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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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chiasma 24:「恩と負い目の大中小」

chiasma24:「恩と負い目の大中小」

・「サーキュレーション」(開発室Graph)
・「恩と言えば先生を思い出す」(ドーナツ)

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わくわくをつくろう。 / 著者:開発室Graph - ch09


僕は人のオススメを受け入れるのが好きです。
誰かのオススメは僕の「わくわく」をとても強化してくれます。


 僕にとって最も楽しい時間のひとつは,なにか欲しいものがあるとして,それについて色々と想像を巡らせることです。その箱を開けたときのこと,それを初めて使ったときのこと,日常的にそれを使うときのことを,ぜんぶ想像します。それが僕にとってものすごく楽しい時間なのです。

 とはいえ無限にお金があるわけではありません。何か高い買い物をするときにはすごくゆっくり吟味することが多いです。色んなサイトを見て情報を集めます。それでやっと買うことにしたり,涙を飲んで諦めたりするのです。

 誰かのオススメやレビューサイトの情報は,その「想像」のための材料です。あの人はアレのあの点がいいと言っていたけど,自分はそう思うだろうか?あの点はダメだと言っていたけど,本当にそうなのかな? などなど考えを巡らせることもものすごく楽しいことです。

 実際にそのものを手にしたときの喜びと興奮はひとしおです。こういう経験は誰にでもありますよね。まるでサンタクロースからのプレゼントを喜ぶ子供のように,僕はいそいそと箱を開けます。

 今までに例外なく,実際に手にした商品は僕の期待を裏切ってくれます。店頭で実物を見たはずのものであっても,自分の手元にくるとまったく違った感触を受けることもあります。サイトで見ただけのものなんて言うまでもないですよね。でもそれを楽しんでいる僕も存在するのです。ある種のくじ引きか何かに似ているといえるかもしれませんね。

 そしてその商品について,オススメしてくれた人と話すのもすっごく楽しいです。「何を商品に求めるのか」っていうのは少しずつ異なります。同時に「ここはどうでもいいや」という部分も少しずつ異なっていきます。

 ちょっと大げさですけど「なにかをオススメしあうことによってその人がどんな人かわかる」っていうのもあるかもしれませんね。言葉じゃ伝えられないなにかも「オススメ」が伝えてくれるかもしれません。

 特に書籍や映画など,なにかストーリーをもつものをオススメされるのはおもしろいですね。あるシーンに差し掛かって,この人はどんな気持ちでこのシーンを通りすぎて,そしてどんな気持ちで僕にこれをオススメしてくれたんだろう? と考えるのもものすごく「わくわく」することです。

 「想像を巡らせること」が楽しい時間のひとつだと書きましたが,もちろん届いてからの時間も楽しいですよ。欲しくてたまらなくて買ったものは,色んな方面から僕の生活をがらりと変えてくれます。真夜中に「そういえば買う前に気にしていたあの部分はどうだったんだっけ」とふと思い出して,意味もなくそれを使ってみる,なんてこともあります。

 買ってみて全然イメージと違って,なんじゃこりゃいらなかった,というものも中にはいくつかありますよ。でもせっかくお金を払ってしまったし、なにかの縁なのかなあと思って使い続けることにしています。そのモノに罪はないですしね。

 そんなこんなで「なにかをオススメされる」からはじまる一連の流れは,僕の生活にたくさんの「わくわく」をもたらしてくれます。だから僕も,いいモノも悪いモノも含めてたくさん人に「オススメ」します。その人の生活に良くも悪くも「わくわく」が生み出せたらいいなあ。そしてできたらその人とそのモノについて話して,その人の一面なんかも知ることができたらいいなあ。






(編集・校閲責任:らららぎ)

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記憶の伝言ゲーム / 著者:セカペン - ch6


 これを読んでいるみなさんは、《思い出を言葉にする》という作業をしたことがあるだろう。したことがあるという前提の上で、こう尋ねてみよう。

――今、話しているその思い出、本当にそのときの心のままなのかい?

