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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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僕らはみんな中途半『端』な場所に立っている。 / 著者:こはく - ch18

こんにちは、こはくです。

最近、お酒が飲めるようになりました。

下戸だったわけではなくて、お薬を朝晩飲んでいたので一緒に飲むことができなかったのです。

病気もある程度落ち着き、薬を抜いても問題ないレベルになってきたので(一応薬は毎月出してもらっているのですが飲まなくても基本的に体は大丈夫な感じ。先週東京に1週間滞在しているときも一切薬を飲みませんでしたが、病気の症状は出ませんでした)、先日会社の同期にもらった今年限定の山崎ウイスキー(!)をいただこうと思ってグラスに注いだら、それを見ていた母にこう言われました。

「あーっ!ついに息子がアル中になった~w」

って。

……少し、ショックでした。

「子供を信頼できないんだな」っていう思いと、「物事を極『端』にしか見られないんだな」っていう二つの思いを感じて。

人間関係ってやっぱり、信頼で成り立ってると思います。

「息子がお酒を飲んでる。お酒を楽しめるくらいになったんだ、いやぁ感動的だなあ」

くらいに思ってくれることを僕は望んでいるのですが、なかなかそれは難しいようです(僕の社会的な立場が非常に危ういというのも関係しているのかな)。

『アル中』と呼ぶことで、お酒を飲むことに躊躇いとか後ろめたさを感じさせたいのかもしれませんが、僕はどうにもそういうものを感じることはできませんでした。

苛立ちというか、悲しさというか、

「子供を信じることができないんだな」

って考えばかりが、その言葉を聞いて浮かびました。



で、前者の『信頼』についてはこの辺で終わらさせていただいて、今回の主題は後者の「極『端』」についてです。

「息子がアル中になった。」

なんて、極『端』な視点なんでしょうか。

ウイスキーをほんの数十ml飲もうとしただけでアル中認定されてしまうような医療機関が、どこにあるでしょうか。

僕にはとっても不思議に思えます。



とはいっても、多くの人が誰かの立ち位置を決めつけ、極『端』に見てしまうことはある意味では仕方のないことでしょう。

物事を極『端』に考えるのって、とっても簡単ですから。

でも、本当は極『端』な立場なんて存在しません。

どれだけ片方に寄っていると見えても、僕たちは中途半『端』な場所に立っています。

人間は0か1しかないデジタルな存在ではないのです。



例えば、僕は煙草を吸いません。

そして煙草が嫌いです。

おそらく幼少期に父から受動喫煙していたのが大きな原因でしょう。

でも、喫煙所は好きです。

喫煙こそしませんが、あそこにいるといろんな人とお話することができるんですよね。

会社で働いていたころ、あそこで先輩の方とたくさんお話しました。

すごく心地のいい場所です。

休憩中じゃないのに休憩してる感じとかね。

煙草という視点において、僕はとても中途半『端』な場所に立っています。

煙草は嫌いだけど、煙草を吸う『場』は好き。

僕は0でも1でもない、中途半『端』な存在なのです。

これって考えたことない人にはすごく不思議に聞こえると思います。

「え、煙草が嫌いなら喫煙所なんて入る必要ないでしょ。

あなたの大好きなスーツに煙草のにおいが付いちゃいますよ?」

って言われるかもしれません。

でも、分かってる人にはこれは当たり前のこと。

極『端』な立ち位置なんて空想上の場所でしかなくて、現実の世界では中途半『端』なところにしか立てないのです。



じゃあ何で多くの人は、僕のことをアル中って呼んだ母みたいに、人を極『端』にしか見られないのか。

理由は、僕は二つあると思っています。

「自分の立ち位置を変えたことがない」から、そして「人々の立ち位置を俯瞰したことがない」から。

前者は要するに、いろんなことをやっているかどうかってこと。

今まで自分がやったことのないこと、興味のなかったことをどれだけやっているかどうかってことですね。

食わず嫌いなんかが分かりやすいでしょうか。

「食べたことがない」という立場からでは、その食べ物・料理のことなんて分かりはしません。

嫌いだと思っていても、一度口にすることでその料理に対する自分の立ち位置が分かるのです。

「ああ、これって実はこんな風味なんだ。食感は好きじゃないけどいい香りするなあ」

って感じで。



後者は要するに、『鳥』になれるかって話。

鳥のように高いところから人々を俯瞰すれば、誰がどこに立っているかは一目瞭然で分かります。

これは少し難しくて、想像力が必要です。

極『端』に考える人たちは、この想像するというフェイズをスキップしてしまっているのですね。

他人事のようにとあなたはおっしゃったけどね、私は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたと違うんです。*

