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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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あの帰り道 / 著者:開発室Graph - ch4


 たしか小学4年生の頃だったか,自宅の近くの鉄道の路線が廃線になった。

 電車に乗って遠足に行ったことは今もよく覚えている。小学生だからあんまり電車を利用する機会はなかったけれど,1両編成のディーゼルカーが田んぼの中を走っていくのはさながらトトロに出てくる猫バスのようで,すごく好きだった。
 そんなわけで,ぼくの家から最寄り駅まではものすごく遠くなった。徒歩だと1時間を超えて,自転車だと40分くらいかかる。たしかバスはなかったんだと思う。

 ぼくは国立の中学校に通っていたので,隣の隣の街まで電車で通学していた。ただでさえ最寄り駅まで遠く,そこから1時間くらいかかるので,母親に車で駅まで送り迎えをしてもらっていた。もちろん毎日送り迎えをしてもらっていたわけで,今となってみると本当にありがたいなあ,と思う。しかも中学校と高校の最寄り駅は同じで,つまり6年間ずっと送り迎えをしてもらっていたことになる。
 
 そういうわけで,ぼくの帰り道は母親と一緒だった。その間なにも話さないというわけにもいかないので,今日あったことやこれからの予定など,色んなことを話したのを覚えている。
 ぼくも普通に男の子だったので,反抗期を経験したこともある。そのときは口をきかなかったり,ふてくされていたりしたこともあるけど,なんだかんだ送り迎えをしてもらっていた。

 定期的にケンカをして,いつも送り迎えをしてもらう道を歩いて帰ったこともある。けれどその度に長すぎる帰り道が嫌になって,次の日からまた送ってもらう。
 なんだか情けない話だけれど,その頃のぼくは親なしでは生きられないんだ,ということを実感した。ヒステリックに怒るたびに「あなたなんか私がいないと学校にも行けないくせに」と怒鳴る母親のことは嫌いだったけれど,不思議とそれがおかしな理屈を言っているとも思わなかった。

 でも今はぼくはその帰り道では帰っていない。

 大学生になってから東京に出てきて,一人暮らしをするようになったからだ。ぼくの地元の愛知県に比べ,圧倒的に人もモノも多い東京での帰り道は,やっぱりあの頃とは大きく違っている。
 帰り道でときどき,この広くて人がたくさんいる東京で,ぼくはひとりなんだ,ということを実感する。すれ違うたくさんの人はぼくとは無関係な他人であって,今日あったことすら,話すことはない。頑張ったり頑張らなかったりした毎日は,だれにも報告することがないまま,終わっていく。
 そんなどうしようもない「さみしさ」とときどき闘いながら,帰り道を帰っていく。もちろん毎日こんなにアンニュイになっているわけではなくて,なにかが上手くいかなかったときとか,だれとも話さなかったときとか,そんなんだけど。やっぱり人間はひとりでは生きられないみたい。

 そんな毎日が重なったあと,ぼくは無性に「家に帰りたく」なるのだった。やっぱり生まれ育った土地での帰り道は,(少し大げさすぎるけれど)大都会でずたずたになったぼくを癒してくれるように感じる。これがホームシックとか,望郷とかいうやつなのかもしれない。
 そしてときどき実家に帰省して通るのは,もちろんいつもあの帰り道だ。帰るたびに,景色は変わっていたり変わっていなかったりして,なんというかものすごく「ほっこり」とした気持ちになる。そして母親と,東京であった話したいことを話して,話したくないことを隠して,うちに帰る。かわいい二匹のにゃんこが待っている。

 そいういうわけで,ぼくの好きな帰り道は以上のようなことになる。毎日使っていたときは気づかなかったけれど,やっぱりぼくはあの帰り道が大好きだったのだ。
 今のところはないけれど,もし東京にいてなにもかもが嫌になったら,ぼくは新幹線に飛び乗って,あの帰り道を帰るだろう。そんなことは,ないといいけれど。







(編集・校正責任:らららぎ)

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紙に書く,ということ。 / 著者:開発室Graph - ch25

