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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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iPhone 6 / 著者:蛙教授 - ch30

iPhone 6を買った。128GBのシルバーだ。現在存在している中で、僕が最も欲しいと思っていたスマホだ。
iPhone 6 Plusでは、ハード的にもソフト的にも不具合が多いと聞く。最大容量の128GB以外では容量が足りないというのは判っている。僕は初代iPad Air 128GBを使っていて、64GBでは足りなかっただろうという事を毎日痛感している。128GBで足りないと感じたことはない。カラーもiPhone 5sならゴールド一択であったが、更に大きな筐体でゴールドとなれば、締りが悪いし、スペースグレイも何か違う。
其のような理由で、iPhone 6 シルバー 128GBは僕の最も欲しかったスマホだ。

さて、此処まで書いてきて、「なんだただの自慢話か」と思われる向きもあるかも知れない。今回のエントリは自慢話に留まらない。いい歳した人間が、親子関係の拗らせについて言及する場である。端から見れば、「え、そんな下らないことで」と思われるだろう。だが、僕には重要なことだ。

話は僕が15歳の時にまで遡る。当時、僕は山岳部に所属していた。山に登る部活だ。持っていたのは、防水防塵のついて居ない、限りなく運用コストの低い携帯電話だ。僕は親からの愛情を試すように
「山では連絡手段が、文字通り生命線となる。遭難して連絡手段を失っては僕の生命に関わる。ヘリコプターが飛んで、其れがもし民間に依るものであれば、400万〜600万程飛ぶのが相場だ。だとすれば、金銭的にも、人命的にも、先ず最初に補填すべき、重要視すべきは堅牢性の高い携帯電話の購入だ」
と言った。何度も言った。然し、返ってくる答えは、此方の主張を理解しない頓珍漢なものばかりであった。僕の主張を理解した上で、排斥しているのなら解る。尊重されているし、自分も納得の行く説明が為される。然し、どうだろう。どんなに真剣に考えても、どんなに情報を収集しても、どんなに解りやすく説明しても、どんなに回数を重ねて説明しても、返ってくるのは場当たり的で、感情的な返答。

「契約した時の店員の態度が気に入らない」
「妹達の手前、一人だけ立派な携帯電話を持たすことは出来ない」
「説明を聞いていて眠くなってきた」
「本体代金や月々の基本使用料の料金システムが理解出来ない。理解出来ないものに金を払うのは、何が出てくるのか解らないガチャポンに金を掛けるのと同じだ。私はガチャポンの類に金を掛けない」

気に入らなかった。勿論、納得の行く説明もある。平等の観点から、兄妹で異なる価格帯のものを買い与えるのは確かに良くないだろう。然し、こっちは自分の生命が掛かっているのだ。優遇されて当然ではないか。自分は将来、一角の人物になると信じて疑わなかった僕は、将来大成するための芽を摘むような行為に対して糾弾するのが当然だと思っていた。僕はエゴイストだった。

其後、僕の主張を聞き入れないばかりか、不誠実な応答しかしない親を心配させ、後悔させるために、僕の登山への熱が上昇していく。

雪山に登った。厳冬期の八ヶ岳だ。二泊三日の幕営。装備は食料含め一人30kgのザック。当時先輩からは「先輩から語り継いで来た、此処15年ぐらいのなかで、最も寒い時でも-13℃だから大丈夫。そんなに困らないよ」と言われた。実際に僕らが登った時は、未だ太陽の輝いている昼の三時半の段階で-19℃。十数年に一度の大寒波と、僕が人生初体験となる雪山の日程が被ったのだ。夜中に至っては-30℃を下回って温度計が振りきれていた。ジーザス!
ウールの分厚い靴下2枚を含む、靴下4枚重ね。下はGORE-TEXのレインスーツを含む5枚重ね。上は同じく、GORE-TEXのレインスーツを含む9枚重ね。食事の時以外は、常に帽子と目出し帽を着けていた。それでも寒い。本当に寒い。存在しているだけで、大気に存在を全力否定される事が人生に何度あるだろうか。あぁ、僕は存在してはいけない存在なのだと一面銀世界を前に思う経験をしたことがある人は、此の文書を読む人の人の中に何人いるだろう。入山3時間にして、足の感覚が無くなり、結局感覚が戻ってきたのは下山した三日目の昼だ。