とは少し違いますが、僕が言いたいのは、僕たちは本質的に中途半『端』な生き物であることを知っておくべきだということ。

極『端』に生きることは、型にはまることと同義だと思います。

自分が中途半『端』であることを受け入れて、楽しみましょう。

こはく







*2008年9月1日に行われた福田元総理の辞任会見で発した言葉。中国新聞の記者が「総理の話は他人事に聞こえる、安部総理に続いて辞任することが自民党にどんな影響があると考えるか」という旨の発言をし、「政局を見通せば順調じゃないと客観的に見て取れる、あなたと違うんだ」という旨の答えをやや感情的になってしたことで有名になりました。もともとこういうぶっきらぼうな会見ばかりの政治家だが、辞任会見ということもあって政治に興味ない人の目にも入ってしまったのでしょう。


(編集・校正・註釈責任:らららぎ)

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上下関係は逆転する。 / 著者:こはく - ch29

僕らの社会には、いつだって上下関係がついてまわります。
学校、会社、家族、エトセトラ。
これまでの僕たちの常識では、上下関係は固定されたものでした。
教壇に立つ人が先生で、机に座ってその話を聞くのが生徒。
先に会社に入社した人が先輩で、後に入社した人は後輩。
生んだ人が親、生まれてきたのが子供。
という具合に。

先行者利益とでもいいましょうか、社会に先に参加した人たち―先輩たち―の下に後輩である僕たちは位置しているんです。

でも。

僕のこれまでの人生では、それを覆すことがたくさん起きてきました。
先輩が後輩になり、後輩が先輩になる。
上下の関係が逆転するような場面にいくつも出会ってきたのです。

学生時代働いていたアルバイト先で、僕はバイトの中では誰よりも長い期間働いていました。
でも、僕自身は自分のことを先輩だとは思っていませんでした。
だって僕は後輩たちに何も教えてはいなかったから。
むしろ僕がいろんな人たち―お客さんや正社員の方や後輩のバイト仲間―から教わってばかりで、気持ち的には自分の方が後輩なんだと思っていました。
でも僕が学校を卒業してバイトも一緒に辞める時、職場のバイト仲間たちが僕の送別会をしてくれたんです。
会の最後には(サイズこそ合っていませんでしたが)当時僕が好きだったポールスミスのベルトをプレゼントしてくれました。

その時、僕は感じたんです。

「ああ、僕はみんなから色んなことを学んでいたけれど、僕自身も気づかないうちに色々なことを教えていたのかな」と。

僕は後輩(少なくとも先輩という意識ではなかった)でいたつもりだったのに、実は先輩でもあったのです。

この共同ブログでも同じことです。
僕は文章は誰よりも下手くそですが、他の人には話せないことをみなさんにお話しすることができます。
それは僕であればファッションのことだったり、電子制御工学(ほとんど忘れてますが)のことだったり、精神病のことだったり。
僕だけの、ユニークなものを語ることができます。
そしてそれを適切なかたちで表現できれば(これは文章をうまく書くこととは関係がありません)僕の経験が誰かの学びになるんです。
僕はほんの一瞬、しんがりの読者さんたち、しんがりの参加者さんたちの「先輩」になるんです。
でもその直後、僕は同じ場において「後輩」になります。
ほかのしんがりの寄稿者さんが書いた、その寄稿者さんにしか書けない文章を読ませていただくからです。
あるいは読者さんから寄せられたコメントを読んでいるときだってそうですね。

あるときは先輩になり、あるときは後輩になる。
先輩だと思っていたものが後輩になり、後輩だと思っていたものが先輩になったとき、僕は会社や家族や社会で経験的に学んできた「上下関係は固定されたもの」だという常識は実は嘘なんだな、と気づきました。
何かに関しての先発とか後発なんてものはそもそも存在しない、僕はそう考えています。

