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宝くじは夢を捨てるものである / 著者:こはく - ch13

皆々様こんにちは、こはくです。
今回は僕が提案させていただいたきあずま「宝くじについて思うところ」についてお話させていただきます。
ではでは、よろしくお願いしますね。

1.宝くじは夢を捨てるものである

2.お金のキャパ=ポケモンバッジ

3.自己成長のためのギャンブル

1.宝くじは夢を捨てるものである

基本的に僕は宝くじというものには否定的です。
理数系の人ならば宝くじに当選する確率がいかに非現実的な数字かを理論的に知っているでしょうし、過去に宝くじを何度か買ったことのある人ならば経験的にそれが当たらないことを知っているはずです(僕も含みます)。
それでもなお、それに望みをかけて毎シーズン数万円単位(数十万円?)で宝くじを買っている人がいますよね。
僕はあれをみて、何とも言い難い気持ちを覚えるのです。
僕が宝くじについて思うところ。それは、
宝くじを買うことは夢を買うことではなく夢を捨てている、それどころか自分自身すらも捨ててしまっている、ということです。

宝くじに限ったことではありませんが、外部の仕組みに自分の余剰を投入することで何かしらのリターンを期待するものは、結局自分で何かを生み出してはいません。
これは何を意味するのかというと、自分自身を無視した結果だと思うのです。
すなわち一種の現実逃避、現実に向き合えない人間が、宝くじによって自分を転生させようとしているように僕には思える。

「でも、どれだけ望みが薄くても当たるかもしれないじゃないか!
毎回数人だけど1等2等に当たっているんだから
って思う人がいるでしょう。
では仮に、仮に一等に当選したと仮定してみましょう。
その場合、僕らは幸せになれるでしょうか?
きっと、なれないと思うんですよ。
なぜなら僕たちは、そのお金の使い方を知らないから。
つまり自分のステージ、立ち位置に対する適切な使い方ができないということ。
「俺は大金持ちになったんだぞ!」という事実を回りに知らせたいがために、そして今までの暮らしとはかけ離れた生活を望むがために、一般的なステータスシンボルであるスポーツカー、ブランド物、豪邸を後先考えずに購入して、崩壊してゆくパターンがあとをたちません。
まぐれ当たりで宝くじに当選した人は、そうして自分を見失ってゆくのです。

2.お金の許容量=ポケモンバッジ

自分とはかけ離れた金額のお金を手にすると、自分が分からなくなり、最終的に破滅してゆく。
あぶく銭って本当に、役に立たないんです。
ただこれは、あぶく銭そのものが有害という訳ではありません。
僕が言いたいのは自分のステージ・自分のキャパを超えた金額が自分にとって有害になるんだ、ということ。
本来健康を維持するためのものであるD○Cなんかの錠剤タイプの栄養剤を過剰に摂取すると、逆に体を壊してしまうのも似たようなことです。
変毒為薬ならぬ、変薬為毒。
お金も、栄養も、恋人も、寿命も、自分のキャパを超えた量を手に入れるとそれは役に立たないだけでなく、自分を破壊してゆくのです。

例えば。
僕はファッションが好きですが、最近はブランド物を身につけることが増えました。
ルイヴィトンのアタッシュケース、ジョルジオアルマーニのビジネスシューズ、エトロの柄シャツにポケットチーフ、エトセトラ。
僕はこれらを着こなしていると自分で信じていますが僕以外の一般ピープルがこれらを持つと、ともすれば過剰な服装に見えかねません。
ユニクロのTシャツにエドウィンのデニムをはいた人がルイヴィトンを持っていると、それがなんだか滑稽に見えるのはみなさんも共感できるはずです。
これらのアイテムはその人、ユニクラーのキャパを超えたものなのです。
僕がブランド物を身につけても過剰にならない理由は単純明快で。
ファッションと長く、深く向き合ってきたからです。
僕はファッションに関して他の人と比べられないほどの背景、バックグラウンド、コンテクストを持っています。
「自分に似合う服装とは何か?」から始まり、それぞれのメゾン、ブランドの成り立ちも調査しました。
メゾンのショップに行き、毎回数時間以上店員さんとお話しながら服と触れあい、常に新しい思想を取り込んでいます。
こういった前提を踏まえないまま単なるステータスシンボルとしてブランド物を買う人は、残念ながらそれを持つにふさわしくないのです。
もちろん、僕もまだまだ発展途上です。
ジュエリー関係―特にダイヤなどの宝石がついたジュエリーですね―は自分のキャパを超えたアイテムだと思っています。
僕が宝石を指にはめ、腕にはめ、耳につけるとただただギラギラしてしまうはずだと分かっています。
ジュエリーはまだ僕にはふさわしくない。
ファッションと付き合っていけば、いつかそれらを身につけるステージにたどり着けると思って、日々努力している次第であります。