. ここ最近はずっと「紙」と「人間」のあり方について,付き合い方について考えてきました。情報技術が発展してきたこの世の中では,紙の役目は終わりつつあるようにも思えます。
  実際に本は読まないけれど,「ブログ」は読むという人,手紙は書かないけど「メール」や「LINE」は使うぞ,という人などなど。人間は少しずつ,実際の物質である「紙」から離れつつあるようにも思えます。
  ぼく自身もデジタルを愛する人間であるので「紙なんていらないんじゃないの?」と思うこともしばしばありました。でも考えてみるとやっぱり「紙」は素晴らしいものであったのです。
  「紙」について書きたいことは,それこそ山のようにあります。デジタルとの関わり,検索できるか,人間との歴史,印刷機との関係‥などなど。考えれば考えるほどアイデアが出てきてしまって,なかなか1つに絞ることはできませんでした。
  でも今回はなんとか1つにして「書くこと」にしぼって話をしていきたいと思います。

  ぼくにとって書くことは「頭のもやもやを晴らす」ということが最も大きいです。書くことは考えることです。でも,ただ書けばいいかというと,たぶんそうではないのです。
  かつては「なにか書きたいぞ!」と思った途端にテキストエディタを開いて,思うがままにキーボードをタイプしていました。でもたぶんそれじゃあんまり意味ないんですよね。それだともちろん途中で書く内容がこんがらがってしまって,なにを書いていたのかわからなくなってしまうことが多いからです。
  なんとか気合で書き上げたとしてもそれは「もやもや」のままなのです。わかりにくいものが,わかりにくいまま外にひょいっと出てきてしまった感じ。

  だから最近は「一度それを紙に書く」ということをやっています。「コレだけは書きたいぞ!」ということを1つずつ紙に書いていくのです。その後で実際にキーボードに打ち込むことにしました。
  こうすることでじぶんが今なにを書いているのかよくわかるし,「もやもや」を晴らしていくことができるような気がしています。やっぱりぼくはどうしても「わかりやすい」ことを目指してしまうのです。

  ではなぜ「紙」がそのようなことを可能にしてくれるのか,についても少し考えてみました。やっぱり紙は「人間の思考スピードに寄り添う」ものであると思うのです。
  コンピュータはあまりにも高速すぎて,ゆっくり書きたいことを探すというのにあまり適していません。また,ほとんどの人がコンピュータに文字を入力するのにキーボードでローマ字を入力すると思います。これは当たり前のことのように思えます。でもそれは日本語の歴史で考えると,ずっとずっと最近のことですよね。
  ひらがなの「か」は「か」であって「k」+「a」ではありません。ましてや,ただの01変換されたデータの並びでもないのです。

  でも紙は違います。しっかりと日本語を日本語のまま書くことができます。
  コンピュータに比べて,時間あたりに書くことができる文字数は少ないでしょう。けれども,スピードが遅いからこそ,ぼくたちに「なにが大事か」を気づかせてくれるのではないか,と思うのです。きっちりとぼくらの思考スピードに寄り添ってくれます。そうやって「本当に書きたかったこと」を探す手伝いをしてくれます。
  もちろんコンピュータは文章を書いたり保存したりするのは便利です。でも「なにを書くのか」という,文章の根幹の根幹の部分はやっぱり「紙」が担うべきだと思うのです。

  また「紙」は基本的に「なにかを書くためのもの」です。折り紙とかダンボールとかありますがここでは置いておきましょう。だから紙は「書くことに集中させてくれる」のです。真っ白な紙を前にすると「他に余計なことは考えるな,ただ書け」と言っているかのようにも感じられます。テキストエディタと違い,矢印や絵を多用して本当に「思ったまま」書けるというのも強みの1つですね。
  コンピュータは違いますよね,ほとんどなんでもできる魔法の箱は便利です。でも文章を書くとなると,あの手この手でぼくらを邪魔してくるものです。すぐさまインターネットにつなげるし,ゲームはできるしといったところです。コンピュータは「創作者」になろうとするぼくらを即座に「消費者」へと変えてしまうものなんですね。

  手を使って書く,というのも同時にすばらしいことです。もちろん活字とかテキストファイルになった文章にもその人自身の味とか空気というものが出ていてよいのです。でも「筆跡鑑定」ということばがあるように,その人が書く「手書きの字」には,その人そのものが詰まっているようにも思えるのです。その人が実際に紙に書いてくれた何かというのは,なんだかその人の分身のような気がして,ぼくには大事なものであるかのように思えます。最近はそういうものをもらうというのも,めっきり減ってしまいましたが。

