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みんなでしんがり思索隊

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快楽としての宗教 / 著者:蛙教授 - ch12

宗教とは認識である。認識とは何に依って規定されているものであろうか。我々は神が存在するという時、其れが虚構であるか、現実であるかという視点で其の意見を見る。正しい認識、正しくない認識の2つが存在しており、どちらか片方に属するという発想だ。其れは主観と客観という文脈で良く論じられる。経験に依存する主観的な認識は、正確な思考と正しい知覚に依って、其の認識の正確さ、正しさを獲得しておき、最後には客観的に正しいと言われる認識、即ち、真理に到達するという図式だ。然し、盲目的に客観世界が存在していると仮定する事に誤謬が挟まれないだろうか。其の疑問を下に、思索を始めた人間が居た。フッサールである。フッサールは伝統的な主観=客観図式ではなく、可疑性=不可疑性という図式で思索を試みた。どういうことか。

フッサールは客観世界が存在するという命題を盲目的に真であるとして議論を始める伝統的な認識論を排し、疑えないものをベースに正しい認識に立とうとした。フッサールは正しい認識に到達する上で、其の基礎付け足りうるものを2つ導入した。知覚直感と本質直感の2つである。知覚直感とは<今此処>に於ける知覚情報を指し、本質直感は、言わば、正しさを担保する為の超越項である。フッサールの構想はどんなものであろうか。


先ず、知覚直感について言及する。フッサールは可疑性が含まれる認識に、様々なものを上げた。慣習に依って規定された迷信、再現性を其の基礎付けとする自然科学、個人の経験に依って得られた知見。然し、様々なものを上げた所で、一つの絶望的な壁が存在する。今現在の認識全てが夢である場合が其れだ。此の文章を書いている私は、友人宅の布団の上で、MacBook Airを開き、其れが夢ではない、現実の正しいものとして認識している。然し、此れが夢ではないと証明する事は不可能である。早くも正しい認識への探求は絶望的となったが、フッサールの哲学では、其れは絶望ではなく、思索の出発点である。真偽値が定まらない認識が存在しているのならば、其の命題に準拠せずに、其の命題の真偽値をエポケー、即ち括弧入れすることで、議論を始める。そうすることで、今現在の認識が夢である場合、現実である場合の2つの可能性について、両方考える事で、全ての場合について考察が可能となる。其の上で、現在の認識が夢である場合という、証明も反証も不可能である場合についてではなく、現在の認識が正しい場合について議論を深めていきたい。

では、其の前提の中で過去、現在、未来の中で不可疑性を持つのは何であろうか。其れは現在のみである。過去に関しては、伝聞や記憶違いに依って可疑性を呼びこむし、未来に関しては起こっていない事について確認しようがない。1分後に宇宙が消えてなくなっている可能性を反証することは原理的に不可能である。加えて、<此処>の特権化を何故行われるのか。其れは、自分の知覚出来る範囲を超え出たものは、伝聞を含むという意味で、可疑性が含まれる。以上から<今此処>が不可疑性を持つという意味で、特権化され、議論の基礎付けに用いられる。


知覚直感だけで、正しい認識に到達出来るだろうか。答えは否。純粋に生物学的な刺激だけでは、其れは認識とは言えない。複数の情報を下に、意味や解釈と言われるものを紡いだ時に初めて其れは認識と言われる。フッサールの用語で言うところのノエマである。意味を齎す真理作用であるノエシスに依って規定された意味や解釈をノエマという。目の前のMacBook Airを知覚した時に、MacBook Airの視覚的情報、重みという触覚的情報を統合したものとしてMacBook Airが認識される。統合に当たって、MacBook AirとMacBook Airではない存在(ズボンを構成する布、身体にあたる扇風機の風、視界に入る友人の顔)が明確に分離する。こうして、MacBook Airというものは輪郭を得て、其の境界を規定する。情報を統合する時に、<今此処>だけを特権すると、どんな不具合が存在するだろうか。