僕が会社で働いていて精神病になった理由は、直接的には長時間労働にあるのでしょうが、今考えるともっと深い部分、つまり「上下関係が固定されている会社という場に僕が適応できなかった、その場を理解することができなかった」ことにあると考えています。

あの場所は、僕が考える「先輩」と「後輩」のバランスが保てていないんです。
先輩は常に先輩のままで、後輩である僕は常に後輩のまま。
僕は学びを得るばかりで、それをアウトプットする機会や場所がほとんどなかった。
それが原因で、病気になったんだと思うのです。

人体に置き換えて考えればある意味当たり前のことで、いくら質のいいオーガニックな食事を採ったって、それの不要な部分が体から出ていかなければ、排泄がままならなければ身体は壊れていきます。
インプットとアウトプットのアンバランスさ、「学び」に過剰にウェイトが置かれたことが発病の本質的な原因だと今では思うのです(会社の同期とは今も仲良くしています。年齢こそ違いますが上下関係がもともと存在しない関係、どちらも学びあい、教えあえる関係だからでしょう)。

僕が考える上下関係とはどちらかがずっと学ぶわけではなく、どちらかがずっと教えるわけではない、常に流動的で瞬間瞬間に入れ替わる、「学びあい、教えあう関係」なのです。
学んでいるとき自分は後輩になり、教えているとき自分は先輩になる、そう僕は思うのです。

・・・テーマにきちんと沿えているかどうか微妙なところですが、結論としては、学生時代、アルバイト時代にテーマである「後発を認めることができた」、従来の上下関係とは違う本当の上下関係に気づけた、ということになるでしょうか。
後発というか、僕が僕自身を認めることができた、と言う方が正しいのかもしれません。

こはく

PS.

さっき「バランスが崩れたから僕は病気になった」ということを書きましたが、適切なバランスであればどちらかに偏り「気味」になることは良いことだと思います。

後輩になる時間が多い人は、学んでいる時間が多いということ。
つまり成長の速度が半端ない人ってことです。
常に後輩の気持ちで日々を生きていると、多くの学びが得られると思うんですよね。
「僕はちっぽけな人間なんだ」
っていうのをポジティブな気持ちで捉えると、すごくいいのではないでしょうか。
だって、自分以外のもの全てから学びを得ることができるんですから。
ちくわ編集長の言うように、「いろぉんなことに興味をもって吸収」することが大事なのだと思います。





(編集・校閲責任:らららぎ)

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「三位一体的な。」 / 著者:こはく - ch3

「琥珀、久しぶり。」



『・・・ああ、司か。』



「そう、僕。

最近話してないから忘れられてると思ってたけど、覚えててくれた。」



『そんなことあるわけないだろ。

お前を忘れるなんて、とんだ親不孝者じゃないいか。』



「あはは、親か。」



『親だろう、俺も夏希もお前がいなかったらこの世にいないんだから。

まあ、〈この世〉っていうのは少しおかしいかもしれないな、俺がいるのはお前の中だけだから。』



「そんなことないよ。

ネットなんかじゃ琥珀はいろんな人と接していて、いろんな人が琥珀のことを知ってる。

本当は司なんだけど、みんなは琥珀だと思ってる。

もちろんネットでは琥珀なんだけど、それは司なんだ。

不思議な感じだけど、なんだかんだで琥珀もこの世に生きてるんだよ。

そう、親というか兄弟みたいな感じかな。

夏希だってそう、あまり表に出ないからみんなは知らないだろうけど。

夏希がいるから僕は今こうして生きていて、もしあの子がいなかったら全く違う人生になってたはずだし、夏希も僕らと一緒にこの世に生きてるんだ。」



『そう、そうだな、俺たちは兄弟だ。

親子で、兄弟で、友達で、いろんな関係だ。

それが俺たちだ。』



「そうそう、使い方違うけど三位一体みたいな感じで。」



『ははは、三位一体な。

それよりかゼル伝のトライフォースでもいいかもしれないぞ。』



「ゼルダとリンクと、あとガノンドロフだっけ。」



『そうそう』



「じゃあガノンドロフは琥珀だな」



『おいおい、やめてくれよ!』



つかさとこはくとなつき。

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紙は、凶器だった。 / 著者:こはく - ch25

こんにちは、こはくです。

『あなたにとって「紙」はどのようなものですか』。
このお題を聞いてぱっと思い浮かんだのが、『紙は私を傷つける凶器である』ということでした。
紙を「面」ではなく、「線」として見たときのお話をしたいと思います。

