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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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ひとり暮らしに関する思考 / 著者:黒崎咲夜 - ch5

俺は未だ、ひとり暮らしというものをしたことはありません。
何故なら、大学4年までも(そしておそらく就職浪人の来年までも!)実家暮らしをしているからです。

最大の原因は「カネ」です。
我が家はお世辞にも家計が裕福とは言えず、大学の学費も半額免除を貰っているくらいなのです。
おそらく、家計に余裕があれば、大学進学と同時にひとり暮らしを始めていたに違いないのですが。
だが、未だそれに為らざるがゆえに、とりあえず将来の自分に対して、警告がてらひとり暮らしについての思考をまとめておこうと思います。


1.十分な睡眠時間を摂る
答えは明確。十分な睡眠時間を摂らないと、寝坊して仕事や講義に遅れる可能性が高まるからです。
二度寝しない程度にスッキリと起きられる十分な睡眠時間を摂ることで、日々の生活にリズムが生まれ、堕落しにくくなると考えます。

2.栄養バランスを考えた食事を摂る
別に外食をせずに自炊しろ、という話ではありません。
日々において、たまに入る飲み会はさておき、栄養バランスは本気で重要な課題だと思っています。
俺の知り合いは、栄養を摂らなさすぎて栄養失調の診断を受けましたし、案外「ひとり暮らし」というものにおいて、誰からも干渉を受けなさすぎるために、特に趣味に偏りがちな人は食事というものを欠けさせてしまう人が多いように見えます。
栄養バランスを欠いては好きな趣味、仕事、遊びをするための身体を壊してしまいます。
ゆえに、きちんとした栄養バランスの取れた食事を摂りましょう。

3.物事の片付けは事後20分以内に
ひとり暮らしをしていると、どうにも律する人間が自分であるため、甘やかしがちになってしまいます。
皿を洗ったり、掃除をしたり、洗濯物を洗って干したりするのは、事を終わらせた20分以内にやるようにしましょう。
後回しにすることほど最悪なものはありません。後回しにすると「面倒くさい」という感情が生まれます。
こいつをどうにかするために、事後20分以内の片付けを勧めます。

4.独りにならない
独りになると精神的によろしくありません。
形式的であれど、親に定期的に連絡を取りましょう。よほど喧嘩別れしたとかでなければ、大抵の親は子どもが手から離れると心配性になります。
また、SNSが発達した時代なのですから、定期的にTwitterやFacebookで生存報告をしましょう。
真面目な話をすると、俺が大学2年の夏、ひとり暮らしだった大学の先生が、毎日更新していたSNSが1週間の音信不通の後に帰らぬ人となって発見されました。
ひとり暮らしで、しかも亡くなってしまうと自分にも、あなたの周りの人にも消えない傷を残しかねなく、悲惨です。
是非とも出来れば毎日浮上するとかすると、あなたの周りの人が安心します。また、信頼でき、しっかりしている友人には住所や連絡先を教えておきましょう。
(先述した先生は、学生や先生の周りの人たちが先生の住所を知らなかったため、住所は大学からの依頼により捜索していた警察が、唯一住所を知っていた大学からの情報提供によりと立ち会い人の学生が発見した経緯があります。もしあなたに何かがあってアクションが取れないあなたの安全を心配する人たちが、素早い対応を見込む為にも、知り合いの信頼がおけるしっかりした人を選んで教えておくのは本当に損はないはずです。以上、経験談)

5.たまには友達を家に呼んで遊ぶ
人様を家に呼ぶことで、嫌でも部屋の片付けすることができます。
(ただし見られても恥ずかしくない、という羞恥心の有る人に有効)
また、自宅の予備の鍵を持っている親御さんや親族が突然自宅に来て上がっていたとき対策にもなります。本当エロ本や薄い本が見つかると、家によっては修羅場になったり、虚無感半端なくなったりすると思う。


ひとり暮らしをしていないのに真面目に考えてみました。
これ、自分の時になったら役立つといいんだけど……( 〓ω〓 )