雪山だけではない。当時の家から高尾山まで自転車で15分のところにある。朝の5時に起きて5分で支度を済ませ、15分で高尾山口まで自転車を走らせる。高尾山の中でも険しくて、舗装のされていない自然六号路、稲荷山コースを好き好んで登った。全力ダッシュで45分〜50分。山頂で5分間の休憩を入れる。下山は全力ダッシュで20分〜25分。其処から自転車で家に戻って、シャワーを浴びて、朝飯を食べて、更に自転車で学校に行く。そういった生活をしていた。文字通り、朝飯前に登山をするという生活だ。

休みの日ともなれば、絶対に歩くのを止めないという縛りで山行した。高尾山口〜高尾山山頂〜城山山頂〜景信山山頂〜明王峠〜陣馬山〜奥多摩南部までのルートを一瞬足りとも止まってはいけないという縛りの中で黙々と登って、黙々と引き返してきた。最初の7,8時間は時速7kmの早歩き、疲れてきても時速3kmを切らないように意識を保ち続けた。食料を口にする時もカロリーメイトなどの歩きながらでも食べられるサイズ、包装のものとした。水分を補給するときは一度に飲む量を舌に乗る程度の量に留めれば、12時間程度ならトイレに行かずに済む。そうやって、一日70〜80kmの距離を稼いだ。

純粋に、一人で居ること、一人で延々と作業しているのが好きだというのもあるが、親に対する当て付けは大きい。心配症で依存的であるのにも関わらず、知性も教養もなく、自分で調べる、相手の話を真摯に聞くという誠実さもない、一方的な愛情が何よりも許せなかった。其の一方的な愛情を試すかのように、自分は迷惑を被っている事を自覚するために、延々と自分を危険な場所へ、ストイックな山行へと自らを導いていった。

反面教師として、「相手が話している時は真剣に聞かなければならない。相手の話を遮ってはならない。相手の話を正確に聞かなければならない」という気持ちが強い。半ば強迫的ですらある。一対一で話している時に相手の話に集中できていなかった、相手が心を開いてくれているのに其れを誠実に受け止めていなかったと感じる瞬間があると、非常に後味が悪く、自責の念に駆られる。然し、罪悪感、恐怖、不安、自信の無さというのは、出来るだけ安全な方へ、出来るだけ後悔しない方へ、出来るだけ安心できる方へと偏っていく。行動は萎縮し、未知なものを避けてしまう。僕は、保守的になっている事を自覚した時点で、意図的に新規性のあるものを取り入れる期間や態度を取ろうとしていた時期もあった。厳密に言えば、其の時期は今でも続いている。だが、保守と新規という二項対立の中での枠組みに問われている時点で、其れは自分の経験情報に準拠した論理的なものであり、更に繊細で、更に大体な選択を取ることが出来なくなってしまっている。重要なのはリズム感と感性だ。最近になって自覚した。
此れは経験した事が無いから、取り組んでみよう。此れは未経験だから挑戦してみよう。そういった基準で何か新しいものに取り組もうとするとき、其れは自分の感性で選んでいるのではなく、今までの過去の記憶と照合して、自分の中に取り込んでいく行為だ。意図的に、自分の趣味、自分の過去から連続性の無い区画を自分の中に作る事で、自分の世界が拡がるというシステムは、所詮は、未知を既知に塗り替えていくだけの塗り絵に過ぎず、新しいものを構成していく、新しいものの波に乗って行くという訳ではない。重要なのはリズム感だ。

本稿の総括として、自分の中の成長物語を単純化して描いてみたい。
一方的で人の話を聞かない親からの過干渉のシンボルとしてケータイがあった。一方的な好意、行動を避ける為に、自分からアプローチしない保守性と相手の話を誠実に聞こうとする態度を身に付ける。然し、其れは強迫的になり、其れが少しでも怠った時に強い罪悪感や不安を感じるようになってしまう。罪悪感や不安を感じないようにするために、安牌を切ってばかりいる。其れに自覚的になったときに、コンスタントに「新規性を摂取する」というコストを払う事に決め、実行する。然し、其れの限界を感じる。重要なのはリズム感だという事に気付く。親から望んでいた形でスマホを買い与えられる経験を経て、最初の拗らせの原因が無くなり、重荷が減る。

さて、此処まで読んで、「なんだよ。いい歳して、親にケータイ代払わせるなよ。スマホなんて自分で買えばいいじゃん」という向きもあるだろう。だが、それでは駄目なんだ。イニシエーションとしてのプレゼントがある。僕にとってiPhone 6というのは紛れも無く、一つの通過儀礼として重要であったし、其れを自分ので購入してしまえば、永遠に解決することのない関係性というのも存在する。そういった、気持ち悪さを自覚した時点で、涼しい顔をせずに自分の気持ち悪い所を文章にして公開したいと思いましたとさ。おしまい。