折り紙、チラシ、教科書。
これらの紙類と一緒にいるとき、僕は常に恐れを感じていました。
彼らが、僕を傷つけるであろうことを知っていたからです。
みなさんも子供の頃、紙で指を切ってしまったことが何回もありますよね。
あれ、あれです。
僕はあれがとても怖かった。
走っていて転ぶとか、友達と喧嘩して青あざができちゃったとか、そういう痛みとかとは種類の違う痛み。
なんというか非常に鈍い痛み、「シュッ」という音と共に血が出てきてじわじわと鈍い痛みを感じるあの感触が、僕には耐え難かったのです。

紙で手を切ったことはここ数年間ありません。
彼がつけた傷跡は僕の指に残っていませんが、心の中には彼によって傷つけられたという記憶が残っています。
学校の新学期に手にした教科書によってつけられた傷。
母に「そこのチラシ取って」と言われて手にしたスーパーの広告によってつけられた傷。
好きなバンドのライブチケットを封筒から取り出したときにつけられた傷。
そんなことが僕の人生にも幾度となくありました。

その反動なのかは分かりませんが、僕はデジタルの世界に逃げ込みました。
本の代わりに中学の頃はコントローラだけ触っていればいいテレビゲームに熱中し、高専時代には携帯電話、社会人になってからはスマホをいじってばかりでした。
紙に触れる必要のない生活、傷つけられることを恐れなくてもいい生活を選んでいたのです。

でも周知のとおり、紙は僕たちに色んなことを教えてくれます。
教科書を開けばこれから僕たちが知るべきことが書かれているし、学術書を読めば僕らの頭をある意味で強制的に働かせてくれます。
勉学だけでなく、ライブのチケットを窓口に差し出せば一度しか観られない体験をすることができます。
そして何より、紙は痛みの感覚を思い出させてくれます。

それを思い起こしてから、僕は紙と接する機会が増えてきました。
恐れていたものを乗り越えることで、僕は成長する機会を手にできました。
この共同ブログを読んでいる方は本をよく手にする勉強熱心な人が多いのではないかなあ、と僕は勝手に思っているのですが、もし昔の僕のようにデジタル漬けの日々を送っているのなら、久しぶりに本を手にしてみてはいかがでしょうか。
あなたの知らないことを、紙が教えてくれますよ。
あなたの忘れていた事を、紙が思い出させてくれますよ。

以上、こはくでした。
おしまい。

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数を数える時間なんて僕らにはない / 著者:こはく - ch14


こんにちは、こはくです。

1万時間の法則というのを聞いたことがあるでしょうか何かの分野で一流になるためには、それに打ち込んだ時間が1万時間に到達しているかどうかが目安となる、と謳っている法則のことです。
音楽家だったり、スポーツ選手だったり、専門家の研究だったり、何かのプロになるにはこの「10000」という数字が大きな境目になると言われています。

じゃあ僕たちも1万時間頑張ればプロとして食っていけるようになるのか、と安易に思ってしまいますが、僕たちがこの数字にたどり着くのはとっても難しいです。
モチベーション云々以前に、絶対的な時間の問題で。
単純計算で1日8時間、社会人が仕事に当てる時間を全てそれにつぎ込んだとして、

10000[時間]÷8[時間/日]=1250[日]≒3.5[年]

3.5年間、毎日、休みなく打ち込んで初めて1万時間に到達できます。
これくらいのペースであれば実現できるような気もしないではないですが、これは理想的な数字に過ぎません。
現実には仕事や睡眠、その他日常的なことをしているとあっという間に自由な時間はなくなっていきます。
もし1日4時間の時間を捻出できたとしても、その時はさっきの計算のおよそ2倍、7年の時間がかかってしまうのです。
こう考えると、1万時間というのがいかに難しいかがわかるはず。
僕らが何かにインスピレーションを受けて「よし、俺もプロになるぞ!」と意気込んでも、膨大な時間を何かひとつのことにつぎ込むのは非常に難易度の高いことなのです。
(実際に一流、プロと呼ばれている人は、この時間を作り出すための精神面での際立った特質があります。それによって彼らは一流の位置を保ち続けていることができているのです。)

