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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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僕らはみんな中途半『端』な場所に立っている。 / 著者:こはく - ch18

こんにちは、こはくです。

最近、お酒が飲めるようになりました。

下戸だったわけではなくて、お薬を朝晩飲んでいたので一緒に飲むことができなかったのです。

病気もある程度落ち着き、薬を抜いても問題ないレベルになってきたので(一応薬は毎月出してもらっているのですが飲まなくても基本的に体は大丈夫な感じ。先週東京に1週間滞在しているときも一切薬を飲みませんでしたが、病気の症状は出ませんでした)、先日会社の同期にもらった今年限定の山崎ウイスキー(!)をいただこうと思ってグラスに注いだら、それを見ていた母にこう言われました。

「あーっ!ついに息子がアル中になった~w」

って。

……少し、ショックでした。

「子供を信頼できないんだな」っていう思いと、「物事を極『端』にしか見られないんだな」っていう二つの思いを感じて。

人間関係ってやっぱり、信頼で成り立ってると思います。

「息子がお酒を飲んでる。お酒を楽しめるくらいになったんだ、いやぁ感動的だなあ」

くらいに思ってくれることを僕は望んでいるのですが、なかなかそれは難しいようです(僕の社会的な立場が非常に危ういというのも関係しているのかな)。

『アル中』と呼ぶことで、お酒を飲むことに躊躇いとか後ろめたさを感じさせたいのかもしれませんが、僕はどうにもそういうものを感じることはできませんでした。

苛立ちというか、悲しさというか、

「子供を信じることができないんだな」

って考えばかりが、その言葉を聞いて浮かびました。



で、前者の『信頼』についてはこの辺で終わらさせていただいて、今回の主題は後者の「極『端』」についてです。

「息子がアル中になった。」

なんて、極『端』な視点なんでしょうか。

ウイスキーをほんの数十ml飲もうとしただけでアル中認定されてしまうような医療機関が、どこにあるでしょうか。

僕にはとっても不思議に思えます。



とはいっても、多くの人が誰かの立ち位置を決めつけ、極『端』に見てしまうことはある意味では仕方のないことでしょう。

物事を極『端』に考えるのって、とっても簡単ですから。

でも、本当は極『端』な立場なんて存在しません。

どれだけ片方に寄っていると見えても、僕たちは中途半『端』な場所に立っています。

人間は0か1しかないデジタルな存在ではないのです。



例えば、僕は煙草を吸いません。

そして煙草が嫌いです。

おそらく幼少期に父から受動喫煙していたのが大きな原因でしょう。

でも、喫煙所は好きです。

喫煙こそしませんが、あそこにいるといろんな人とお話することができるんですよね。

会社で働いていたころ、あそこで先輩の方とたくさんお話しました。

すごく心地のいい場所です。

休憩中じゃないのに休憩してる感じとかね。

煙草という視点において、僕はとても中途半『端』な場所に立っています。

煙草は嫌いだけど、煙草を吸う『場』は好き。

僕は0でも1でもない、中途半『端』な存在なのです。

これって考えたことない人にはすごく不思議に聞こえると思います。

「え、煙草が嫌いなら喫煙所なんて入る必要ないでしょ。

あなたの大好きなスーツに煙草のにおいが付いちゃいますよ?」

って言われるかもしれません。

でも、分かってる人にはこれは当たり前のこと。

極『端』な立ち位置なんて空想上の場所でしかなくて、現実の世界では中途半『端』なところにしか立てないのです。



じゃあ何で多くの人は、僕のことをアル中って呼んだ母みたいに、人を極『端』にしか見られないのか。

理由は、僕は二つあると思っています。

「自分の立ち位置を変えたことがない」から、そして「人々の立ち位置を俯瞰したことがない」から。

前者は要するに、いろんなことをやっているかどうかってこと。

今まで自分がやったことのないこと、興味のなかったことをどれだけやっているかどうかってことですね。

食わず嫌いなんかが分かりやすいでしょうか。

「食べたことがない」という立場からでは、その食べ物・料理のことなんて分かりはしません。

嫌いだと思っていても、一度口にすることでその料理に対する自分の立ち位置が分かるのです。

「ああ、これって実はこんな風味なんだ。食感は好きじゃないけどいい香りするなあ」

って感じで。



後者は要するに、『鳥』になれるかって話。

鳥のように高いところから人々を俯瞰すれば、誰がどこに立っているかは一目瞭然で分かります。

これは少し難しくて、想像力が必要です。

極『端』に考える人たちは、この想像するというフェイズをスキップしてしまっているのですね。

他人事のようにとあなたはおっしゃったけどね、私は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたと違うんです。*