 記憶というのは、とても曖昧だ。その上、アウトプットする手段が現段階では「言葉にする」しかない。

 言葉にするという行為を通すと、どうしても主観的なものが入る。「このとき、あの人がこう言ったの。それで、私、腹立たしくなったの」等、思い出を再生しているときに、自分がどう思ったのか、どう感じたのか、どういうことを言ったのかを付け足す。そのときに、「あの場面でこう思った」という自分の感想は、果たして本当にそのときの自分が思ったものなのだろうか。それとも、今の自分が思ったことなのだろうか。

 抽象的な話をしてもアレなので、記憶の伝言ゲームの例を「ドラえもん」でやってみよう。

 ドラえもんが「しずかちゃんのところに行こう」と言って、自室にいたのび太君にどこでもドアを出してみせる。のび太君は「しずかちゃんのところ? 行く行く〜!」と言って、ドアを勢いよく開ける。ドアの先には、裸のしずかちゃんが。「キャー! のび太さんのエッチー!!」のび太君はお湯をかけられ、謝りながらドアを閉めるしかなかった……。

 さあ、この出来事について、のび太君に語ってもらおう。

(出来事から数日後)
「ドラえもんが『しずかちゃんのところ行こう』って言って、どこでもドアを出したんだ。しずかちゃんと会いたいなって思ってたから、ドアを開けたら、しずかちゃんがお風呂に入っている最中でさ……。裸だったもんだから、怒っちゃって……」

(出来事から数ヶ月後)
「たしか、ドラえもんが『しずかちゃんのところに行こう』っていきなり言い出して、何も言ってないのにどこでもドアを出したんだよな。とりあえず、ドアを開けてみたら、裸のしずかちゃんがいてお湯かけられたんだ。あれって今思えば、ドラえもんの悪戯だったのかな」

(出来事から数年後)
「昔、ドラえもんのせいで酷い目にあってさ……。どこでもドア開けたら、入浴中のしずかちゃんのところに繋がっちゃって。あのせいで、しずかちゃんに嫌われたんだよ……。ほんと、あのときのドラえもんは信じられないよ……。きっと、あの少し前に、ドラえもんの好きなどら焼きを食べたことを怨んでいたんだ」

 どうだろうか。尾ひれや背びれがついた話になってはいないだろうか。

 これはたとえ話なのでピンとこない人もいるかもしれない。そういう人は「昔、親に怒られたときのこと」「友だちと喧嘩したこと」などを思い出してみよう。そして、その記憶について、自分が感じたものは後付けでないかどうかをじっくり吟味してみよう。

 こうした不確かで刹那の記憶を言葉にすると、どうしても抜け落ちる部分や付け足してしまう部分がでてくる。

 目で見たものを頭の中で映像化していくうちに、視界の角に映っていたはずのものたちが抜け落ち、頭の中の映像を言葉にする時点で細かな描写が切り捨てられ、言葉を声にして発する時点で情景が消え、よっぽどでないと人物と出来事しか残らない。その残ったものを少しでも豊かにするために、言葉にするの時点で多少の「肉付け」が行われる。

 さらに言えば、この「削ぎ落し」と「肉付け」の作業は、記憶を言葉にする度に行われる。とくに、当時は意識していなかった気持ちが無意識のレベルから意識のレベルにのぼってきて、思い出しているうちに「ああ、あのときの自分はこう考えていたのではないか」という気分になってくる。

 自分一人の伝言ゲームともいえる記憶の想起。その過程で行われていることは謎に包まれているが、少なくとも起きた事そのまんまを伝えるためには目にビデオかなにかを埋め込むしかないだろう。

 しかし、こうした「後付けされた記憶」こそ、僕らの生活の醍醐味ともいえる。僕らが現在や未来だけでなく、過去に返ってその場面を生きることができるという証明でもある。さらに言えば、過去の自分の「なぜ、自分は」を考えることで、現在のひっかかりを解決する糸口になりうるかもしれないのだ。