黒崎咲夜 / 2014.06.28

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帰り道に関する思考 / 著者:黒崎咲夜 - ch4

こんにちは、黒崎咲夜です。
今回のお題は「好きな帰り道」ですね。

好きな帰り道、というか、思い出がある帰り道は、俺の場合、「誰かと一緒に帰る道」に思い入れがありますね。


俺は小中高大と常に自宅と学校が4km以上離れており、また自宅から友人の家までが遠すぎた所為で「誰かと帰るということ」が多くありませんでした。
それゆえに、偶然にしても示し合わせたにしても、一緒に帰ってくれる人が居る、と言うことが好きだなぁと、幸せだなぁと思うわけであります。

また、「誰かと帰る帰り道」には、誰か他人と帰っている以上、必ず別れが来ることも、なかなか胸を迫る想いがあります。
大好きな人と、友人と、明日また会える人も居れば、遠くに居てしばらくまた逢えない人もいる。
そういう「甘酸っぱい別れ」(あまりこの俺の使う言葉としては多少似つかわしくないのは許してください!)を感じることもできる「誰かと一緒に帰る道」って言うのは好きですね。

その時の別れがある以上、次に出会う時の繋がりにもなる。
今回のきあずまで、「帰り道」というものは、次の「楽しみ」への道にもなっているのかなぁと改めて思ったわけでありました。



黒崎 咲夜 / 2014.06.28

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自分に関する思考 / 著者:黒崎咲夜 - ch3

こんにちは。黒崎咲夜です。
本日は、俺のアカウントの由来や自分について。

様々な場面で使用しているアカウントは「metamaid」と言います。
読み方は「メタメイド」。このアカウントの始まりは中学3年の夏に遡ります。

その当時、何を考えていたのか、受験を控える身にも関わらず、YouTubeで海外で放映されたとあるアニメの逆輸入版を観ていました。今なら著作権云々の話ですぐ削除される世の中ですが、昔はすこーし緩かったんですね。

そのアニメの名前は「星のカービィ」。

俺が小学校時代に観ていたアニメです。このアニメで出てくる仮面を着けた騎士のキャラクター、「世界で最もかっこいい一頭身」とも呼ばれる「メタナイト卿」と言います。そして当時並行で見ていた漫画が「ひぐらしのなく頃に」。メイドな格好をしたキャラクターがたくさん出てきます。

そこで俺は思った。
メタナイトをメイドにしたら可愛いんじゃね?

………と言うことで生まれたのが、「メタメイド」ひいては「metamaid」と言うアカウントです。当時のカービィ界隈では「メタナイトをメイドにした人」「メタメイドの人」として認識されるようになりました。

今でも「metamaid」を使い続けているのは、おそらく、その時に得たある種のアイデンティティ(俺らしさ)の一つがここに現存しているからかもしれません。


そして「黒崎 咲夜(くろさき さくや)」というハンドルネーム。
これも古いです。中学2年の時から使用しています。

名前の由来は、中学時代に在籍していた女子ソフトテニス部の友人から「黒」と「咲」の2文字をもらいました。

「黒崎」の名は、俺が宮崎出身・在住であったのでそこから。
「咲夜」の名は、「夜に咲く花」でありたいという当時の子どもじみた考えと、日向神話の「コノハナサクヤヒメ」の音からもらいました(当時は「サヤ」、という読みにしようか迷ったのですが、友人に聞いた結果「サクヤ」の方が読みやすい、というのと、ちょうど手元に「日向神話」の本があったのです)。

ちなみに、俺が「咲夜」となったので、妹は「朝枯れる花」から「朝枯(アサカ)」というハンドルネームにしました。当時は仲が非常に悪かったはずなのですが、姉妹とは良く分からないものですね。

自分語りをすると異様に長くなりそうなのですが怖いですね。
出来るだけ簡潔に参ります。

俺は一言で言うと「非常に印象の強い人間」のようです。
雰囲気が、オーラがすごい、と言われます。また、1度会うと圧倒される人が多いように見受けられます。

そのせいか、最近のあだ名は「女帝」「西太后」などと言ったかなり気の強い女性として思われているようです。その例えは間違ってはいませんし、俺も事実そう思います。ですが、自分では雰囲気やオーラが云々と言ったことは、今ひとつ理解できないのです

俺は「普通に」毎日を生活しているだけであって、それに対してどういう印象を受けるのかはさすがに分かりません。因果性を念頭に置いて思考をしている俺ではありますが、さすがに相手の受ける印象に対しての原因・理由は未だ見つけられてはいません(分かる人が居たらコメントもらえると嬉しいな!)。