とは少し違いますが、僕が言いたいのは、僕たちは本質的に中途半『端』な生き物であることを知っておくべきだということ。

極『端』に生きることは、型にはまることと同義だと思います。

自分が中途半『端』であることを受け入れて、楽しみましょう。

こはく







*2008年9月1日に行われた福田元総理の辞任会見で発した言葉。中国新聞の記者が「総理の話は他人事に聞こえる、安部総理に続いて辞任することが自民党にどんな影響があると考えるか」という旨の発言をし、「政局を見通せば順調じゃないと客観的に見て取れる、あなたと違うんだ」という旨の答えをやや感情的になってしたことで有名になりました。もともとこういうぶっきらぼうな会見ばかりの政治家だが、辞任会見ということもあって政治に興味ない人の目にも入ってしまったのでしょう。


(編集・校正・註釈責任:らららぎ)

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Comment

無題

  • 寝返りレタス
  • 2015-02-10 22:11
  • edit
 遅ればせながら拝読いたしました。執筆ご苦労さまでした。ひとつ伺いたいことがございます。勝手ながら、本文から幾つか引用させていただくことをご了承ください。また、こはくさんの他のブログやツイートを逐一把握できているわけではないので、すでに他の場所で以下のような考察に至っていらっしゃる場合は、スルーして頂いて結構です。その場合はお詫び申し上げます。

 さて、本題です。お母様に「アル中になった」と言われたことを文中で「極端」と仰っていましたよね。率直に言って、私にはその思考が「極端」に思えてなりませんでした。もちろんこはくさんがお母様に直々に言われたわけですし、細かいニュアンス等で私とこはくさんの間には理解に大きな差があることは承知しております。けれど、こはくさんが書かれたお母様の言い方(「!」や「w」が付くような話し方)から察するに、お母様は冗談でそう仰った、と感じることもできたのではないでしょうか?
 こはくさんが仰るように「「子供を信頼できないんだな」っていう思いと、「物事を極『端』にしか見られないんだな」っていう二つの思いを感じ」ることも致し方ない言い方だったのかもしれません。それに、こはくさんご自身のお母様のことですから、当然私より長く深くご存知でしょう。だから「母がこう言うということはこれこれこういう理由があるからに違いない」という推察が容易にできてしまうのかもしれません。
 ですが、私たちは「本質的に中途半『端』な生き物である」わけです。つまり、誰が何をするにも(何をされるにも)、他人には不可解な半端さが必ず付き纏っているということです(よね?笑)。もちろん、こはくさんのお母様にも。つまり私が言いたいのは、長く深く知っているからと言って、その不可解さについて必ず正解であるという理由にはならないとは思いませんか。また、熟知しているという思い込みゆえに、判断が早くなっていませんか。
「極『端』に考える人たちは、この想像するというフェイズをスキップしてしまっている」と仰っていましたね。私は、こはくさんがお母様に対して、全く同じ状態に陥っているように見えました。本文中に、「冗談だったかもしれない」といった余白についての懸念や、「わからないので確認したらそうだった」といった根拠が見受けられなかったためにこう感じた次第でございます。
 他にもそう感じた根拠はあるのですが、長くなってしまったのでこのあたりでやめておきます。とにかく、まとめると「他の可能性に一切触れず「極端」だと判断し母親に失望した根拠は何なのか(できれば「母親だからわかる」以外の理由で)」――言い換えれば「「人は誰しも中途半端なもの」という思想を母親にも当てはめようとしなかったのはなぜなのか」という点についてよくわからなかったため、確認させていただきたく(なにぶん不可解な半端さを抱えた人間同士ですから…苦笑)、コメントをした次第でございます。
 実家から離れて暮らし始められたということで、お忙しいところだとは思いますが、今一度考えていただければ幸いです。それでは。

無題

  • こはく
  • 2015-02-10 23:38
  • edit
寝返りレタスさん、コメントありがとうございます。
母の立場を極端だと考えた僕自身が極端なのではないか、という批判ですね。

確かに、母が実際に僕に言った言葉には冗談の意味も含まれていたはずで、僕も当時はそれを理解していたはずです。
にも関わらず寝返りレタスさんの仰るとおり僕はその冗談の要素を排除し、彼女の言葉を極端なものであると解釈しました。
ただそれは母の言葉を聞いた時点ではなく、文章を書く時点においてです。

というのも、僕は文章を書くのが得意ではありません。
「書き物に未熟な自分が中途半端的な文章を書くと、それこそ中途半端なものができあがってしまうのではないか」と僕は考えました。
母の言葉の複数の意味を考慮しながら文章を書いていると一体自分が何を主張したいのかが分からなくなってしまうと思い、母を「極端な立場でモノをいう人」として僕自身が極端な考えをもちながら文章を書くことにしたのです。

中途半端がテーマであるにも関わらず、母の言葉の意味を切り捨て、改変し、文章を簡単に書くために極端な立場をとったことは安易な発想でした。
そして文章を書く際に極端な立場をとったことに関する補足をつけておかなかったために寝返りレタスさんに疑問を持たせてしまったことも僕の未熟さによるものです。
僕は中途半端を受け容れて楽しむことができていませんでしたね。
ご意見していただいたこと、感謝いたします。
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