ってしたかったけど、ちょい補足。いやー、なんというか、こういう「自意識拗らせてます。繊細なんです」っていう文章は読むのも、書くのも苦手だったんだよね。だからこそ、此のしんがり思索隊で書いてる文章も、やたら堅い文体で書いてきた。普段の生活でも、そういうのをアッピールするのが嫌だった。だって自分のどうしようもない弱みを見せることになるじゃんね。でも、最近になって、鎧で固めてるだけの生活とか文章作成とかしてるのが馬鹿らしくなったというか、其れをしてる間は時間が進まないし、さっさと季節を変えたいなっていうのが自分の中であったんですよね。元々他人が攻撃性を露わにしてたり、悪口言っていたり、感情的な非難してたり、人格否定してたりとか、すっごい嫌いだったんすよ。嫌悪感が強かった。でもね、偶、親に対して知性がない、教養がないって電話口で説教してる人の近くに居るときに、もう、なんていうか、10年ぶりぐらいに"溜飲を下げる"感覚を味わったんですよ。其れが最近。あぁ、僕にもこういう感情があるんだな。醜いなって。其の出来事の前後で、こっちはまた別の出来事がきっかけだったんですけど、元々自分って感覚で生きてた人間だ、なんとなく"流れ"を掴んで、なんとなく上手く行って、其れも確信とかじゃなくて、漠然とした自信に支えられた「なんとかなるっしょ」精神で生きてた人間だって思い出し始めてたんですよ。まぁ、そんなこんなで、こういう文章を人生のマイルストーンとして、公開しといて、あの時は俺は馬鹿だったな、幼かったなって思えるようにしたいですね。今度こそ、本当におしまい。ではでは。







(校閲責任:らららぎ)

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3つの嫌いなこと / 著者:蛙教授 - ch19

私には嫌いなものが3つ在る。退屈、未調理のトマト、そして、自分より出来の悪い人間に主導権を握られること、だ。本当は気が進まないし、試みたことも無いのだが、いい機会だから、考えてみたいと思う。嫌いなものを褒める文章を。

私は刺激と新規の知見が好きだ。だから、退屈を嫌う。主観に於いて、新しいと感じられるものを得ていないと、精神状態が悪化するし幸福度が下がる。然し、世の中には退屈、俗にいう、平和な生活が好きな人間も存在している。其の人々の気持ちになって、私の嫌いなものである退屈を褒めてみたい。

「退屈が何故素晴らしいのか。其れは此の世が平和であるからだ。退屈である事に依って、自分の生命や自分の大切な人、物、事象が脅かされていないと確信する。大切なものが失われる。脅威に晒される。そういった物を良しとして、刺激を求める人間の気が知れない。彼らは愉快犯である。彼らは侵略する。退屈を好むことは、其の周囲の人間を不安定の中に突き落とす性質である。倫理に依ってではなく、幼稚な己の快楽の為に、他人を巻き込み、又、自らも辛苦の道へと邁進する。此れは蛮勇であり、狂気である。確かに、人類の長い歴史の中でrisk-takingな性格が、人類の大きな進歩を導いた時代もあっただろう。然し、今は21世紀で、此処は日本である。退屈を希求する精神は、平和と安定を好み、余計な事をしない高い倫理観を持つのだ」

次は、未調理のトマトを褒めようか。此れに関して言えば、純粋に私の味覚嗅覚の問題であり、全世界の人間が皆、生トマトを食べるべきではない、ということを主張するつもりはない。従って、此処では単なる主観的な好みの異なる人間を仮構し、褒めてみたいと思う。

「トマトは赤い。其れが料理に彩りを加える。目を閉じて欲しい。そして、トマトの無いサラダ、トマトの無いハンバーガー、トマトの無いピザ、トマトの無いタコライスを思い浮かべて欲しい。さぁどうだろうか。どんな色彩の世界が、読者諸君の瞼の裏に浮かんだであろうか。トマトの鮮やかな赤が欲しくなってきてはいないだろうか。そうだ、此れこそがトマトの存在意義である。料理というものは、味覚聴覚を愉しませれば、其れで良いというものではない。視覚的にも、十二分に愉しめなければならないものである。其の意味で彩りは非常に重要だ。トマトは其れを与える。更に、トマトが与えるのは彩りだけではない。高い栄養素、安価で供給される生産性の高さ、様々な環境で生育する逞しさ、小学生でも対応可能な育成に関する専門知識の少なさ。どれをとってもトマトは素晴らしく、此れからも導入されるべきものである。私の味覚、聴覚、視覚を楽しませる為にも」

