正社員や起業という「責任の重さ」に耐えることも、またひとつの人生の充実感でしょうか。フリーターとして生きる「軽さ」に耐えて生きることもまた、美しいかもしれません。軽いとか、重いとか、ここで論じきるにはあまりにも無頼ではありますが、どちらを選ぶのが、良いのでしょうか。

閑話休題。ネコは、軽いでしょうか、重いでしょうか。軽さに耐えて生きているでしょうか、重さに耐えて生きているでしょうか。そういう目附きで見てやると、なんとも不思議な動物だと感じられるかもしれません。

変なこと申しますが、仏陀とネコは似ているのではないかと思うのです。仏陀は「言うことがコロコロ変わる人」だと御存知でしょうか。ある人には厳しく「重い」言葉をかければ、ある人には「軽い」言葉で諭すこともあります*6。そういう「去なし方」を人間が身につけることは可能でしょうか。私なんかが、弛みながら、ゆらぎながら、うまく前後左右のバランスをとって、静かに控えめに、他者と「やりとり」をすることができるでしょうか。

少なくとも、他者と過剰に接続したり、他者との関係を過剰に切断したり、そういう凝り固まった仕草をせずに済むのではないかと思っております。

ネコが尻尾を振るように、キャット・スウィング的な処世を、目指したいと思います。

以上が、大人たんの、こっそり断念しながら、しぶとく目指していることでした。




ありがとうございました。





大人たん。





*1:正岡子規『病床六尺』の冒頭からパクリました。私、ネコを二匹飼っていたのですが、ずっとずっと、憧れていたし、ずっとずっと理不尽に憎んでいたのかもしれません。
病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。

*2:「接続過剰」というのは、ソーシャルネットワークを介して、私たちが常にオンライン状態になり、いつでもどこでもつながることができて、それが逆に「相互監視」といいますか、見張り合いのようになっている現状を言います。適度に接続できればよいけれど、どうしても「常に」接続しているために、難しくなってしまっているようです。そこから「どうでもいいことさえも無視が許されない」厳しい監視管理社会ができあがろうとしております。「既読スルーすんな」(え!強制なのですか!)とか、「メール送りましたよね」(送られたものの取り扱いは、送られた時点で送られた側に責任を帰するのですか!)など、びっくりすることたくさんあるでしょう。逆に、FFが0のアカウントで延々と呟いていたり(ひきこもり)、少し機嫌を損ねるとスパブロしたり(拒絶)と、「切断過剰」の運動まで強化されてしまったように思います。

*3:千葉さんが著作のタイトルにしている『動きすぎてはいけない』のパクリです。『動きすぎてはいけない』は、千葉さんの研究しているドゥルーズさんという哲学者の台詞だそうですね。乱暴に言ってしまえば、「関係しすぎてはいけない、あらゆるものは繋がっているという前提をやめよう、何の理由もなく部分的に無関係のものだってたくさんあるんだ」ということです。

*4:「敬」の字源は、羊の角に触れそうになって反り返っている人間の姿を現しております。畏れ多いものの前で「緊迫」し、それに近づきすぎないよう回避することを「敬」と言うのですね。「うやまう」という大和言葉は、「うや」(いや)が礼儀のことを指していて、現代の中学生でも「いやなし」(無礼だ)という古語や、「うやうやしい」という畳語を知っております。とにかく「敬」というのは、攻撃すらできなくなるほど崇高なものを目の前にして緊張し、自然に正しく怖じ、ためらってはそりかえることを言うのでしょう。

*5:「ツイッター民は事件をすぐに忘れて無意味なことをつぶやき始める」という叱責をツイッターでしている方がおりましたが、おそらくそこが事件現場ではなくツイッターであることを忘れてしまったのでしょう。大変頭の良い方だったので少し残念だったのですが、確かに「軽すぎること」への警鐘を鳴らしていたのかもしれませんね。私のような重たい人間にとって、軽いツイッターはバランスを取るのによいのですが、重たいことを重たいまま肯定している(責任であることを責任のうちに肯定している)人にとっては、ツイッターは「うざい」場所なのかもしれません。

