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書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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それは根拠を求めたから / 著者:大人たん - ch23

「自分には代わりがいくらでもいる」という命題、それは思春期の少年少女エブリバディが思い悩むこと——という風に御題で紹介されていましたが、私の思春期に、そのような悩みはありませんでした。かつて一度も悩んだことがありません。

そんなこと言うと、大人たんはもしかしてまだ世襲制なのですか? みたいな誤解をされてしまうかもしれませんが、もちろん世襲制でもありませんよ! 私は自分で自分の就く仕事を見つけました。

では、なぜ「そんなこと」に悩まないかというと、別に根拠を求めていないからです。いまの自分が考えていることは(他人からみて)正しいかなとか、いまの自分がしていることは(他人からみて)合っているだろうかとか、そういうことを考えないので、やることなすことに根拠が要らないんですね。今風に言えば「無責任」ということです。

ちょっとデリケートな話題ですけれど、「福島県産の野菜」と言われて、たぶんうちの母親ならヒステリックを起こすのでしょうけれど、私は「別にどこの野菜でもいい。食べてみて美味しくなかったら普通に次からは買わない」というスタンスをとっております。

私、自分以外のものにいちいち頼りながら選択するの嫌いなんです。

福島県産の野菜だったら、「専門家」とか、「被曝数値」とか、「政府の発言」とか、「農家への社会的同情」とか、「風評」とか、いろいろな情報がありますね。そういうのに頼る人は、そういう情報をネットやテレビでかき集めて、吟味して、根拠として成立させようとします。食べる/食べない(スル/セザル)の選択は《自己責任》だから、そうやって頼りになる何かの情報を「言い訳」にして、生きていくわけです。

でも、それって、ちっとも「自己責任」じゃないんですね。単に「最終的に選んだのが自分」なのであって、その根拠となる情報は外部にあります。誰々がこう言ってたから、どこどこでこういうことがあったらしいから、数値によればこうだから、そういう根拠を集めたところで、自分という人体にとって安全かどうかなんて分かりっこないのです。「正確な選択」というのは、彼方まで行ってもやってきません。選択の責任を取るために情報を集めていたはずが、いつの間にか他人の情報を言い訳にしようとしているのです。

つまり、自己責任というのは、集めた外部の情報を《越えていく》ことであって、集めた外部の情報に日和って埋もれていくことではないのです。他人が言っていること、他人が教えてくれたこと、そういう貴重な情報を受け取り、もちろん尊重したうえで、自分で決めるために《踏み越えて行く》ということなのですね。

なぜ私たちが「自己責任」なんてことに悩み始めたのかを話すと長くなってしまうので避けますが、「ギデンズの再帰性」「ポストモダンとヘーゲル批判(国家・道徳・真理)」などに関連することをお調べいただくと、ある程度は分かってくると思います。

さて、本題です。

自分には代わりがいくらでもいる、そう思ってしまうのは、根拠を求めてしまうからです。つまり、自分の固有性を確かめようと、それを保証してくれる情報、それを確実にしてくれる情報を探し回ってしまうのですね——まるで福島県産の野菜が安全かどうかの根拠を探すように。

それを俗に《じぶんさがし》なんて言ったりするわけですが、そんな根拠を「どこか」に求めてしまった時点で、言い訳する気まんまんということになります。親の言葉だったり、友だちの言葉だったり、占いの言葉だったり、カウンセラーの言葉だったり、ネットで見つけた言葉だったり、同じクラスタの言葉だったり、宗教の言葉だったり、そういった誰かの言葉を言い訳にしようとしているのです。自分を探そうとしていたはずなのに、いつの間にか誰かの言葉を探そうとしてしまっているのです。

昔は、そんなの探さなくても「神」とか「先祖(家系)」とかそういうのが《当たり前》だったので、「選ばない責任」に気付かなくて済んでいたわけです。でもいまは、自己責任という概念が流行していて、国家の言葉も、道徳の言葉も、真理の言葉も、神の言葉も頼りにすることができなくなり、自分が「選ばなかったこと」にさえも責任があったことに嫌でも気付くようになりました。