で、僕が主張したいのは、別に1万時間も必死こいて頑張って一流になったりしなくてもいいじゃない、ということ。
普通の人間でいいじゃない、普通に生きればいいじゃない、と僕は思っています。
何かの能力に突出できたとしても、それが幸福と直結することはありません。
ミュージシャンのつのだ☆ひろさんがあるテレビ番組の替え歌企画で、

「メリー・ジェーン」一筋
気がつけば もう40年
生きてる限り 歌うはずさ
でも本当は「飽きた」

という替え歌を歌っていますが、このように一流の位置を保ち続けるために毎日10時間以上黙々とそれに打ち込み続けることは、楽しいことではないし、ましてや幸福と縁のあることではないのです。
(サラリーマンがやっているような仕事に置き換えても、同じことが言えますが。)
だから僕は「普通に生きること」こそ、求めている人生を手にする方法だと思うのです。
あ、普通というのは決して平々凡々って意味ではありません。
一般的な範囲で、一般的に素晴らしい存在として生きましょう、それが普通だということなんですよ、ということを言っています。
上から与えられた仕事をただ黙々とこなすサラリーマンのように生きるのを想像するのは違うってこと。
そうなりさえしなければ、普通に生きていれば誰かにとって特別な存在になれるのです。
一流の人間は全世界に対してインパクトだったり、感動だったり、勇気だったりを与えることができますが、普通の人間だって彼らに同じものを与えることができるのです。
違いは影響を与える範囲が前者に比べて後者はほんの少しだけ狭いってことだけ。
特定の輪の中でこそ価値が生まれる人のことを、僕は普通の人と呼んでいます。

僕なんかはファッションに関しては普通の人です。
世界規模で見たら僕の服装なんて価値のないものでしょう。
中古の服をヤフオクで買い漁っている、ただの意地の悪い人間かもしれません。
実際ブロガーの人みたく、ファッションで飯を食べているわけではありませんから、僕にはファッションに関しては価値がない、とも言えるわけです。
でも、だからこそ、ある特定の人たちの中では一番ファッションに関しては興味を持っている自信があります、価値を提供できる自信があります。
特定の輪の中でこそ価値が生まれるからこそ、僕はファッションに関しては「普通の人」なのです。

では普通の人になるためには何が必要なのか。
それは、今までにつぎ込んできた時間です。
僕は相当数の時間をファッションにつぎ込んできました。
(もちろんお金もそれなりに使いましたが、お金というのは時間の代替物のようなものなのでここでは時間だけで話を進めます)
ただ僕が重要だと思っているのは、目的としての時間ではなく、結果としての時間です。
僕にとって、数えてきた時間は時間は目的ではなく結果でした。
僕は時間を意識してファッションと付き合ってきたわけではないのです。

冒頭にお話した1万時間の法則。
こんなものは天才をどうやって科学的に生み出せるかを考えている研究者が調べているだけで、
一流の人たちはこの法則をもとにして一流を目指してきたわけではありません。
ひたすら理想へと近づく努力を重ねていたら、結果として1万時間を超え、人々よりも優れたスキルを身につけていた、というだけ。
そして彼らに共通する要素を知った研究者が「こうすれば一流になれるぞ!」と大声で叫んでいるだけの話なのです。
僕がファッションに対して普通の人間になれたのは、
「よし、1万時間頑張ってファッションの勉強をするぞ!」
と決めてファッションに向き合ってきたからではなく、純粋にファッションに興味を持って、僕にふさわしい服装をするには何が必要なのかをひたすら考えてきたから。
時間を数えてきたからおしゃれになれたわけではなく、おしゃれになる努力をしてきたから時間が数えられてきたのです。

結論としては、何かを数えることはあまり有意義ではない、数を数える時間なんて僕らにはないんだ、ということです。
合理的な考えに頼りきって生きることは結果としてうまくいかないのではないかな、という感覚があります。
ただ数字を数えるだけではない、かといって漠然と感覚的に生きるのでもない「必然性の感覚」を持って日々を生きることで、普通の人生を送れるのではないかなと僕は考えています。

