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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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chiasma32:「どうか自己欺瞞を語ってください」

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 僕は野球が大好きだった。小学生の三年生くらいで、初めて父親にバットとグローブを買ってもらった。安い青の金属バット、紺の小さなグローブ。バットのグリップの感触も、グローブの匂いも、いまでも鮮明に思い出せる。

 最初はもちろん試合になんか出れなくて、それでもバットを持ち運んだり、グローブをはめているだけで、幸福を最大限に感じていた。達成感があって、その達成感から存在感を抱く。バットとグローブを触っているだけで、僕は自分の存在を活き活きと感じることができたのだ。

 たくさん練習をした甲斐があってすぐに試合に出させてもらえるようになって、初打席で年上からヒットを打つことができた。なぜか一塁に走るのが恥ずかしくて、必要以上にがむしゃらに走る。それでも頭のなかは、一塁に着いたとき仲間にどんな顔しようという心配ごとでいっぱいで、照れくさくてしかたなかった。

 だんだん自分は他の人よりもうまいことが分かってきて、五年生のときは副キャプテンをしていた。野球を好きだった気持ちは、いつの間にか優越感に変わっていて、試合でヒットを打つことは副キャプテンの義務感を解消するだけの作業に変化した。

 中学生になってもその感覚が消えることはなく、義務感でヒットを打ち、優越感で続けていたと思う。それでも母親は野球をしている僕のことが好きで、マザコンだった僕は野球をしぶしぶ続けていた。

 高校では野球部に入らなかった。周りから見れば「続けててもおかしくない」実力だったのだが、六年以上も続けた得意なスポーツを簡単に手放すことができた。あまりに自然な態度だったので、僕は疑問を持たずに生活をし、高校生活を楽しんでいた。バットのグリップの感触も、グローブのオイルの匂いもどうでもよくて、ただ勉強もせずに遊んでいた。

 野球部に入らなかったことを疑問に思うようになったのは、日本史の先生と話すようになってからだったと思う。彼が野球部の顧問をしており、どこからか僕の噂を聞きつけ、助っ人として試合に出て欲しいと申し込んできたのだ。そのとき、僕はなぜ僕が野球部の部員ではないのか考えた。

 割とすぐに答えが出て、それは「自己欺瞞」というものだった。自分のことを欺くこと。自分自身の思いを都合によって棄却すること。それでしかないことがすぐに分かるほど、自己分析するのは好きな高校生だった。

「世界最大のうそって何ですか?」と、すっかり驚いて、少年は聞いた。「それはこうじゃ、人は人生のある時点で、自分に起こってくることをコントロールできなくなり、宿命によって人生を支配されてしまうということだ。それが世界最大のうそじゃよ」

 そのヒントとなったのは、当時好んで読んでいた本の、このフレーズだった。人は宿命だの運命だのという言葉で、あたかも人生が思い通りにいかないように思い込む。支配されているんだと自分を欺く。それが世界最大のウソである、という言葉。

 野球を始めたころの僕は、野球をやることに理由なんて要らなかった。都合が悪くてもバットを持ち、試合を見ているだけで幸福を感じていた。それなのに、どこかで優越感を理由にし、義務感を理由にし、母親の期待を理由にして野球をするようになった。

 僕は自分を欺き始めたのだ。

 それからというものは、野球は楽しくない。強いてやるもの。しなければいけないことになり、それでも楽しいフリをして、進んでやっているポーズをして、まるでしたいからしているように振る舞った。自分は野球が大好きだ、と大文字で語った。

 世界最大のウソをつく人間になっていた。

 僕は高校で野球部に入るかどうかを、本当に、一秒も迷わなかった。選択肢にすら出さなかった。目が悪くなって打てなくなっていたし、キャプテンではなくなったし、母親との距離もできたから、野球をやる理由がひとつもなかった。本当に野球がやりたいなら、目を悪くするなんてもっての外だし、仮に悪くなってもコンタクトすればいい。しかし、もうそういうものではなくなっていたのだ。

 野球をやっていた六年以上のうち、四年以上が自己欺瞞である。何ともおかしくて、何ともふざけた話だと高校生のときに自嘲していたのを憶えている。自分のことが嫌いになって、自己欺瞞しているやつらも嫌いになって、もうやる気が起きなかった。

 そのことで当時の彼女ともうまくいかなかった。その恋人からもらった当時の手紙が出てきて、久しぶりに読んで、いろいろと思い出して、死にたくなった。いや、死にたくなったというのも自己欺瞞だ。

 とにかく僕は、社会で必要とされるシーン以外では、自分を欺くのをやめようと思った。やりたくもないことを、さもやりたいですと言わんばかりのテンションでやるのをやめた。恥ずかしくてもやりたいことをやると言い、そうではないことをそうではないと思うようにした。いまではやることに達成感を抱き、その行為に存在感を認めることができるようになって、少しだけど野球を純粋にやっていたころの気持ちを取り戻せるようになって、いまは野球がしたくてたまらない。これは欺瞞ではない。

 みんなの、そういう経験が知りたい。いまもなお自己欺瞞でやっていることがあるかもしれない。このしんがりを欺瞞でやっているなんてこともあるかもしれない。僕もときどき、みんなでしんがり思索隊なんて欺瞞じゃないかと思うけれど、大丈夫、まだまだ欺いて書いてたりはしない。もしそうなっても、僕は初心に戻るやり方をようやく見つけたから大丈夫。

 自分のことを大したことない都合で欺いて、楽しかったことが実は義務になっていたり、嬉しかったことが実は作業になっていたり、達成感・存在感のあったことが「それをやっている自分」という自己愛になっていたり、しないだろうか。

 そういう話が聞きたい。思い切って、ここで語って欲しい。誰も笑わないし、誰もケチをつけない。





(らららぎ)
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