*6:『スッタニパータ』を読めば分かると思いますが、ある人には「死んだ人は生き返らない、仕方のないことなのだ。」と真実をつきつけたり、あるい人には「分かりました。あなたがいまから供え物のある家に行き、パンの胡麻を一粒もらいに行きなさい。10件まわってきたら、死人を生き返らせてあげましょう」と言います。もちろん供え物があるということは、遺族の方たちですから「死んだ夫を生き返らせるために胡麻をください」と申し出れば、それなりの世間的な説教を喰らうことでしょう。その説教を10件受けているうちに、人は生き返らない、哀しみや悼みは受苦するべきものであるということを理解できるようになるのです。言い方は裏腹ですが、伝えたいことは同じ。仏陀は、相手によって(仏教では「時機」と言います、つまり時機によって)伝え方を「やんわりと」変更し、うまくデザインし、目的だったことを達成するのです。

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生は死を召し捕るが、死もまた生を召し捕る / 著者:大人たん - ch14

「阿吽」(a-hum) ― 見慣れない字面。サンスクリット語の字母表の「初めの文字」(a)と「終りの文字」(hum)に漢字をあてているらしく、それを「阿吽の呼吸」とすると、最初と最後が合致する(吐くことと吸うことが対立せずに一致する瞬間)という意味らしく、なるほど、インドの宇宙的な思想が根付いている言葉なのですね。

呼吸することは、息をすること。それは歩くことと同じように、誰に命令されることなく、産まれてからずっと独りで行為してきたことです。呼吸を意識することは、パーリ語で「安那般那念」(アーナーパーナ・サティ)と呼ばれていて、禅では「数息観」(すそくかん)と言います。息は「吐いて吸う」という循環(呼吸)をもって、"1回"、とカウントするのです。呼気と吸気はふたつでひとつ。どちらかだけでは成立しないものです。

呼吸をカウントして、呼吸を意識すること。
なんの必要があるのでしょうか。

5月に東京大学で釈徹宗先生の『現代社会を生きる力としての仏教』を受講し、そこでも「数息法」の話が出てきたと思います。大事なポイントは、「現代社会を生きる」という文脈で「息数法」が紹介されたことです。

数多くの人が「息はただすればいい、わざわざ数息する必要などない」という意見に賛成するでしょう。同じような主張をどこまで受容し、どこまで賛同するでしょうか。

「食事はただすればいい、わざわざ美食する必要などない」(食べることを意識しなくていい)
「歩行はただすればいい、わざわざ健歩する必要などない」(歩くことを意識しなくていい)
「生活はただすればいい、わざわざ命数する必要などない」(生きることを意識しなくていい)

19世紀後半のイギリス、「アメニティ」という概念が都市環境論のなかで登場するようになり、あらゆるものが親切に配置されるようになりました。つまり、「ただやることが、ただやるために」順序良く並べられ、「ただ~するだけ」というロボットのような生き方に近づいてきたところです。

こんな時代だから、息を数えよう」と主張する釈先生。ロボットのように息をするのではなく、ロボットのように食べるのではなく、ロボットのように歩くのではなく、ロボットのように稼働するのではなく、それらのライフスタイル(お決まりルーティン)をわざわざ見直すことで、人間を生き直すことができるでしょう。ちょっとふざけて言えば、「息」を意識することで、「生き」を意識することができるのかもしれませんね。

仏教と出会って以来、私は息を数えるようになり、人生を数えるようになりました。だから私は息を数えてきたし、人生を数えてきたと申したいのです。そんな大げさなことではないのかもしれませんが、自分の中ではそういう認識でやってきました。これは、少しだけ、誇りです。