これが果たして今回のテーマの回答になっているかどうかは分かりませんが、僕が書きたいことは書けたような気がするので、今回は以上にしましょう。
ではでは、最後まで読んでくださってありがとうございました。

こはくより。








(校閲責任:らららぎ)

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宝くじは夢を捨てるものである / 著者:こはく - ch13

皆々様こんにちは、こはくです。
今回は僕が提案させていただいたきあずま「宝くじについて思うところ」についてお話させていただきます。
ではでは、よろしくお願いしますね。

1.宝くじは夢を捨てるものである

2.お金のキャパ=ポケモンバッジ

3.自己成長のためのギャンブル

1.宝くじは夢を捨てるものである

基本的に僕は宝くじというものには否定的です。
理数系の人ならば宝くじに当選する確率がいかに非現実的な数字かを理論的に知っているでしょうし、過去に宝くじを何度か買ったことのある人ならば経験的にそれが当たらないことを知っているはずです(僕も含みます)。
それでもなお、それに望みをかけて毎シーズン数万円単位(数十万円?)で宝くじを買っている人がいますよね。
僕はあれをみて、何とも言い難い気持ちを覚えるのです。
僕が宝くじについて思うところ。それは、
宝くじを買うことは夢を買うことではなく夢を捨てている、それどころか自分自身すらも捨ててしまっている、ということです。

宝くじに限ったことではありませんが、外部の仕組みに自分の余剰を投入することで何かしらのリターンを期待するものは、結局自分で何かを生み出してはいません。
これは何を意味するのかというと、自分自身を無視した結果だと思うのです。
すなわち一種の現実逃避、現実に向き合えない人間が、宝くじによって自分を転生させようとしているように僕には思える。

「でも、どれだけ望みが薄くても当たるかもしれないじゃないか!
毎回数人だけど1等2等に当たっているんだから
って思う人がいるでしょう。
では仮に、仮に一等に当選したと仮定してみましょう。
その場合、僕らは幸せになれるでしょうか?
きっと、なれないと思うんですよ。
なぜなら僕たちは、そのお金の使い方を知らないから。
つまり自分のステージ、立ち位置に対する適切な使い方ができないということ。
「俺は大金持ちになったんだぞ!」という事実を回りに知らせたいがために、そして今までの暮らしとはかけ離れた生活を望むがために、一般的なステータスシンボルであるスポーツカー、ブランド物、豪邸を後先考えずに購入して、崩壊してゆくパターンがあとをたちません。
まぐれ当たりで宝くじに当選した人は、そうして自分を見失ってゆくのです。

2.お金の許容量=ポケモンバッジ

自分とはかけ離れた金額のお金を手にすると、自分が分からなくなり、最終的に破滅してゆく。
あぶく銭って本当に、役に立たないんです。
ただこれは、あぶく銭そのものが有害という訳ではありません。
僕が言いたいのは自分のステージ・自分のキャパを超えた金額が自分にとって有害になるんだ、ということ。
本来健康を維持するためのものであるD○Cなんかの錠剤タイプの栄養剤を過剰に摂取すると、逆に体を壊してしまうのも似たようなことです。
変毒為薬ならぬ、変薬為毒。
お金も、栄養も、恋人も、寿命も、自分のキャパを超えた量を手に入れるとそれは役に立たないだけでなく、自分を破壊してゆくのです。

例えば。
僕はファッションが好きですが、最近はブランド物を身につけることが増えました。
ルイヴィトンのアタッシュケース、ジョルジオアルマーニのビジネスシューズ、エトロの柄シャツにポケットチーフ、エトセトラ。
僕はこれらを着こなしていると自分で信じていますが僕以外の一般ピープルがこれらを持つと、ともすれば過剰な服装に見えかねません。
ユニクロのTシャツにエドウィンのデニムをはいた人がルイヴィトンを持っていると、それがなんだか滑稽に見えるのはみなさんも共感できるはずです。
これらのアイテムはその人、ユニクラーのキャパを超えたものなのです。
僕がブランド物を身につけても過剰にならない理由は単純明快で。
ファッションと長く、深く向き合ってきたからです。
僕はファッションに関して他の人と比べられないほどの背景、バックグラウンド、コンテクストを持っています。
「自分に似合う服装とは何か?」から始まり、それぞれのメゾン、ブランドの成り立ちも調査しました。
メゾンのショップに行き、毎回数時間以上店員さんとお話しながら服と触れあい、常に新しい思想を取り込んでいます。
こういった前提を踏まえないまま単なるステータスシンボルとしてブランド物を買う人は、残念ながらそれを持つにふさわしくないのです。
もちろん、僕もまだまだ発展途上です。
ジュエリー関係―特にダイヤなどの宝石がついたジュエリーですね―は自分のキャパを超えたアイテムだと思っています。
僕が宝石を指にはめ、腕にはめ、耳につけるとただただギラギラしてしまうはずだと分かっています。
ジュエリーはまだ僕にはふさわしくない。
ファッションと付き合っていけば、いつかそれらを身につけるステージにたどり着けると思って、日々努力している次第であります。

