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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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夏のはじめに、夏の終わりを思い出す。 / 著者:ちくわ - ch16

(この記事は7月に書いたまま公開し損ねていたものです)

僕が、僕たちが思い描く「夏」が、幻想だということはわかっている。でもそれなら、時折どうしようもなく感じるあの夏の憧憬はなんなのか。
夏が、来る……!!」 - しっきーのブログ
" ぼくの " 夏ということであれば、それは幻想でも夢でもない。いや、幻想でも夢でもあるのだけれど、少なくとも指し示すことができる夏のように思う。具体的な、興醒めするほど具体的な夏だと思う。ナツという響きの内に、肌に感じる刺すような陽射しの中に、細田守映画に出てきそうなでっかい入道雲の向こうに、青すぎる青空の奥に、蝉による期間限定大合唱の裏に、あの夏が、あの夏休みが、あの夏の日が、重なりあっている。何重にもダブりながら、そこに見え隠れしている。

けっきょくぼくの夏というのは、天神の地下街を駆け抜けて駿台の夏期講習に向かっていた19歳の夏の日であり、高総文祭を横目に模擬試験を受けていた18歳の夏の日であり、芝居稽古の合間を縫って親友と海へ川へ撮影に出かけていた17歳の夏の日であり、夏祭りに行けなくて悔しかった(未だに悔恨を語れる程度には悔しかった)16歳の夏であり、その前年あの子たちと行った15歳の夏祭りであり、そして何度も戻ろうとした一度きりの14歳の夏休みなんだ。

ぼくらの知ってる夏はいつだって過去にある。ぼくの場合は23個の夏を知っているけれど、それはすべて終わっている。当たり前とはいえ、忘れていないだろうか。つまり、始まったばかりにこんなことを言うのもどうかと思うけれど、夏には終わりがつきまとう。終わりの気配がつきまとう。過去はいつだって気づいたら過去になっていて、夏はいつだって過去形で語られる。幾度時をかけようと、何万回夏休みを繰り返そうと、どれだけ世界線を移動しようとも、ぼくらの心に刺さっているのはあの「夏の終わり」だけである。なーつのおーわーりー。

たとえば14歳の夏、もうあちこちで語ったことなので深くは書かないけれど、四人の友だちとあるイベントに向けて準備をしていて、確か九月の頭がその本戦だった。ぼくらは一回戦で負け、同じ日にそのイベントも終了した。ぼくの好きだった女の子は「来年も出ようね」と約束してくれて、もうひとりのほわほわした女の子は最後までほわほわしていて、ぼくは「勝ちはなかったけど価値はあった」とかよくわからないことをぼそぼそ言った。大会は予定より長引いて、終わったころにはとっぷりと日が暮れていた。ぼくらはまだ中学生で、夜には家に帰らねばならなくて、真っ暗な空に急かされるように解散した。終わりを惜しむ暇もなく、挨拶もそこそこに。

けっきょく、それきりだった。あれきりだった。あの女の子の約束も果たされることはなく(諦めきれなかったぼくは来年まったく別のメンバを揃えて同じ大会に出ることになるのだけれどそれはまた別のお話で)、それ以降あの五人でいっしょに遊ぶことさえなかった。中学生らしいさまざまな人間関係的なあれこれがあったりなかったり、ともかく五人で会いづらくなって、しようしようと言っていた打ち上げもついにしなかったと思う。それがあまりにあっけなくて、「いっしょにどこどこに遊びに行こ〜」とか言ってたほわほわした女の子のほうにぐちぐち電話したことがあって、その子に「会えるよ、生きてさえいれば」と慰められたのをなぜだか覚えている。こうして、14歳の夏は終わった、いや、ほんとは終わってなくて、数年間求め続けることになって、終えることも追えることもないまま、数年さまようことになる。けど、それも別のお話。とにもかくにも、ぼくが14歳の夏を思い出すとき、まっさきに思い出すのはその終わり ― 「終わらなかったけど終わった『終わり』」だ。

また別の夏の終わりには演劇の公演があって、その夜に舞台はバラされて、ひとつの世界が ― ひと夏の世界が ― 消えた。ある夏は高校最後の文化祭があっていろんなものが終わった。たまたま同じ時期に自分の街で高総文祭があって、始まりすらしなかった世界に静かに涙した。始まりもしなかったはずのそれもまた終わった。ある夏とある夏とある夏は「二次試験まであと半年…」とかいいながら時間のあったはずの夏が消えていくのを惜しんでいた。

いつからか、夏の始まりに気づくのは実家から遠く離れた地での出来事となった。それでもいつも夏には帰省して、夏の終わりはいつも地元で体験した。一年前は、同級生たちの学生"最後"の夏で、四部作となった自主制作映画もどきの"完結編"をつくった。"卒業"した高校の文化祭の"エンディング"に流す動画をつくった。先生は「さすがにお前たちに頼むのもこれが"最後"だろうと言った。そうしていつだって、夏が終わると東京へと戻ってくるのだ。

夏にはいつも終わりがつきまとう。だってほら ― 「ああ、夏だな」って思うのは、線香花火が消える瞬間じゃあないか。

ハッピィマンデイに対するささやかな反逆のように、今年の7月20日は海の日で、奇しくもその前後に梅雨(今年は本当に雨雨雨雨でしたね)が明け、文句のつけようがないほど夏の始まりらしく夏が始まった。ぼくの暮らしている街では、それからは毎日びっくりするほどの青空が広がっていて、ああやっぱり始まったんだな…と覚悟を決めた。始まってそうそう、ぼくの周辺では、さっそく色んなことが終わり始めている。そして夏そのものもまた、終わり始めている。きっとまた遠からず、「夏だった」と回想することになるはずだ。すばらしいこと、なのだろう。

夏が来ると思い出すこと。

「ああ、夏は終わるんだ」。

おわり。
はじまり。

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