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みんなでしんがり思索隊

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生は死を召し捕るが、死もまた生を召し捕る / 著者:大人たん - ch14

「阿吽」(a-hum) ― 見慣れない字面。サンスクリット語の字母表の「初めの文字」(a)と「終りの文字」(hum)に漢字をあてているらしく、それを「阿吽の呼吸」とすると、最初と最後が合致する(吐くことと吸うことが対立せずに一致する瞬間)という意味らしく、なるほど、インドの宇宙的な思想が根付いている言葉なのですね。

呼吸することは、息をすること。それは歩くことと同じように、誰に命令されることなく、産まれてからずっと独りで行為してきたことです。呼吸を意識することは、パーリ語で「安那般那念」(アーナーパーナ・サティ)と呼ばれていて、禅では「数息観」(すそくかん)と言います。息は「吐いて吸う」という循環(呼吸)をもって、"1回"、とカウントするのです。呼気と吸気はふたつでひとつ。どちらかだけでは成立しないものです。

呼吸をカウントして、呼吸を意識すること。
なんの必要があるのでしょうか。

5月に東京大学で釈徹宗先生の『現代社会を生きる力としての仏教』を受講し、そこでも「数息法」の話が出てきたと思います。大事なポイントは、「現代社会を生きる」という文脈で「息数法」が紹介されたことです。

数多くの人が「息はただすればいい、わざわざ数息する必要などない」という意見に賛成するでしょう。同じような主張をどこまで受容し、どこまで賛同するでしょうか。

「食事はただすればいい、わざわざ美食する必要などない」(食べることを意識しなくていい)
「歩行はただすればいい、わざわざ健歩する必要などない」(歩くことを意識しなくていい)
「生活はただすればいい、わざわざ命数する必要などない」(生きることを意識しなくていい)

19世紀後半のイギリス、「アメニティ」という概念が都市環境論のなかで登場するようになり、あらゆるものが親切に配置されるようになりました。つまり、「ただやることが、ただやるために」順序良く並べられ、「ただ~するだけ」というロボットのような生き方に近づいてきたところです。

こんな時代だから、息を数えよう」と主張する釈先生。ロボットのように息をするのではなく、ロボットのように食べるのではなく、ロボットのように歩くのではなく、ロボットのように稼働するのではなく、それらのライフスタイル(お決まりルーティン)をわざわざ見直すことで、人間を生き直すことができるでしょう。ちょっとふざけて言えば、「息」を意識することで、「生き」を意識することができるのかもしれませんね。

仏教と出会って以来、私は息を数えるようになり、人生を数えるようになりました。だから私は息を数えてきたし、人生を数えてきたと申したいのです。そんな大げさなことではないのかもしれませんが、自分の中ではそういう認識でやってきました。これは、少しだけ、誇りです。

モンテーニュさんは『随想録』のなかで「われわれは死の心配によって生を乱し、生の心配によって死を乱している。生はわれわれを憂鬱にし、死はわれわれを恐怖させる。われわれが備えるのは死に対してではない。それはあまりにもあっけない事柄である。…本当を言えば、われわれは死の準備に対して備えるのである」と言いました。つまり、死の心配をして生を狂わしてしまうことに対して備えなければならないのです。

・「振り子」 - アニメーション:鉄拳 / 楽曲:Muse

この男性は「数えてこなかった人」かもしれませんね。何一つ数えてこなかったことに対する悔みが、振り子を止めようという暴挙を促しているように思えます。「死であること」を目の前にして、「生であったことの全て」が召し捕られそうになるのです。「当たり前に思って数えない」というのは、ロボット化のことであり、日常が死ぬこと(日常性が亡くなること)すら召し捕られて、気付けなくなることなのかもしれませんね。(この辺りのことは次の記事で書けたら嬉しいです)。

・"walking tour" - フラッシュ:佐原正規 / 楽曲:黒石ひとみ

私たちは、私たちの人生を見守りません。見つめ直すこともめったにありません。建て直すことも珍しいです。「自分の人生と向き合う」という言葉ばかりが消費されており、「自分の人生と向き合うということはどういうことをするのか」ということが、あまり考えぬかれていないようにも思えます。

向き合うといっても、自分の人生と決闘するわけでも、パネリングするわけでもありません。大事なのは「見守ること」です。自分に対して、「そういう風に生きていくんだね」「いいんじゃないかな、そっちに行きたいんだろう」「どっちに行ったって、私は私の味方だよ」「でも行くからには私を納得させてよね」「しっかりねという一連の言葉を"ひとつひとつ"しっかりと添えること、対面して渡すこと、それが大事なことなんだと思います。そして、自分を見守るためには、「見守られた経験」を思い出すことが大切かもしれませんね。

この"walking tour"を初めて見たとき、私は、「そうだ、私は見守られていたんだ、後見されていたんだ」ということを思い出しました。親だったり、姉弟だったり、親戚だったり、先生だったり(実は親よりも先生の方が見守ってくれてた!?)、道場の恩師だったり、所属していたスポーツチームの監督やコーチ陣だったり、付き合っていた恋人だったり、数々の後見人が私のことを後見してきてくれたことを、思い出しました。

生活の忙しさや忙しなさに溺れると、自分だけで生きているように思えてくるけれど、たくさんの人に土台を支えてもらい、たくさんの人に背中を任せながら、たくさんの人に勢いづけられてきたのだということを、改めて認識することができました。振り子の男性は、それに、最後に気付いたのかもしれませんね。

それを、私は、いま、数える必要があるでしょう。

いつのときの、誰の、どんな言葉に助けられ、
私を支えているものの「ひとつひとつ」「一個一個」は何であったか。

今からでも数え直したい、のです。

かつてフーコーさんが言ったように、「自分とは何者か」というアイデンティティの問題ばかりを気にしてはいけないのです。それも大事なことだけれど、「自分は何者かは分からないけれど、少なくともいま私がここにいるのは、誰に、何に、支えられてきたのだろうか」と問うことを省いてはいけないのではないかと思うのです。そこをサボらず、しっかりと、数えたいと思います。

そう思うようになってから、まだ数年しか経っておりませんが、改めてこの記事で決心させていただきました。この機会を与えていただき、ありがとうございます。素敵なきあずまだと思いますよ。それでは。



大人たん。

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