モンテーニュさんは『随想録』のなかで「われわれは死の心配によって生を乱し、生の心配によって死を乱している。生はわれわれを憂鬱にし、死はわれわれを恐怖させる。われわれが備えるのは死に対してではない。それはあまりにもあっけない事柄である。…本当を言えば、われわれは死の準備に対して備えるのである」と言いました。つまり、死の心配をして生を狂わしてしまうことに対して備えなければならないのです。

・「振り子」 - アニメーション:鉄拳 / 楽曲:Muse

この男性は「数えてこなかった人」かもしれませんね。何一つ数えてこなかったことに対する悔みが、振り子を止めようという暴挙を促しているように思えます。「死であること」を目の前にして、「生であったことの全て」が召し捕られそうになるのです。「当たり前に思って数えない」というのは、ロボット化のことであり、日常が死ぬこと(日常性が亡くなること)すら召し捕られて、気付けなくなることなのかもしれませんね。(この辺りのことは次の記事で書けたら嬉しいです)。

・"walking tour" - フラッシュ:佐原正規 / 楽曲:黒石ひとみ

私たちは、私たちの人生を見守りません。見つめ直すこともめったにありません。建て直すことも珍しいです。「自分の人生と向き合う」という言葉ばかりが消費されており、「自分の人生と向き合うということはどういうことをするのか」ということが、あまり考えぬかれていないようにも思えます。

向き合うといっても、自分の人生と決闘するわけでも、パネリングするわけでもありません。大事なのは「見守ること」です。自分に対して、「そういう風に生きていくんだね」「いいんじゃないかな、そっちに行きたいんだろう」「どっちに行ったって、私は私の味方だよ」「でも行くからには私を納得させてよね」「しっかりねという一連の言葉を"ひとつひとつ"しっかりと添えること、対面して渡すこと、それが大事なことなんだと思います。そして、自分を見守るためには、「見守られた経験」を思い出すことが大切かもしれませんね。

この"walking tour"を初めて見たとき、私は、「そうだ、私は見守られていたんだ、後見されていたんだ」ということを思い出しました。親だったり、姉弟だったり、親戚だったり、先生だったり(実は親よりも先生の方が見守ってくれてた!?)、道場の恩師だったり、所属していたスポーツチームの監督やコーチ陣だったり、付き合っていた恋人だったり、数々の後見人が私のことを後見してきてくれたことを、思い出しました。

生活の忙しさや忙しなさに溺れると、自分だけで生きているように思えてくるけれど、たくさんの人に土台を支えてもらい、たくさんの人に背中を任せながら、たくさんの人に勢いづけられてきたのだということを、改めて認識することができました。振り子の男性は、それに、最後に気付いたのかもしれませんね。

それを、私は、いま、数える必要があるでしょう。

いつのときの、誰の、どんな言葉に助けられ、
私を支えているものの「ひとつひとつ」「一個一個」は何であったか。

今からでも数え直したい、のです。

かつてフーコーさんが言ったように、「自分とは何者か」というアイデンティティの問題ばかりを気にしてはいけないのです。それも大事なことだけれど、「自分は何者かは分からないけれど、少なくともいま私がここにいるのは、誰に、何に、支えられてきたのだろうか」と問うことを省いてはいけないのではないかと思うのです。そこをサボらず、しっかりと、数えたいと思います。

そう思うようになってから、まだ数年しか経っておりませんが、改めてこの記事で決心させていただきました。この機会を与えていただき、ありがとうございます。素敵なきあずまだと思いますよ。それでは。