ただ、思い当たることがあるとすれば、父方の祖母に教育されてきたということがあるかもしれません。

祖母は、俺を20倍濃縮したような気の強い女性であり、俺の短い人生の中で、祖母として、女として、先を生きた人間として、様々なことを指南してくれた女性でもあります。
彼女は、大卒の女性に非常に強いコンプレックスを抱いています。戦争直後、自らが女であるがゆえに進学できなかったという負い目と、夫が大卒で、その周りに居る女性たちへの嫉妬ということもあるのでしょう。

夫の周りの女たちに負けない為に、祖母は人間的に強くあろうとした。学は無くとも、しっかりした人間であろうとした。自分が正しい、と知っているからこその傲慢と不遜。祖母が気に入らないということで、敵は多いです。しかしその反面、彼女は非常に面倒見もよく、周りの人たちに慕われているのです。

また、初孫かつ女であった俺に対し、
女であっても強くなりなさい
女であっても学が無くてはならない
と祖母は俺に小さい頃から教えてきました。

「人間として強くあること」
「学が有ること」
については疑いようはありませんが、俺が現在、「女であること」にアイデンティティを疑うのはここからも有るのかな、と思っています。

「俺は『俺』であり、『性別を超えたもの』ではあり得ないのか?」と。
父親譲りの天邪鬼な性格がここに現れてますね。

天邪鬼と言えば、「皆がやっている」ことをやりたくないのがこの俺です。平たく言えば「流行りのことが嫌い」なんですね。このことのおかげで、流行に流されず、自ら考えてから何かをする基礎が出来たのかなーと思います。

ただ、気が強い為、小中高大でいじめを受けてきました。まさか大学でもやられるとは思いませんでしたが…。俺は全て、周りの人たちの支えによって乗り越えてきました。特に教員と、友人に強い思い入れが有るのはここからですね。

それ故に俺は教員を目指し、友人に対しては何かあれば、俺の持てる全力を尽くして助けたいと思っています。


端的にまとめます。


とある友人は、俺のことをこう言い表しました。
好きな人には最大限の愛情を、嫌いな人には最大限の嫌悪を向ける人」だと。

まさに、この通りだと思います。

極端かつ気が強く、面倒な人間ではありますが、これからもよろしければ仲良くしてくださると嬉しいです。



黒崎 咲夜 / 2014.06.22






(編集責任らららぎ)

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断念に関する思考 / 著者:黒崎咲夜 - ch2

こんにちは。黒崎咲夜です。

俺の断念してきたこと。
…正直、無いんじゃないか?と言う気持ちで筆を進めております。

俺は小さい頃から、自らやりたいことはみんなやってきた、または親や周りの人たちがやらせてくれた、という恵まれた環境に居ると思います。

特に、俺の父方の祖母は、現在も自らの経済力を用いて、初孫たる俺に様々な優遇をして経験させてくれています。そのおかげか、俺は様々な経験を今年22になる歳の割りには持っているのではないかと思います。

また、俺は非常に気が強く、傲慢不遜であるので(出会って2ヶ月の大学の教授から「黒崎さんはリアル西太后だ」だと揶揄されるレベルですのでお察しください)、「この俺がやると言ったらやるんだ!」と決めたらトコトンやり通すゆえに、周りが気を遣って譲歩してくれていたのかもしれません。

自らの望みを強い気持ちで貫き通すこと】。
これまで、様々な場面で断念をしなかった理由はここにあるのだと思っています。ただし、最低限の譲歩は必要ですし、これはさすがの俺でもやっていると思います(断言はしません、そんなことできませんから)。

だけれども、最終的に譲歩をしたとしても自らが結果に納得している、ということが、「物事を断念した」という意識を消し去っているのやもしれません。

さらに、何かを成し遂げる為ならば、自らに出来る全てのことは努力し、こなしてきましたし、何か物事を成し遂げるにふさわしい人間になるよう努めてきました。ここにも、断念したという意識が無い理由があるのかもしれません。

ここまで読んでおいて、俺は「断念」というか、「挫折」というものを味わった人間じゃないのだろうか、と思えてきました。
挫折をしないと、人間的に成長しないとは聞きますが、俺の場合、それは小中高大で受けてきた「いじめに対する対抗」で挫折を置換してきたのかもしれません。