 あの頃の自分から今の自分まで続けられた伝言ゲーム。最初のものをありのまま伝えるという伝言ゲームとしては失敗しているかもしれないが、たまにはその記憶をたどって、削ぎ落した部分を拾いに行ったり、そのときの気持ちにできる限り戻ったりしてみようではないか。

 この伝言ゲームに勝敗はないのだから。
 悠@セカペンでした。






(編集・校閲責任:らららぎ)

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打破とは、文字通り何かを打ち破ること。障害をとりのぞくこと。 / 著者:九条朔良 - ch22


 初めまして、九条朔良です。

 創作活動していく中で、スランプに陥ってしまう事が多々あると思います。やる気が出ない、思うように書けない……いつしか、あの時書きたかったネタはとうに忘れ去れる。あなたにしか書けない文章が、光を浴びる事も無くこの世から消えてしまうのはとても残念で、悲しい事です。

 スランプに悩む未来の私と、立った今スランプに悩んでいるあなたに、スランプ打破の方法を書こうと思います。もっとも、人によって感じ方も考え方も違うので、必ずしも絶大な効果があるとは保証できません。だけれど、少しでもあなたの創作活動の役に立つ事を願います。


◆部屋を整える、心を整える。


 要は、整理整頓です。特に私のようなずぼらなクリエイターだと、気が付いた時には部屋に本や参考資料が散乱してしまい、お客さんどころか家族すら足を踏み入れない悲惨な状態になりがちです。

 生活の乱れは心の乱れと言いますね。毎朝起床して目に入るのが、埃被った本が散乱している部屋と、綺麗に整理整頓された部屋とどちらが気持ちよいのでしょうか? 断然、後者を選ぶ人が多いと私は思います。

 もちろん、乱れた部屋はなんだか研究者や芸術家っぽくてかっこいいのは良く分かります。しかし、スランプに陥った際に、部屋が汚いままでは心機一転するのも難しいでしょう。心が弱っている時に、汚い部屋に居座っても、このまま倦怠感と共に身も心も腐っていくだけです。部屋の状態は、あなたの今の状態、生き様、人生そのものを表しているのですから。

Ordnung ist das halbe Leben.*(人生の半分は整理整頓である)

 鼻歌でも歌いながら、整理整頓しましょう。埃被った机を磨いて、裸足で歩いてもゴミがくっつかないように床を拭きましょう。そして、湧いてくる昔のアルバムや、失くしたと思ったプレゼント、昔集めていた漫画を読み耽りましょう。時に黒歴史にバタバタしながら、時に昔は良かったと懐かしみながら……たくさんの時間をかけて部屋を、あなたの心を整えていきましょう。埃一つ無い、インテリアがミリ単位で細かに配置されているような部屋じゃなくても大丈夫です。あなたの思う「整っている部屋」に整理整頓していってください。

 そして存外綺麗になった部屋を見渡した時、あなたの心のもやもやが少しでも晴れている事を、願っています。


◆芸術の世界に、どっぷり浸かろう


 部屋が綺麗に整理整頓されていると落ち着かない、という人の為の方法。創作畑の人はこのタイプが多そうだと思うのは私だけでしょうか。

 美術館に行って絵を見る、何処かへ旅行に出る、尊敬する作家の記念館で感傷に浸る。映画を鑑賞するのも、地元で本屋巡りするのもよし。何でも構いません。今あなたが関わっている創作から少しだけ離れて、様々な世界に浸りましょう。

 いつも自分が関わっている分野と違う世界に触れる。

 「絵画は良く分からないけど、私はこの絵の雰囲気が好きだな」

 そういった漠然とした感情で良いのです。様々な芸術の世界に触れる事は、あなたの感性を、創作の引き出しを豊かにしてくれます。

 創作活動に疲れて、スランプに悩んだ時は、少し息をついて休みましょう。ゆっくり散歩でもしましょう。綺麗な空気を吸って、何処か好きな所へ行って、芸術の世界にどっぷり浸かって、息を漏らしましょう。絵を見て、観光して、記念館へ行って、映画を見て、本を読む。あなたの気が済むまで芸術の世界に浸って、そして創作の場へ帰りましょう。見た事聞いた事感じた事、その全てがあなたの創作する力となっているでしょう。