で、これらのことを宝くじ、手にする金銭に当てはめるとつまり、自分のステージにふさわしい数量、自分が扱うにふさわしい金額というものがあるということになります。
「じゃあどれくらいが自分のキャパなの?」って聞かれると、明確に答えることはできません。
ふさわしいキャパというものが体系化されていたら、宝くじで破滅してゆく人なんているはずありませんから。
ここではひとつ、メタファーをお話したいと思います。
自分のキャパがどれくらいのものなのかを、理解するための材料としてのひとつのメタファー。それが、
ポケモンバッジです。
ポケモンバッジが僕たちのキャパシティを意味しています。
友達から交換でもらったポケモンって、レベルが高すぎると手懐けることができないんですよね。
トレーナーの命令は聞かないし、場合によっては自分で自分を攻撃したりして、どうにも手に負えない。
宝くじで高額当選した人はまさにこの他人からもらったポケモン、しかも通常プレイではありえない、レベル100オーバーの怪物をバトルに使っているようなものです。
数ターン後には、自分がそれに踏み潰されることも知らずにね。

直接僕たちには見えていませんが、4等や5等、100万円や10万円のような一見すると何の足しにもならない額のお金を手にした人でもそれを使う自分のキャパが足りないために、崩壊してゆく人もいます。
「100万円あったら今年中は仕事しなくていいじゃん!もう辞めちゃお♪」って言って本当に仕事を辞め、そして来年から路頭に迷う人なんかを想像していただくと分かりやすいかもしれません。
こう考えていただくと、自分のキャパが今どれくらいで、仮に宝くじに当たった時に、本当にそのお金を正しく扱うことができるのかを考えることができるのではないでしょうか。

…これは、僕たちは子供の頃は当たり前に知っていたことです。
友達にレベル70のミュウツーを借りても、カスミを倒すことはできません。
それなのに、大人になると僕らはそれを忘れてしまいます。
死ぬまでバカは治らない、彼らは自分を傷つけるミュウツーで人生というゲームを全クリしようと尽力しているのです。

3.自己成長のためのギャンブル

もちろん、自分を捨てるために賭け事にいそしむのではなく自分を磨き、成長させるためのツールとして利用するのならば、それは素晴らしいものになるでしょう。
このブログの創設者のひとりであるらららぎさんの個人ブログにこのようなことが書かれていました、引用させていただきます。
父が私に教えてくれた競馬は、ギャンブルの本質にかなり近いものだったと評価したい。
つまり、12レースの全体をどうやって負け進んでいくかということを教えてくれた。
競馬新聞に赤ペンを入れることでもなく、一攫千金を狙うことでもなく、ただひたすら、朝から夕方までレースに関わり、それぞれをよく観察し、どこで何にどれぐらい賭け、それをどこでどんな形で回収するのか、という問いを立てて考えることを教えてくれた。
(らららぎさん個人ブログ - ケルクショーズ・イリヤ2 第30稿「私の自己紹介」より)
競馬とはつまり依存、頼りきりになるようなものではなく、自分がひたすらに思考するため、自己成長のためのツールとして存在している、と僕は解釈しました。
競馬は決して自分を捨てるもの、思考を停止して組み合わせ・数列のサイコロとして見るようなただの運試しではなく、人との対話のためのもの、人との関わりを仲立ちしてくれるものなんだ、と。
他の誰でもない、自分が価値を生み出していることを思い出させてくれるものなんだ、と。
僕はこれを読んでそう感じました。