だから、「それに早くから気付けなかったことをコンプレックスに思っている親(私の人生がうまくいかなかったのは早くから気付けなかったせいだ!と思い込んでいる親)」が、自分の子どもに習い事をさせて、選択肢の幅を広げようとするわけですね。そして子どもは、何でも選択できるのだと知り、今度は「何でも選択できるのだから、何かを選択するためにはそれなりの根拠が必要である」と気付き、一生懸命に根拠を探すようになります。

ピアノも習った、習字も習った、剣道も習った、ダンスも習った、英会話も習った、作文も習った、絵画も習った——さてその子は「自分の人生が唯一無二であることを証明するために、どんな根拠で、どの道に進めばよい」のでしょうか。そして、その根拠は、巨額の富を子どもに投資した親(投資家)を満足させるに足りているでしょうか。

親切に提供された豊富な選択肢を前にして何かひとつを選ぶとき、《考えるまでもなくそれが当たり前だから》では許されないのです。固有性というのは、それが当たり前だからという根拠以外では成り立たないのに、選択肢が平等に並べられ、それに「客観的な=他人と一緒に納得できる」根拠が求められたとたんに、固有性は失われてしまうのです。

いまの時代は、もう、「それが当たり前だから」という根拠が通用しなくなっているのです。「いろいろな習い事をさせてもらったけれど、やっぱり私はこの道をいきたい。なぜならそれが考えるまでもなく私にとって当たり前のことだから」という説得に納得する親は、もういないんじゃないですかね。きっと「考えるまでもないってどういこと、ちゃんと考えなさい、あなたの人生なのよ、一回きりなのよ、もう一度、真面目に考えなさい」みたいなこと言うんじゃないでしょうかね。

固有じゃない、つまり代替可能なのも大変ですが、固有なのもまた大変な時代なのかもしれません。どっちにしろ、たくさん不安になると思います。

私は、すごく単純に言って、私の人生のことでいちいち誰かを納得させるだけの根拠を見つけてくるのが面倒なので、無責任に生きているだけですが、それが固有性に繋がっています。きっとその根拠を求め始めたら、一気に「交換できる存在」になってしまうのでしょうね。

つまり…

大人たん「私の人生は固有です。なぜなら考えるまでもなくそれが当たり前だからです」
他人「?????」

という人生を送るか、

大人たん「私の人生は固有です。なぜなら私には先祖がいて、代々家系があり、私はその大きな物語を受け継いでおり、この時代の、この場所に、奇跡的に生まれたからです。あとこんな特殊な技能も持っています。私はこんなに変わった人です。どうか変態と呼んでください。希少価値のある言葉で私を認めてください。私はとても貴重なんです、サブカルなんです」
他人「それは分かりましたが、それは誰でも、大小あるものの、みな同じですよね?」
大人たん「はい…そうですね…(私の人生なんて代替可能なんだ…ッ!)」

という人生を送るか、ということです。

根拠をどんなに挙げたところで、その根拠が他人のものでもある以上、代替可能性が見え隠れします。だったら、もう面倒だから、一般性のある根拠なんか提示しないで、「それがそうであることが当たり前だからです」と言ってしまえばいいのだと思いますよ。

「自分の代わりなんて〜」と悩んでいる自分が好き、という特殊な嗜癖を持っている方でなければ、今すぐに固有の人生を送ることができます。他人からの理解や共感は一気に減りますが、それが固有に生きるということです。他人と群れたり、集団に埋もれたりすることに安心感を憶えるのであれば、別に無理して固有になる必要はないと思います。代替可能であることを嘆くこともないと思います。

自分の好きなほうを、好きな風に生きるのが、ベターだと思いますよ。









(編集責任:らららぎ)

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