最後に、「自分よりも出来の悪い人間に主導権を握られること」について、其の逆を褒めてみたいと思う。其の前に、此の状況が嫌いになった背景と、現実で直面する此の状況への、私個人の対応策を述べる。

私は不条理が嫌いだ。合理的でない理由、合理的でない采配に依って、十分なリソースがあるのも関わらず、目的が達成されないという事がある。不条理は、合理的な選択を行えない者が、其の主導権を行使することに依って、引き起こされる現象だ。私は、目的達成の為に合理的な判断能力、最適な手段を選択したい。少し考えれば、より最適な選択肢があることに気付くにも関わらず、知能の不足、経験の欠乏、情報収集能力の欠如に依って、事態が悪化するのを好まない。然し、現実にはそういった状況に陥ることは日常茶飯事である。どう対処すればいいか。

自分の思考空間の中に、現状採用されている手段よりも最適なものがあるのにも関わらず、其れを選択出来ない事に、強い苛立ちを感じる。ならば、自分が最適な手段を持たない環境に飛び込めば、其の苛立ちを解消できる。自分の不得手なこと、自分にとって未体験な分野に飛び込んで行けば、周囲の人間は、大体に於いて、自分よりも優秀であり、多くの事を学ぶことが出来る。苛立ちも少ない。私は、今までにこういった場所に来たことがない、こういった表象をしたことがない。そういう機会に対して、アンテナを張っては実際に経験することにしている。此れが「自分よりも出来の悪い人間に主導権を握られること」に対する嫌悪感を解消する手段だ。何も、力技で主導権を握り返すことだけが、合理的な選択ではない。では、此のスタンスに対して反論する事で、嫌いなものを褒めてみたいと思う。

「自分よりも出来の悪い人間に主導権を握られることが嫌いな人間がいるそうだが、自分はそう明言する事自体に抵抗がある。自分よりも出来の悪い人間、という視点で他人と接している時点で、他者をステータス、或いは、道具として見做している。自分にはないもの、自分よりも優秀な人間から学びたいと言えば聞こえは良いが、其の態度は他者を自分の目的の為に利用する行為である。常に自分の不得手な分野に手を出すということは、其の周囲の人間に対して益になるよう振る舞うのではなく、自分の個人的な好奇心を満たすため、個人的な苛立ちを解消するために、他者を利用している。其の人が学習している間の、コミュニティ全体の生産性は落ち、学習が一定水準に達したら、コミュニティを去るというのは、学習のフリーライドであり、他者に対して貢献しようという気のない人間の考えである。主導権という物の見方にも違和感を感じる。人間は常に誰かの支配下に置かれている訳ではない。人間は自ら主体的に選択し、主体的に生きているのである。其れに対して、主導権という幻想を導入し、自らの責任の所在を有耶無耶にするのは、倫理的にどうであろうか。以上を、自分よりも出来の悪い人間に主導権を握られることに対する反対意見とする。私が此処で褒めたいのは、其の逆、自らの能力を活かして社会に貢献し、主導権という言葉で自分の意志と責任を有耶無耶にしない態度である」

如何だろうか。私は3つの嫌いな事について、褒めてみた。最後の一つに関しては、何やら詭弁めいた文章であると感じる人も多くおられるのではないか。此の論理展開はおかしい、此の議論は成り立たないというのがあれば、Twitterでも、此のブログでも、メッセージやコメントを飛ばして欲しい。忌憚ない批判を募集する。


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ユーザー名と拗らせ / 著者:蛙教授 - ch3

アカウントの由来について語ろうと思う。最初、インターネット上でハンドルネーム、スクリーンネーム、ユーザー名というものを初めて使ったのは、2011年にTwitterを始めた時である。当時、何者でも無い自分、何者にもなりたくない自分は、何かいい言葉を探していた。当時は何者かとして振る舞う、何者かであるという事其れ自体に強い反発を覚えていた。其処で付けたのが『虚数』というユーザー名である。Twitter IDも虚数にちなんで、imaginary_numberにしたかったが、既に取得されていた。其処で、imaginary set of number(虚数集合)の最初の二単語を取って、imaginarysetというユーザー名を取得した。今となっては「想像上の集合」という意味となって、より透明感のある名だと気に入っている。