  そんなわけで,最近の「紙に書くこと」があまりなくなった世の中でも,やっぱりぼくは「紙に書くこと」を大事にしていきたいなあ,と思うのです。人間と文章とをずっとずっと結びつけてきた「紙」をこれからも大事にしていきたいな,と思うのです。
  と言いつつこの文章はコンピュータで書いてしまったんですけどね。

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サーキュレーション / 著者:開発室Graph - ch24

「恩」とか「負い目」についてものすごく悩んでいた時期があった。大体いつごろだったか詳しくは忘れてしまったけれど,きっとその頃の僕は「人にする行為」についてものすごく悩んでいたように思う。

  だれかになにかをするときに「恩」を感じられるのもあんまり好きではなかったし,だれかになにかをされたときに「負い目」を感じるのも好きではなかった。
  でもそれらがまったくなくて平気かというと,逆にそういうわけでもなかった。「じぶんがした行為」について,恩とはいかないまでもある程度の感謝はしてほしかった。逆に相手からされたことをじぶんがなんとも思わず,感謝を示していないかのように思われるのも,それはそれで嫌だった。
  とにかくその頃のぼくは「他人に対してすること」に対してものすごく悩んでいたし,困っていた。その結果他人にどう思われるかについても,同じようにものすごく悩んで,そして困っていた。

  今でも「じぶんがしたことを他人がどう思っているか」についてはこれでもかってくらい考えてしまうし,その逆で「他人がしたことに対するじぶんの行為を他人がどう思っているか」も同じだ。それで僕の頭はぐるぐるしていたし,今もきっとどこかでぐるぐるしているのだと思う。

  他人のことを考えることはできない,と述べる人がこの世の中には一定数いる。他人のことを考えているつもりでも,結局「じぶんだったらどうするか」を考え,それにしたがって相手の行動を予測しているだけだ,と。
  「恩」とか「負い目」とかも結局はそのようなものかもしれない。じぶんが発した行動を解釈するのは,それを受け取った相手に他ならない。相手がどう解釈してくれるのかなんていくら考えたところでわからない。

  しかも「恩」とか「負い目」とかいうものは,必ずしもリアルタイムで作用するものではない。
  後から考えなおしてみて「あの人のあの行為はそういうことだったのか」という風に「負い目」を感じた経験というのはそれなりに多い気がしてしまう。
  「恩」についても似たようなことが成り立つ。「そのときはわかってくれなくても,いつか相手がわかってくれればいい」といったようなもののことだ。
そうやって色んな「恩」が気づかれたり発見されたりして「負い目」になっていくのかもしれない。

  考えれば考えるほど,他人との関わりというのがわからなくなっていく。「恩」にも「負い目」にもガチガチに縛られて,身動きがとれなくなってしまうようにも思えてくる。

  でもいつ頃からだったか,僕は(名付けるとすれば)「サーキュレーション」のような法則(ほど仰々しくないもの)を当てはめて暮らしている。その法則を使うことで,少しだけ毎日が楽になったような気がする。

  もう「恩を直接もらったり直接返したりする」ことはやめた。「負い目」を抱いて,恩をもらった人に返すことは難しい。それよりも,恩と負い目がぐるぐる回っていくといいんじゃないか,と考えた。

  「恩と負い目がぐるぐる回る」とは,「誰か」からされた行為を「恩」に感じたら,それをとにかく違う「誰か」へと運搬する。といったことを示す。そうやって「恩」や「行為」が世の中をぐるぐる回っていって,そしていつかはじぶんに「恩」を与えてくれた「誰か」に届くかもしれない。僕はそう考えることにした。「恩」を「恩」だと気づいたときに,負い目を感じることなくそれを誰かに運搬する。
  そうやって考えることで,僕は少しだけ楽に生きられるようになった。

  さっき「他人のことを考えることはできない」と言う人がいると書いたけれど,他人のことを考えるということは別に悪いことではない。むしろ相手のことを考えてなにかをしようとすることは,それができないとしても,少しは世の中を良くしてくれるだろう。
  だってぼくたちは,他人のことを考えようとしているからだ。それが無理だとしても逃げ出さずに,きちんと向き合っているからだ。