さて、最後まで読んでくださったあなたに、是非お尋ねしたいことがあります。

断念したことが無いことは幸せなことなのでしょうか。
断念したことが無いことは、不幸せなことなのでしょうか。



黒崎 咲夜 / 2014.06.22





(編集責任らららぎ)

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因果性に関する思考 / 著者:黒崎咲夜 - ch1

初めまして、どうもこんにちは。
黒崎咲夜と申します。

とりあえずここは自己紹介よりも、まず、書きたくても書けていなかったお題の1つ目を消化していきたいと思います。しばしのお付き合いしていただければ幸いです。

俺は地元大学で西洋史学を専攻しています。また、高等学校の教員を志しており、先日まで高等学校の現場で実習を行っていました。
そんな俺は、「歴史を学ぶ者」として、「教育を行う者」として、俺が心がけていることがあります。

それは【物事には必ず理由と結果がある】ということ。
つまり、「因果性」の話なのです。

歴史上の出来事は、様々な原因が1つの結果として生み出されたもの、というのはよくお分かりかと思います。ほんのちょっとの原因であっても、その原因が存在しなければ、導き出される結果も存在し得ないわけです。

自分の行い(=原因)によって、相手の行動(=結果)が決まる。

よく、「他人は自分の鏡である」という言葉を聞きます。
自らの行動によって、相手が返してくれる行動が変わって来るからです。

例えるならば、接客業。
店員にも「ありがとう」「助かりました」などと気遣いをしてくださる、雰囲気の良いお客さんには、店員も少しでも良い風に対応しようという気持ちになることが多いです。逆に、客は神様だと勘違いしているお客さんには、店員も不愉快で上っ面ばかりの態度になりかねません。

重要なのは、相手の行動を期待する前に、自らから動く。原因をなるべく良いものとするように努力すると、人間関係や社会関係が少しは向上すると俺は確信しています。

また、この因果性の考え方は、何かを他人に説明をするときや、自ら思考を深めるときに非常に効果的、効率的に働きます

先述した通り、俺は教育者を目指しており、先日まで高等学校で実習生として活動していました。そのときに参考にしたのは、4年近く勤めている塾講師の経験です。

今までの指導において、俺の今までの教え子複数人に尋ねました。
「どうしたら、何か物事を理解しやすい?」
彼らは揃ってこう言いました。
どうしてその物事がそうなったのか、理由が分かれば分かり易い」と。

俺は、なるほどな、と思いました。

俺は幸い、頭の回転が速いらしいのですが、何か物事を習ったとき、「何故こうなったのだろう?この理由は?もしかして先日習ったあのことかな?」という因果性からなる思考をしていました。だが、この教え子たちはその「因果性からなる思考」ができないのです。

いや、今までの教育で、教えられて来なかった、と言っていいかもしれません。

ちょうど、文科省の政策で、ゆとり教育として少なくなった授業時間の中、時間の無い教員たちは彼らに対し、受験に必要な物事だけをあげつらう。子どもたちは、教員たちによって、黒板やプリントに淡々と事項を挙げられ、理由も知らずに物事の名前だけはたくさん「知識」として頭の中に入っている…。これによって、因果性を考える思考が、育って来なかった。そして、物事に因果があることを知らずに育ってしまったのでしょう。

本来は自ら因果性の思考をやることが大切です。けれども、今まで何故その物事がそうなったのかすら教えられて来なかった子どもたちに、いきなり物事の因果を考えろと言うのも酷な話です。

と言うわけで、これを踏まえ、俺は実習期間に行った6回の授業は全て、物事の原因・理由も説明しました。

そして実習を行った生徒たちにアンケートを採ったところ、教授方法についての批判や改善要求はありましたが、50人近くの生徒全員が「先生の授業は、事項の原因とか理由を説明してくれたから分かり易かった」と回答してくれたのです。

この時に確信しました。物事の因果性を考えさせる指導を行えば、必ず生徒の思考力は上がると。

…話がずれました。
ですが、人間は【物事には必ず理由と結果がある】と言うことを理解すれば、自ずと思考力や理解力は上がると言うことは分かっていただけたかと思います。

より高みへと近づく為に。
俺はこの法則を念頭に置いて、これからもさらに『思考の深淵』へと近付いていきたいな、と思っております。



黒崎 咲夜 / 2014.06.22







(編集責任らららぎ)

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