当時に、私は何に対して、反発心を持っていたのであろうか。当時読んでいたサルトルの言葉を引きつつ説明したい。サルトルの言葉に「実存は本質に先立つ」というものがある。人間には最初に決まった本質があり、其れが現実世界に於いて現れ出ているのではなく、<今此処>に於いて自由意志と選択権を持った存在である人間は、常に自分で選択し続け、自分を作り続けるものだ、という思想を端的に表したものである。何者かとして振る舞う、何者かとして期待される。其の何か目指すべき像があり、其の完成や適応に向かって、自分を律し、社会や周囲の人間に適応していく事が、本当に幸福なのか、倫理的なのか。そんな青臭い事について考えていた。サルトルは即自存在、対自存在、という概念も導入していた。即自存在とは、Aであり且つA以外ではあらぬところのもの。対自存在とは、Aであり且つAであらぬところのもの。具体例を出して説明したい。

簡単のに、即自存在は「物」、対自存在は「人」として説明する。Aである事以外の選択肢を持たない「物」である即自存在は、自らの意志に於いて、自分が何であるかを選択する事が出来ない。一方、自由意志を持つ存在である対自存在の「人」は、其の瞬間瞬間に自ら選び、自己を獲得していく事が出来る。サルトルは、其の事実に目を背け、自分はこう振る舞わなければならない、と考える個人の規範や社会からの圧力を、自己欺瞞、人間疎外として批判した。然し、本当に我々は選択する事が可能なのだろうか。

此の世界は物理法則に依って支配されており、我々が自由意志であると思っているものは幻想だ。そう言われた時に、どう反論すれば良いだろうか。広く認められた世界観の一つである自然科学の世界観をどう転覆させれば良いだろうか。サルトルはフッサール哲学に準拠する事で、其れを可能にした。フッサール哲学は<今此処>を特権化することで、真理に到達しようと試みた。フッサールの現象学は、其の最初のモチーフを実現する事は出来なかったが、様々な分野に応用されていった。文学、思想、哲学、看護学、社会学、等々。其の中で、特に大きな成果を見せたのがサルトル等の実存主義文学、実存主義思想である。規範、機械論、決定論と言ったもので説明され尽くす、或いは、自分の意志を奪われてしまうという恐怖、不安、反発を代弁する実存主義は、フッサールの視点を応用することで、大きな華を開かせた。自分の論を打ち立てる時に自然科学の知見を援用しないこと、<今此処>を特権化し既存の物語に収束させないこと。其の2つに依って、サルトルは自由意志について思索を深めていったのだ。

我々は、過去、現在、未来が実在していると思っている。然し、其れは本当だろうか。現象学の視点は過去と未来の実存に疑義を唱える。過去は記憶の中にしかない。過去は現在の表象に対する説明として呼び出される情報である。認識の枠組みとして過去が存在しているだけである。そして、過去の囚われて選択する事にサルトルは警鐘を鳴らす。「過去にこんな事があったから、自分はこう振る舞わなければならない。自分は何々をしなければならない」というのは、自己欺瞞であるとサルトルは言う。「今、此の瞬間にも人は選択をしているし、其の選択権は常に貴方に与えられているものだ」とも。対自存在である「人」が即自存在として振る舞う事が自己欺瞞であるのは、人間の尊厳である自由意志を自ら放棄しているからである。

さて、本稿は自分語りを目的として作成している。少し、自分語りの要素を増やそうと思う。何故、私は2011年にこんな事を考えていたのだろうか。其れは当時浪人生であった私は、何か特定の学問を「学ぶ」為に、何者かに「なる」為に、大学を目指し、進学するという風潮に嫌気が差していたからだ。興味というものは、常に移り変わる。にも関わらず、大学入学時に自分が何になりたいか、何になりたいかを決められ、其の枠組みの中で進学し、卒業し、就職し、経済力を得る事が求められる。人生設計を迫られる。私が反発心は、在学中に勉強したいことが変わった場合に他の授業を受けられないということではなく、特定の職業の社会人になるのが普通であるという風潮に対してであった。最初になりたい者があり、努力して其れになろうとする。成程、社会からすれば、合理的で有用性の高い人材を生産することが優先されるだろう。然し、私は、最初に疑問や面白いものが眼前に存在し、其れの解消と更なる刺激と情報を求めて行動する者である。学位を取ること、社会的地位が保証されること、社会に貢献すること、其れは確かに素晴らしいことであるが、第一義にすべきではない。私は、ただ、目の前の面白い事を追いかけつつ、其の面白いと思うものの規則性を発見し、更に其れをフィードバックして人生設計を立てたかったのだ。大学のカリキュラムや学問分野の一覧を渡されて、君がなりたいのは何か、などどと詰問される言われは無いのである。