大人たん。

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死に泥む人間の存在 / 著者:大人たん - ch1

 Is there nothing that interests us all? Is there nothing that concerns everyone - no matter who they are or where they live in the world? Yes,  dear Sophie, there are questions that certainly should interest everyone. They are precisely the questions this course is about.
 What is the most important things in life? If we ask someone living on the edge of starvation, the answer is food. If we ask someone dying of cold, the ansewer is warmth.If we put the same question to someone who feels lonely and isolated, the answer will probably be the comapny of other people.
 But what these basic needs have been safisfied - will there still be something that everyone needs? Philosophers thinks so. They believe that man cannot live by bread alone. Of course everyone needs food. And everyone needs love and care. But there is something else - apart from that - which everyone needs, and that is to figure out who we are and why we are here.
 Being interested in why we are here is not a "casual" interest like collecting stamps. People who ask such questions are talking part in a debate that has gone on as long as man has lived on this planet.
 誰しもが関心を持つようなことがあるでしょうか。世界中のどこに住んでいる人にでも、誰にでも関係のあるようなことがあるでしょう。それはあるのですよ、愛すべきソフィー、すべての人が関わらねばならない問題というものがあり、これは、それについて考えていく講座となります。
 生きることにおいて最も大切なことはなんでしょうか。食べ物に飢えている人にとっては、食べ物です。寒さで身を滅ぼしそうな人にとっては、温かさです。孤独感に耐えられない人にとっては、きっと人との関わりでしょう。
 ですが、こういった大事なことを満たしている人たちにとって、まだなお満たされないことがあるでしょうか。哲学者たちは、ある、と考えておりました。人はパンのみで生きるわけではありませんからね。食べ物は大事ですけれど、愛を受け取ることや、誰かに手当してもらえることもまた必要です。しかし、そういうことではなくて、私たちは何者で、なぜここにあるのだろうか、それを理解したいという誰にとっても切実なことがあるのです。
 なぜここにあるのか、それは切手集めのような「ちょっと始めてみました」という趣味ではありません。この疑問を持った人たちは、この星があったときからずっと議論を重ねてきたのです。
(Jostein Gaarder "Sophie's World" p.12、大人たん訳)


 ハイデガーさんという方は、人間という存在のことを「死への存在(Sein zum Tode)」と呼びました。人間は生まれる前から「死ぬこと」と関わっていると考えたのです。つまり、人間は生まれながらにして死ぬのに充分な年をとっている、と見抜いてしまったのですね。そして彼は、人間は死に向き合っているときが正しい姿で、死から目を背けるのは「頽落」(Verfallen)だとして良くないんじゃないかって考えておりました。

 本当にそうなのでしょうか。

 1秒のあいだに、3人も死んでいると聞きます。ここまで読むのに何人の人が死んでいるのでしょうか。哀悼すべきことでしょうけれど、私はあまり哀しくありません。私が薄情な性格をしているからかもしれませんね。ですが、ですがですが、その「3人」の内訳が、私の大切な人、私のハグしたい人、私の数少ない友愛な人、私の生命に深く刻み込まれている人、そういう方たちだったら、私は悲哀に暮れ、臓器が焼けるほどに泣きじゃくるでしょう。いま、想像しただけで、身体が停止するほどです。怖いのは、愛する人の死。愛する自分の死、なのかも。

 「死」というものは、一様ではないようです。いわゆる死の人称(私の死、あなたの死、その他の死)というのも、死の質的な変化でしょう。私たちは、死ぬことが怖いのか、死ぬことで失うのが怖いのか、死ぬことで限界や何かが明らかになってしまうことが怖いのか、分からないところがあります。

 それでも哲学者たちは、「死ぬ確率がゼロになるシステム」を創造しようとしません。「あー死ぬー」ということを延々と議論しております。私たちがどんなに難しい議論を続けたところで、死は無邪気に背中を突いてくるものです。それはとても面白い。法則的に言えば、「人は必ず死ぬし、人は必ず死ぬことについて小さな議論を引き起こすし、死ぬ確率をゼロにしようとはしない」でしょうか。

 私はそれを「死に泥む人間の存在」と表現したいのです。

 「生まれながらにして、死ぬのに充分な年をとっている」
 確かにそうなのかもしれません。






(編集責任:らららぎ)

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