僕たちはチャンピオンリーグにたどり着けてはいません(ポケモンの話に戻っています)。
僕たちはまだワタルと戦う資格を持っていませんし、サトシと戦えるのはそのもっともっと先の話。
彼らのもとへたどり着き、互角に戦うには、まず自分が成長することが必要なのです。
自分が歩き、悩み、考えた結果として手に入れられたポケモンで、道を歩んでいくしか道はないのです。

以上、今回はこれにて終わりです。
ありがとうございました。
こはく

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クローズドから、オープンへ。 / 著者:こはく - ch7

10代の頃、僕は人と話すことを極端に嫌っていました。
小学生の頃はそこまででもなかった、むしろ積極的に誰かと関係しようとしていたはずなのですが、人見知りということもあってか中学校、高専と進むにつれてなかなか人と接することが億劫になってきました。
学校内の関係、もっというとクラス内の関係だけで全てを完結させようとしていた感がありました。
その理由は今思い返して出してみると非常にシンプルで、
「誰かと話してる暇があるならそれをゲームと音楽につぎ込む」
というものでした。
僕の学生生活の大半はゲーム、高専に入ってからは音楽もそこに加わりました。
通学中は基本的にイヤホンを常時装着。
その頃の僕の関心事はもっぱら好きなバンドのドラムの耳コピでした。
「耳コピをするためにはありとあらゆる雑音を排除しなくちゃいけない、誰かに気を割いている余裕なんてないんだ!
という気持ちで僕は外界を遮断していたのです。

今振り返ると、僕のこの方針は明らかに間違っていました。
仮にアーティストを志すようになったとして(そんなつもりは昔も今も毛頭ないですが)、それで僕はアーティストになることができたでしょうか?
きっとできなかったと思います。
音楽家として成功するためには、『人に響くもの』を創る必要があります。
それなのに人と会話することを嫌う人、もっと言えば人の心を理解しようとしない人が人に響く音楽を創れるはずがないのです。
この「他者と接しないことが善だ」というのが、僕のメンタルブロックでした。
客観的に見て僕は明らかな精神的引きこもりでした。
とても閉鎖的な、閉じた世界に住んでいたと思います。
すごく勿体ないことをしていました。

もちろん。
僕に限らず、人は本質的には人との会話は苦手な部分や嫌いな部分があるはずです。
究極的には自分ではないもの、異物と接しているわけですから、そこにはある種の恐怖があります。
でも、だからこそ、それによって自分の世界を広げることができる。
自分を自分ではない誰かと比較することによって、始めて自分というものが明確に理解できる。
そしてその結果としてアーティストであれば人に響く音楽を生み出すことができる。
でも、当時の僕はそれに気づけませんでした。
人と関わることは社会で生きるための必要条件だ、ということに気づくことができませんでした。
自分の中の心地のよいぬるま湯的な世界に浸っていることが、日々を楽しく過ごすことだと信じていました。
僕は僕を愛するあまり僕の人生を置き去りにしていました。

今はこの壁を乗り越え、積極的に人と話すことができるようになりました。
いや、正直に言うと今でも苦手な部分は多少あります。
でもなるべく、できるだけ、話をする努力できるようになれたことはひとつの事実です。
個人という閉鎖的世界ではなく、人と人が関わりあう世界に僕は住処を移すことができました。

こはく

PS.

この度僕はこのメンタルブロックをまたひとつ乗り越えることにしました。
このブログの創設者のおひとりであるらららぎさんの誕生日会に明日から行ってきます。
僕の記憶を探る限りですが、僕は友達のお家に「お泊り」したことがありません(!)
親戚の家や旅館、ホテルは何度も泊まりましたが、らららぎさんのようないわゆる横のつながりの方のお家で宿泊することは初めてです。
おそらく今までの僕の中には「人の家に泊まったら迷惑がかかるから絶対ダメだ」というメンタルブロックがあったのでしょう。
でも、それでもいいじゃない、今まで周りの人には散々迷惑をかけてきたし、これからも迷惑になるんだから、って今は思えるのです、そしてその思いを確信するために誕生日を祝いに、お泊りをしに行ってきます。
メンタルブロックに、思い出を詰め込んできますね。

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