私は、ほんの数時間前までまどか☆マギカのBGMを聴いていた。音楽を認識する時、<今此処>に依る情報だけで理解出来るだろうか。絵画が空間の芸術なら、音楽は時間の芸術だと言われる。其れは時間経過に依ってのみ、其の鑑賞を可能にするからである。では、今此処を特権化すれば音楽を認識することが不可能になってしまう。抑、MacBook Airや扇風機の風を認識するのにも、必ず時間経過を含んでしまう。其の意味で、連綿と続く<今此処>に依って得られた知覚情報を「正しく」認識するための超越項の導入が必須となった。本質直感である。


本質直感の導入は、盲目的に正しいとすれば、其れは前述の盲目的に客観世界の実在を真とする議論と同レベルではないか。此処で、フッサールが正しい認識を希求したインセンティブについて考えたい。フッサールは哲学を始める前は幾何学を好む数学徒であった。数学には、最初に公理を選択すると、其処から、ある命題の真偽値が真であると一意に決定可能であるという、認識論について思索する合理主義者にとっては、希望となる理論体系を有す。フッサールは、数学と同じく、絶対に正しいものから議論を出発すれば、数学以外の領分、所謂「現実」と言われる領分に於いても、正しいと言える理論の構築が可能ではないかと考えた。

此処で認識論の文脈で語られる合理主義、経験主義という言葉について整理しておきたい。此処で言う合理主義とは、最終的に人間は真理に到達出来る存在であるという立場。経験主義とは、どんな認識も人間の生物学的に規定された、自己の経験に依存するという立場。両者は真理に対して、楽観と悲観という文脈で語られる事が多い。フッサールのアプローチは慎重で、経験主義的であるのにも関わらず、最終的に求めているものは合理主義者の其れである。構想の最初の段階で、強烈な価値判断が存在する。


此処に来て、認識は其の個人がどんなものに「快楽」を感じるか、という論点に変わる。認識論という分野が生まれ、多くの人間が其の分野で思索を重ねてきた。そして様々な意見の対立が生まれた。其の人にとって何が大切か、何に価値を置くか、どんな価値判断をするかに、認識が規定される。物理法則を初めとした自然界の法則を利用しようすれば、科学理論を援用した科学技術という営みとなり、正しさを希求すれば真理が存在するものとして思索を始める。其れ等の価値判断、目的の設定は、広義の「快楽」であり、其の文脈に於いて、人間の行動の一切は「快楽」で説明される。無論、此の議論は横暴であり、人間の行動、思考、全てを「快楽」として説明するのは、行動と思考の力動因が「快楽」である以上の情報を齎しておらず、トートロジーである。其の認識を前提とした上で、我々が科学、真理、宗教、迷信と言ってるものは全て「快楽」に依って規定された、同等に相対的なものである、という認識に到達する。

此処で、本稿の本題である「宗教について」に立ち戻りたい。宗教とは「快楽」である。宗教だけではない。人間の営み全てが「快楽」に依って説明可能であるし、其の意味で、全てが相対化される。では、そう考えた時に宗教と宗教ではないものを峻別するのはなんであろうか。科学と宗教の峻別であれば、科学は再現性や統計的有意や反証可能性と言われるプロトコルに依って基づいた体系であり、宗教には、(少なくとも宗教全般という括りでは)共通のプロトコルが存在していない。宗教の定義自体が曖昧で、共通の認識が無いのが現状だ。であるならば、俗に言われるAppleも宗教であり、私は其処に入信しているアップル信者である。業務でWindowsを使っているが、使用する度に精神的にダメージを受け、早くMacを使いたいと思う自分がいる。精神的にダメージを受けるという事は、紛うことなき「快楽」の問題である。正義ではなく、気持ちよさ、快適さこそが宗教を規定する。

さて、此処まで読んで、納得して頂けただろうか。何やら、論理の飛躍や、煮え切らないものを、本稿から感じられるのではないだろうか。其処に関しては筆者である私も同意見である。友人宅に来たついでに、勢いに任せて文章を書いてみて、「其れは本当だろうか」「此の議論は雑すぎないか」「特に有用性のある議論ではないのでは」という感覚を持つことが非常に多かった。実際に文章にしてみて、こう考えれば綺麗な解釈、綺麗な説明になるのでは、と着想の種となる考えも少々浮かんだ。次、此処に投稿する機会があれば、其れ等がどんな芽をだし、幹が太くなり、大木となっていくか、楽しみである。





(編集・校閲責任らららぎ)

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