さて、3年前の私の葛藤の代弁を措いて、アカウント名の話に戻ろう。より多くの人に覚えてもらいたいという理由から「動物の名前+役職」というユーザー名にしようと考えた。最初に候補に上がったのが、蛇、梟、蛙で最も身近で親しみやすい蛙にした。「世界を変える」の「変える」を捩りたかったという中二病的な発想もあったと思う。次に、インテリっぽい役職を付けたいと考え、真っ先に博士と教授が浮かんだ。然し、博士も教授も他の人と被りそうという理由で、准教授と付けることにした。修士と付けようかとも考えたが、教授、准教授、博士の中で、特にネームバリューがなく、年齢的にも修士課程に籍を置く院生に間違われる恐れがあったために、准教授に落ち着いた。蛙准教授の誕生である。

其後、ピュグレム、虚無、真理など、時々、ユーザー名を変えてはいたが、imaginarysetという名前だけは変えずに来た。imaginarysetがweb name(web上の本名)で他の名前は、web sub name(覚えて貰いやすくする為のニックネーム)という設定である。形骸化している感じは否めない。現在は、「准」がとれて、「蛙教授」というユーザー名にしている。何年も「蛙准教授」として振る舞ってきたが、蛙教授、蛙博士という名の人物は終ぞ聞かなかったからだ。名前上は昇進である。此の数年間は、昇進に値する成長を伴っているだろうか。

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端とは何か / 著者:蛙教授 - ch18

端とは何であろうか。此のテーマについて考えたことは、私の記憶している限りでは、初めてである。いや、あったかもしれないが、其の時は「端」ではなく、「極端」「最後」「終い」という言葉で表現されるものであったように感じられる。では、改めて「端」について考えてみよう。

我々が「端」という概念について考える時、其処に明確な境界を見る。最後、極端、終いという場合、其処に空間的、時間的、経過的、程度的、物語的な「境界」を想定し、其処から外れる、其処の外側に向かう、其の境界に漸近する、という意味を想起する。人間は何かを認識する際に境界というものを容易に認識する。其れは、ヒトという個体、一つ一つが、其の経験に依って、自らの神経系を発達させており、其の経験情報の共有で多く用いられるプロトコルが言葉や空間であるからだ。境界を定めるのが容易であるのは、物理空間に於いて境界を規定して、有体物を認知、理解、利用、共有する有用性が高いからである。森の中、木の上での移動の多い霊長類の末裔であるヒトは3次元空間と其の下位互換である二次元平面の認知能力を、長い進化の歴史の中で獲得してきた。空間認知は境界の認知と親和性が高い。

ユクスキュルの環世界という概念がある。環世界はドイツ語で環境世界を意味する"Umwelt"の訳語である。客体としての生物の環世界は、知覚標識と作用標識からなる。主体としての生物に関しては、更に機会操作系と言われる、知覚標識を主体的に操作する主体を想定し、追加する。知覚標識とは、何か行動を生み出す刺激であり、作用標識とは其の行動である。作用標識は知覚標識を消去する。どういうことか。

ユクスキュルは『生物から見た世界』でマダニの環世界について言及している。マダニは光覚、嗅覚、温覚の3つの知覚標識を持つ。光覚に依って灌木の茂みで構え獲物を待ち伏せる。嗅覚に依って恒温動物から放出される酪酸を感じ取り、灌木から獲物に落下にする。温覚に依って、最適な場所を探し出し、吸血する。適切な光度である場所に移動し、酪酸を感じ取れば落下し、適切な温度があれば吸血する。其の過程は、知覚標識を消去する方向に作用標識が作用するものである。

端について考える時に環世界という言葉を出したのは何故か。其れは、端というものが、其の儘、知覚標識の端的な性質を受け継いでいるものだからである。知覚標識は作用標識を誘発し、作用標識は知覚標識を消去しようとする。マダニの場合は、思考、記憶、学習という面で、ヒトより大きく劣っている為に解り難くなっているが、知覚標識と作用標識という概念は、人間の思考空間、学習空間に其の儘適用可能である。