  気づかないうちに僕のところにも,まわりまわって誰かからの「恩」が届いているのかもしれない。あなたが発した「恩」も,まわりまわって誰かに届いているのかもしれない。

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わくわくをつくろう。 / 著者:開発室Graph - ch09


僕は人のオススメを受け入れるのが好きです。
誰かのオススメは僕の「わくわく」をとても強化してくれます。


 僕にとって最も楽しい時間のひとつは,なにか欲しいものがあるとして,それについて色々と想像を巡らせることです。その箱を開けたときのこと,それを初めて使ったときのこと,日常的にそれを使うときのことを,ぜんぶ想像します。それが僕にとってものすごく楽しい時間なのです。

 とはいえ無限にお金があるわけではありません。何か高い買い物をするときにはすごくゆっくり吟味することが多いです。色んなサイトを見て情報を集めます。それでやっと買うことにしたり,涙を飲んで諦めたりするのです。

 誰かのオススメやレビューサイトの情報は,その「想像」のための材料です。あの人はアレのあの点がいいと言っていたけど,自分はそう思うだろうか?あの点はダメだと言っていたけど,本当にそうなのかな? などなど考えを巡らせることもものすごく楽しいことです。

 実際にそのものを手にしたときの喜びと興奮はひとしおです。こういう経験は誰にでもありますよね。まるでサンタクロースからのプレゼントを喜ぶ子供のように,僕はいそいそと箱を開けます。

 今までに例外なく,実際に手にした商品は僕の期待を裏切ってくれます。店頭で実物を見たはずのものであっても,自分の手元にくるとまったく違った感触を受けることもあります。サイトで見ただけのものなんて言うまでもないですよね。でもそれを楽しんでいる僕も存在するのです。ある種のくじ引きか何かに似ているといえるかもしれませんね。

 そしてその商品について,オススメしてくれた人と話すのもすっごく楽しいです。「何を商品に求めるのか」っていうのは少しずつ異なります。同時に「ここはどうでもいいや」という部分も少しずつ異なっていきます。

 ちょっと大げさですけど「なにかをオススメしあうことによってその人がどんな人かわかる」っていうのもあるかもしれませんね。言葉じゃ伝えられないなにかも「オススメ」が伝えてくれるかもしれません。

 特に書籍や映画など,なにかストーリーをもつものをオススメされるのはおもしろいですね。あるシーンに差し掛かって,この人はどんな気持ちでこのシーンを通りすぎて,そしてどんな気持ちで僕にこれをオススメしてくれたんだろう? と考えるのもものすごく「わくわく」することです。

 「想像を巡らせること」が楽しい時間のひとつだと書きましたが,もちろん届いてからの時間も楽しいですよ。欲しくてたまらなくて買ったものは,色んな方面から僕の生活をがらりと変えてくれます。真夜中に「そういえば買う前に気にしていたあの部分はどうだったんだっけ」とふと思い出して,意味もなくそれを使ってみる,なんてこともあります。

 買ってみて全然イメージと違って,なんじゃこりゃいらなかった,というものも中にはいくつかありますよ。でもせっかくお金を払ってしまったし、なにかの縁なのかなあと思って使い続けることにしています。そのモノに罪はないですしね。

 そんなこんなで「なにかをオススメされる」からはじまる一連の流れは,僕の生活にたくさんの「わくわく」をもたらしてくれます。だから僕も,いいモノも悪いモノも含めてたくさん人に「オススメ」します。その人の生活に良くも悪くも「わくわく」が生み出せたらいいなあ。そしてできたらその人とそのモノについて話して,その人の一面なんかも知ることができたらいいなあ。






(編集・校閲責任:らららぎ)

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あとからきっとわかるよ / 著者:開発室Graph - ch1

こんにちは。はじめまして,はじめました。開発室Graphといいます。わけあってこの試みに参加することにしました。よろしくね。
僕が何者であるかはここでは深くは語らないことにしましょう。きっと,僕が何者かであるかはこの先ここで書く文章が示してくれますし,僕もそれがそうであると願っています。