 そしてあなたの創作物を心待ちにしている人達の為に、これからあなたのファンになるかもしれない人達の為に、あなたにしか作れない物を創作していってください。







*Ordnung ist das halbe Leben:カール・ヨーゼフ・ジムロック『Die deutschen sprichwörter gesammelt』の7683に収録されているドイツ語の諺。



(編集・校閲・註釈責任:らららぎ)

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冬が嫌いだったこと / 著者:ドーナツ - ch16

小高い丘の上にある小さな女子校に通っていた私にとって夏休みは、静かな校舎に流れるおだやかな時間をゆったりと過ごすのが常だった。
部活で全国大会に出場した年は忙しかったけれども、時に勉強し時に部活をし、たまには友達と遊んだりして、やがてやってくる忙しい9月に向けて準備するような、そんな時間だった。

女子校ということもあり夏のときめきラブストーリーとは全く無縁だったけれど、今にして思えば私はそんな風にして過ごす夏休みが決して嫌いではなかった。
お嬢様学校にありがちな丈の長いスカートの制服は重たくて仕方なかったし、木々の緑も豊かな生命力を誇って重苦しかったけれど、そんなものに負けず私たちは軽やかに過ごしていた。

高校3年生の夏と言えば、もはや私たちは高校生ではなく受験生として過ごしていた。
学校で補習がなくても塾の夏期講習があり、家で勉強するのが嫌いだった私は毎日のようにどこかしらへ出かけて勉強していた。
と言っても行く先は学校か塾か図書館かしかなかったのだけれども。

学校の自習室は今は使われていない校舎の一角を高校3年生専用のスペースにしただけのものだった。
壁中に赤本が並べられており、いつも静まり返っていてどことなく緊張感がある、そんな場所だった。
外は天気がよくてすぐそばにあるテラスはとても魅力的なのに、受験生であるがゆえに自習室に留まって勉強するしかなかった。

先日、夏休みの母校に顔を出した。
夏休みの風景は私が在籍していた頃とほとんど変わっておらず、先生は補習の準備で忙しそうだった。
生徒の数は少なくて、のんびりと宿題に取り組んでいるようだった。

私はと言うと、大学に入ってから「夏休みだからこそ何か”””やる”””」という空気に何となく馴染めず、夏休みの短期留学をする気も起こらなくて、仕方なくバイトに精を出してみたり、少しだけ一人旅をしてみたり、「日頃できないことをのんびりやる」という高校の時と変わらない過ごし方をしている。
要するに、そういう風に夏休みを過ごすのが好きなのだと思う。

一方冬休みは短いし、毎日天気も悪くて日が落ちるのも早いし、中学高校とずっと落ち込んでばかりの冬を過ごしていた。
特にカトリックの学校ということもあり、クリスマスが終わってからは華やかだったクリスマスの飾りも外され、年末に向かってせわしなく動いて行く空気がどうにも嫌いだった。
だから、冬が嫌いで、夏の方が好きだった。

そんな季節の好き嫌いについて、大学に入ってから当時好きだった男の子と話していた時のこと。もうだいぶ前の話だ。
「私は夏の方が好きかなぁ。天気がよくて、日が長いし。」
「僕は冬だなー。なんとなく。」

この話をしていたのはだんだんと冬に向かっている時期で、身体が寒さに慣れず少しずつ暗くなる季節だったように思う。
大学生活1年目でまだまだわからないことだらけだったけれど、これからどんどん暗くなっていくのだろうなと、半ば悲観したような、半ば諦めたような心持ちでいた頃だった。

