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みんなでしんがり思索隊

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端とは何か / 著者:蛙教授 - ch18

端とは何であろうか。此のテーマについて考えたことは、私の記憶している限りでは、初めてである。いや、あったかもしれないが、其の時は「端」ではなく、「極端」「最後」「終い」という言葉で表現されるものであったように感じられる。では、改めて「端」について考えてみよう。

我々が「端」という概念について考える時、其処に明確な境界を見る。最後、極端、終いという場合、其処に空間的、時間的、経過的、程度的、物語的な「境界」を想定し、其処から外れる、其処の外側に向かう、其の境界に漸近する、という意味を想起する。人間は何かを認識する際に境界というものを容易に認識する。其れは、ヒトという個体、一つ一つが、其の経験に依って、自らの神経系を発達させており、其の経験情報の共有で多く用いられるプロトコルが言葉や空間であるからだ。境界を定めるのが容易であるのは、物理空間に於いて境界を規定して、有体物を認知、理解、利用、共有する有用性が高いからである。森の中、木の上での移動の多い霊長類の末裔であるヒトは3次元空間と其の下位互換である二次元平面の認知能力を、長い進化の歴史の中で獲得してきた。空間認知は境界の認知と親和性が高い。

ユクスキュルの環世界という概念がある。環世界はドイツ語で環境世界を意味する"Umwelt"の訳語である。客体としての生物の環世界は、知覚標識と作用標識からなる。主体としての生物に関しては、更に機会操作系と言われる、知覚標識を主体的に操作する主体を想定し、追加する。知覚標識とは、何か行動を生み出す刺激であり、作用標識とは其の行動である。作用標識は知覚標識を消去する。どういうことか。

ユクスキュルは『生物から見た世界』でマダニの環世界について言及している。マダニは光覚、嗅覚、温覚の3つの知覚標識を持つ。光覚に依って灌木の茂みで構え獲物を待ち伏せる。嗅覚に依って恒温動物から放出される酪酸を感じ取り、灌木から獲物に落下にする。温覚に依って、最適な場所を探し出し、吸血する。適切な光度である場所に移動し、酪酸を感じ取れば落下し、適切な温度があれば吸血する。其の過程は、知覚標識を消去する方向に作用標識が作用するものである。

端について考える時に環世界という言葉を出したのは何故か。其れは、端というものが、其の儘、知覚標識の端的な性質を受け継いでいるものだからである。知覚標識は作用標識を誘発し、作用標識は知覚標識を消去しようとする。マダニの場合は、思考、記憶、学習という面で、ヒトより大きく劣っている為に解り難くなっているが、知覚標識と作用標識という概念は、人間の思考空間、学習空間に其の儘適用可能である。

時間という概念を導入する。時間は常に過ぎ去り、不可逆な変化を齎す。或いは不可逆な変化其れ自体が時間であるという議論も在るだろう。そういった議論や思考を可能にするのは、其れが知覚標識だからである。生物の行動の多くを知覚標識、作用標識で説明しようとする場合、常に流れる存在である時間は「時間の端」というものを想定させる知覚標識である。時間というものが実在するのであれば、時間の最初は何か、時間の最後は何かという問いを立てることが出来、其の問いに答える為に、多くの仮説、解釈、認識、概念の点検と整理が発生する。AならばBという論理展開も知覚標識と作用標識で説明可能であるし、厳密性の無い連想も知覚標識と作用標識で説明可能である。そう考えた時に、作用標識の最後の形、或いは知覚標識其れ自体が「端」ということが出来る。

ヒトが思考空間、学習空間に於いて、何かを認識する境界、終端を表す機能としての「端」は、ヒトの認識に存在する普遍的な機能なのである。





(編集・校閲責任らららぎ)

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