はて,どこから書き始めていいやら,と思いましたが,やっぱり1は1です。1番最初のお題「私の好きな法則」から書き始めて行こうかなと思います。

僕が好きな法則は「後からそれがどういうことかわかる」法則です。「それ」がなんなのかが,きっとここでは重要になるとは思うのですが,それをうまく説明するのはとても難しいので,ここでは指示語でうまくぼかしました。
毎日の行動に意味を見出すのはきっと必要なのでしょう。有史以来から「なぜ生きるのか」とか「なぜ生きなければならないのか」について色んな人が考えてきました。そして,それを見出すことが,誰にとっても訪れる「死」へ一直線へと向かう「人生」の目的の1つである,というのが割と一般的な理論だと思います。
「なんでこんなことをしているんだろう」というのを,僕は毎日いろんなところで考えてしまいます。そして,きっとそれは僕だけじゃない,と思っています。そう思ってしまうのはなぜなのか,そう思ってしまうのは人間だけなのか,とか考えるとまた夜も眠れなくなってしまうのでこの辺でやめにしておきましょう。
「なんでこんなことをしているんだろう」と考えるのは,人間らしい行動だと思います。でも,それはあまり便利じゃない気もする。その理由が出るまで,僕たちは,その行動をやらないまたは,少しスピードが落ちてしまうからです。
なので僕は「あとからきっとわかる」の法則にしたがって生きることにしています。今回はそれをちょろりとご紹介しましょう。

ゆっくりと1つずつ毎日のタスクや,やらなければいけないことを分析してみると,なぜそれをするかが完全にわかっているものって,意外と少ないですよね。
なぜ学校へ行くの?なぜ朝起きるの?なぜ誰かと一緒にいるの?なぜご飯を食べるの?なぜ寝るの?に明確な答えを出せる人は,きっとあんまりいないと思います。
ここでは手っ取り早く「なんだかよくわからないけどやらなきゃいけないからやる」みたいなものだという風に定義付けておきます。

「なんだかよくわからないけどやっていること」は,やっている間はその意味はわかりません。でも,それはあとからきっとわかります。それは僕の経験上ずっとそうでした。断言できます。
まず1つ目は短いスパンでのこと。「やっていること」が完了したときに,その意味がわかるということは結構あります。僕たちはなにかをやるときにはそれをイメージしてから取りかかります。ああ,コレは思っていたことと違ってこういうことだったんだな,という経験は,とても心地いいものです。
2つ目は長いスパンでのこと。色んなことを吸収するにつれて,昔やっていたこと,つまり経験がふっと思い出されてきます。「ああ,これはこういうことだったんだ」と,そのときわからなかったことが理解されます。断片化していたと思っていた知識が,そこでつながる。
なにかを説明するときに,たとえ話を使うとわかりやすいですよね。そんな感じで,なにか複数のものに共通点つながりが見出される。こういう風に時間がたつとつながりが生まれていくっていうのが,脳の回路の中であったようななかったような気がするのですが,あんまり確実な話じゃないのでやめにしておきます。

そうやって,色んなものを「つなげて」いくのが「人生」っていう作業なんじゃないかな,と最近は思っています。この文章でいう「わかる」は「つなげる」と言い換えることができますね。
原理的にそれぞれの人で吸収するもの(人や本から)は違っているはずなので,それぞれの人で何が「つながる」のかも違っています。自分が「つなげた」とこを,「コレはこういうことだったんだよ!」と発表すれば,まわりは驚いてくれます。
今やっていることはあとからきっと「つながる」し「わかる」。そう信じることで,毎日の生活は少しだけ楽しくなるはずです。いつか訪れる「つながる」日に向けて,毎日をがんばれるはずです。僕はそうやって生きてきたし,生きていこうかな,と思っています。


なんか意図せずに壮大な話になっちゃいましたね。まだまだ若いのに何を偉そうに人生語っちゃってるの?って感じです。とりあえず今,僕はなんで「これを書いている」のかわかりません。でもこれもきっと「あとからわかる」のでしょう。そのために,この文章がずっとここに残されているといいなって思います。誰かがこの文章の内容をなにかと「つなげて」くれたらいいな,とも思います。

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