結局、その冬の間に失恋して終わるわけだが、それ以来冬のぴりっとした繊細な空気が何となく好きになった。
この空気はただ暗いだけじゃなくて、夏とはまた違った物語を作れるのではないかと、少しだけ希望めいた何かをつかんだのだ。
彼は「何となく冬が好きだ」と言っていたが、その「何となく」の部分を理解した冬だった。

かくして私は「冬の良さ」を知ったわけだが、それまでは夏が来るたびに冬のつらさと夏の楽しさを対比しては「あんなに日が短くて寒い日々が続くのは嫌だ」と思っていた。
今はそんな風には思っていないので、「冬が嫌いだと一辺倒に考えていたあの頃は幼かった」と懐かしく思い出す。

もっとも、今年の夏はそんな思いに浸っていられるような暇はなかったのだが……

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ささやかれた言葉たち / 著者:らららぎ - ch6

言葉にとって、ささやかれるという経験は、どれだけ珍しいことなのだろうか。伝言ゲームというメッセージ行為において、私たちが言葉を正確に扱えないのではなく、もしかしたら、言葉たちがささやかれることに慣れていないのかもしれない。

 ささやくことを、中国語では「嗫」(niè)という。これは「口を動かしながら、何度もつっかえること」(呑呑吐吐)を意味しており、そこからためらうことを示すこともある。あらゆるささやきには、どこか「負の目的」があるといえるだろう――つまり、人に聞かれてはいけない、大声で言うには憚られる、あえて確実に伝えてはいけない、みたいなこと。

 誘い受けと呼ばれる恋愛テクニックのひとつに「ささやく」というのがある。それは、「ブスの大声」なら無視できるけれど、「この世界中で、今この場で、おそらく私にしか聞こえないだろう誰かの小さな声」は、どうしても気になってしまうという人間の性質を利用したものだとおもう。あえて確実に伝えないことによって、他者の注意資源を獲得することができる。これはかなり戦術的だといえる。(ぼくの姉の子どもも、口だけ大きく動かして、何かを必死に伝えてるっぽくして、ぼくに「え?」と注意させることを好むテクニシャンである、そしてぼくはそれにまんまとはまって10回ぐらいまでは「え?なんだよー、なにいってるの?」って相手してしまう――ぼくは「ささやかれている」)。

 ささやかれるというのは、そんなに多くある経験ではないだろう。電車でUSBメモリを落としたとき、美しい女性が後ろからぼくに「あの…」―(間)―「USBが…」と、ささやいてくれたこと、あれはとても興奮した。そういえば、汚い話で申し訳ないが、異性が興奮しているときに出すと噂されている声も、でかい声より、ささやくような声の方が好きかもし…(ry)。

 閑話休題。つまり、無目的でささやくことはないのだ。ぼくらはそれを経験から知っている。ささやかれたことには意味があり、その意味の方に集中してしまうため、「ささやかれた言葉の一語一句性」を見失ってしまうのだ。それが正常だと、ぼくは主張したい。むしろ、ささやかれた目的を探らず、言葉を逐語できたところで、それはコミュニケーション不全なのだと強烈に指摘したい。(もちろん目的を探ったうえで、さらに一語一句間違えない人もいるだろうし、その人はそうとう集中しているはずだ)。

 伝言ゲームのミスは、人間主体でみれば、ささやきの機能が果たされており、言葉主体でみれば、そんな珍しいことしないでおくれよ、揺蕩ってしまうではないか、ということだろう。ささやくことで、人間は言葉を重視しなくなり、言葉もまた動揺する。言葉と人間が、ダブルで、複合的に咬み合わないので、ミスって当然ということにしよう。

 え?納得いかないって?――すまんやで。

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chiasma 23:「『自分の代わり』について」

chiasma 23:「『自分の代わり』について」
・「自分の代わりを求めてもよい」(らららぎ)
・「それは根拠を求めたから」(大人たん)
・「あなたはそこにいますか?」(めがね)
・「さよなら、もう一人の僕」(エアリーズ)



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