で、これらのことを宝くじ、手にする金銭に当てはめるとつまり、自分のステージにふさわしい数量、自分が扱うにふさわしい金額というものがあるということになります。
「じゃあどれくらいが自分のキャパなの?」って聞かれると、明確に答えることはできません。
ふさわしいキャパというものが体系化されていたら、宝くじで破滅してゆく人なんているはずありませんから。
ここではひとつ、メタファーをお話したいと思います。
自分のキャパがどれくらいのものなのかを、理解するための材料としてのひとつのメタファー。それが、
ポケモンバッジです。
ポケモンバッジが僕たちのキャパシティを意味しています。
友達から交換でもらったポケモンって、レベルが高すぎると手懐けることができないんですよね。
トレーナーの命令は聞かないし、場合によっては自分で自分を攻撃したりして、どうにも手に負えない。
宝くじで高額当選した人はまさにこの他人からもらったポケモン、しかも通常プレイではありえない、レベル100オーバーの怪物をバトルに使っているようなものです。
数ターン後には、自分がそれに踏み潰されることも知らずにね。

直接僕たちには見えていませんが、4等や5等、100万円や10万円のような一見すると何の足しにもならない額のお金を手にした人でもそれを使う自分のキャパが足りないために、崩壊してゆく人もいます。
「100万円あったら今年中は仕事しなくていいじゃん!もう辞めちゃお♪」って言って本当に仕事を辞め、そして来年から路頭に迷う人なんかを想像していただくと分かりやすいかもしれません。
こう考えていただくと、自分のキャパが今どれくらいで、仮に宝くじに当たった時に、本当にそのお金を正しく扱うことができるのかを考えることができるのではないでしょうか。

…これは、僕たちは子供の頃は当たり前に知っていたことです。
友達にレベル70のミュウツーを借りても、カスミを倒すことはできません。
それなのに、大人になると僕らはそれを忘れてしまいます。
死ぬまでバカは治らない、彼らは自分を傷つけるミュウツーで人生というゲームを全クリしようと尽力しているのです。

3.自己成長のためのギャンブル

もちろん、自分を捨てるために賭け事にいそしむのではなく自分を磨き、成長させるためのツールとして利用するのならば、それは素晴らしいものになるでしょう。
このブログの創設者のひとりであるらららぎさんの個人ブログにこのようなことが書かれていました、引用させていただきます。
父が私に教えてくれた競馬は、ギャンブルの本質にかなり近いものだったと評価したい。
つまり、12レースの全体をどうやって負け進んでいくかということを教えてくれた。
競馬新聞に赤ペンを入れることでもなく、一攫千金を狙うことでもなく、ただひたすら、朝から夕方までレースに関わり、それぞれをよく観察し、どこで何にどれぐらい賭け、それをどこでどんな形で回収するのか、という問いを立てて考えることを教えてくれた。
(らららぎさん個人ブログ - ケルクショーズ・イリヤ2 第30稿「私の自己紹介」より)
競馬とはつまり依存、頼りきりになるようなものではなく、自分がひたすらに思考するため、自己成長のためのツールとして存在している、と僕は解釈しました。
競馬は決して自分を捨てるもの、思考を停止して組み合わせ・数列のサイコロとして見るようなただの運試しではなく、人との対話のためのもの、人との関わりを仲立ちしてくれるものなんだ、と。
他の誰でもない、自分が価値を生み出していることを思い出させてくれるものなんだ、と。
僕はこれを読んでそう感じました。

僕たちはチャンピオンリーグにたどり着けてはいません(ポケモンの話に戻っています)。
僕たちはまだワタルと戦う資格を持っていませんし、サトシと戦えるのはそのもっともっと先の話。
彼らのもとへたどり着き、互角に戦うには、まず自分が成長することが必要なのです。
自分が歩き、悩み、考えた結果として手に入れられたポケモンで、道を歩んでいくしか道はないのです。

以上、今回はこれにて終わりです。
ありがとうございました。
こはく

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