時間という概念を導入する。時間は常に過ぎ去り、不可逆な変化を齎す。或いは不可逆な変化其れ自体が時間であるという議論も在るだろう。そういった議論や思考を可能にするのは、其れが知覚標識だからである。生物の行動の多くを知覚標識、作用標識で説明しようとする場合、常に流れる存在である時間は「時間の端」というものを想定させる知覚標識である。時間というものが実在するのであれば、時間の最初は何か、時間の最後は何かという問いを立てることが出来、其の問いに答える為に、多くの仮説、解釈、認識、概念の点検と整理が発生する。AならばBという論理展開も知覚標識と作用標識で説明可能であるし、厳密性の無い連想も知覚標識と作用標識で説明可能である。そう考えた時に、作用標識の最後の形、或いは知覚標識其れ自体が「端」ということが出来る。

ヒトが思考空間、学習空間に於いて、何かを認識する境界、終端を表す機能としての「端」は、ヒトの認識に存在する普遍的な機能なのである。





(編集・校閲責任らららぎ)

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快楽としての宗教 / 著者:蛙教授 - ch12

宗教とは認識である。認識とは何に依って規定されているものであろうか。我々は神が存在するという時、其れが虚構であるか、現実であるかという視点で其の意見を見る。正しい認識、正しくない認識の2つが存在しており、どちらか片方に属するという発想だ。其れは主観と客観という文脈で良く論じられる。経験に依存する主観的な認識は、正確な思考と正しい知覚に依って、其の認識の正確さ、正しさを獲得しておき、最後には客観的に正しいと言われる認識、即ち、真理に到達するという図式だ。然し、盲目的に客観世界が存在していると仮定する事に誤謬が挟まれないだろうか。其の疑問を下に、思索を始めた人間が居た。フッサールである。フッサールは伝統的な主観=客観図式ではなく、可疑性=不可疑性という図式で思索を試みた。どういうことか。

フッサールは客観世界が存在するという命題を盲目的に真であるとして議論を始める伝統的な認識論を排し、疑えないものをベースに正しい認識に立とうとした。フッサールは正しい認識に到達する上で、其の基礎付け足りうるものを2つ導入した。知覚直感と本質直感の2つである。知覚直感とは<今此処>に於ける知覚情報を指し、本質直感は、言わば、正しさを担保する為の超越項である。フッサールの構想はどんなものであろうか。


先ず、知覚直感について言及する。フッサールは可疑性が含まれる認識に、様々なものを上げた。慣習に依って規定された迷信、再現性を其の基礎付けとする自然科学、個人の経験に依って得られた知見。然し、様々なものを上げた所で、一つの絶望的な壁が存在する。今現在の認識全てが夢である場合が其れだ。此の文章を書いている私は、友人宅の布団の上で、MacBook Airを開き、其れが夢ではない、現実の正しいものとして認識している。然し、此れが夢ではないと証明する事は不可能である。早くも正しい認識への探求は絶望的となったが、フッサールの哲学では、其れは絶望ではなく、思索の出発点である。真偽値が定まらない認識が存在しているのならば、其の命題に準拠せずに、其の命題の真偽値をエポケー、即ち括弧入れすることで、議論を始める。そうすることで、今現在の認識が夢である場合、現実である場合の2つの可能性について、両方考える事で、全ての場合について考察が可能となる。其の上で、現在の認識が夢である場合という、証明も反証も不可能である場合についてではなく、現在の認識が正しい場合について議論を深めていきたい。

では、其の前提の中で過去、現在、未来の中で不可疑性を持つのは何であろうか。其れは現在のみである。過去に関しては、伝聞や記憶違いに依って可疑性を呼びこむし、未来に関しては起こっていない事について確認しようがない。1分後に宇宙が消えてなくなっている可能性を反証することは原理的に不可能である。加えて、<此処>の特権化を何故行われるのか。其れは、自分の知覚出来る範囲を超え出たものは、伝聞を含むという意味で、可疑性が含まれる。以上から<今此処>が不可疑性を持つという意味で、特権化され、議論の基礎付けに用いられる。


知覚直感だけで、正しい認識に到達出来るだろうか。答えは否。純粋に生物学的な刺激だけでは、其れは認識とは言えない。複数の情報を下に、意味や解釈と言われるものを紡いだ時に初めて其れは認識と言われる。フッサールの用語で言うところのノエマである。意味を齎す真理作用であるノエシスに依って規定された意味や解釈をノエマという。目の前のMacBook Airを知覚した時に、MacBook Airの視覚的情報、重みという触覚的情報を統合したものとしてMacBook Airが認識される。統合に当たって、MacBook AirとMacBook Airではない存在(ズボンを構成する布、身体にあたる扇風機の風、視界に入る友人の顔)が明確に分離する。こうして、MacBook Airというものは輪郭を得て、其の境界を規定する。情報を統合する時に、<今此処>だけを特権すると、どんな不具合が存在するだろうか。

私は、ほんの数時間前までまどか☆マギカのBGMを聴いていた。音楽を認識する時、<今此処>に依る情報だけで理解出来るだろうか。絵画が空間の芸術なら、音楽は時間の芸術だと言われる。其れは時間経過に依ってのみ、其の鑑賞を可能にするからである。では、今此処を特権化すれば音楽を認識することが不可能になってしまう。抑、MacBook Airや扇風機の風を認識するのにも、必ず時間経過を含んでしまう。其の意味で、連綿と続く<今此処>に依って得られた知覚情報を「正しく」認識するための超越項の導入が必須となった。本質直感である。


本質直感の導入は、盲目的に正しいとすれば、其れは前述の盲目的に客観世界の実在を真とする議論と同レベルではないか。此処で、フッサールが正しい認識を希求したインセンティブについて考えたい。フッサールは哲学を始める前は幾何学を好む数学徒であった。数学には、最初に公理を選択すると、其処から、ある命題の真偽値が真であると一意に決定可能であるという、認識論について思索する合理主義者にとっては、希望となる理論体系を有す。フッサールは、数学と同じく、絶対に正しいものから議論を出発すれば、数学以外の領分、所謂「現実」と言われる領分に於いても、正しいと言える理論の構築が可能ではないかと考えた。

此処で認識論の文脈で語られる合理主義、経験主義という言葉について整理しておきたい。此処で言う合理主義とは、最終的に人間は真理に到達出来る存在であるという立場。経験主義とは、どんな認識も人間の生物学的に規定された、自己の経験に依存するという立場。両者は真理に対して、楽観と悲観という文脈で語られる事が多い。フッサールのアプローチは慎重で、経験主義的であるのにも関わらず、最終的に求めているものは合理主義者の其れである。構想の最初の段階で、強烈な価値判断が存在する。


此処に来て、認識は其の個人がどんなものに「快楽」を感じるか、という論点に変わる。認識論という分野が生まれ、多くの人間が其の分野で思索を重ねてきた。そして様々な意見の対立が生まれた。其の人にとって何が大切か、何に価値を置くか、どんな価値判断をするかに、認識が規定される。物理法則を初めとした自然界の法則を利用しようすれば、科学理論を援用した科学技術という営みとなり、正しさを希求すれば真理が存在するものとして思索を始める。其れ等の価値判断、目的の設定は、広義の「快楽」であり、其の文脈に於いて、人間の行動の一切は「快楽」で説明される。無論、此の議論は横暴であり、人間の行動、思考、全てを「快楽」として説明するのは、行動と思考の力動因が「快楽」である以上の情報を齎しておらず、トートロジーである。其の認識を前提とした上で、我々が科学、真理、宗教、迷信と言ってるものは全て「快楽」に依って規定された、同等に相対的なものである、という認識に到達する。

此処で、本稿の本題である「宗教について」に立ち戻りたい。宗教とは「快楽」である。宗教だけではない。人間の営み全てが「快楽」に依って説明可能であるし、其の意味で、全てが相対化される。では、そう考えた時に宗教と宗教ではないものを峻別するのはなんであろうか。科学と宗教の峻別であれば、科学は再現性や統計的有意や反証可能性と言われるプロトコルに依って基づいた体系であり、宗教には、(少なくとも宗教全般という括りでは)共通のプロトコルが存在していない。宗教の定義自体が曖昧で、共通の認識が無いのが現状だ。であるならば、俗に言われるAppleも宗教であり、私は其処に入信しているアップル信者である。業務でWindowsを使っているが、使用する度に精神的にダメージを受け、早くMacを使いたいと思う自分がいる。精神的にダメージを受けるという事は、紛うことなき「快楽」の問題である。正義ではなく、気持ちよさ、快適さこそが宗教を規定する。

さて、此処まで読んで、納得して頂けただろうか。何やら、論理の飛躍や、煮え切らないものを、本稿から感じられるのではないだろうか。其処に関しては筆者である私も同意見である。友人宅に来たついでに、勢いに任せて文章を書いてみて、「其れは本当だろうか」「此の議論は雑すぎないか」「特に有用性のある議論ではないのでは」という感覚を持つことが非常に多かった。実際に文章にしてみて、こう考えれば綺麗な解釈、綺麗な説明になるのでは、と着想の種となる考えも少々浮かんだ。次、此処に投稿する機会があれば、其れ等がどんな芽をだし、幹が太くなり、大木となっていくか、楽しみである。





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