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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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自分の代わりを求めてもよい / 著者:らららぎ - ch23


 ぼくらは、どこかのタイミングで、自分には価値がないということを知る。幼い頃に捨てられてしまった子はその時に、大切に育てられた子でも社会に出た時に、あるいは自分よりもすごい人に何度も何度も出会ってしまった時に、自分には価値がないのではないかという問いを生み出してしまう――ぼくらは、そういう《絶望性》をデフォルトで持っているのだ。

 自分には価値がなく「存在レベルで(しかも余裕で)交換可能」だと思い込んでしまう。そう思うほうが明らかに楽だからかもしれない。そしたら最後、あらゆることを「交換可能なレベルで」しか考えなくなり――世界を見たいように見るようになり――本質から遠ざかっていくだろう。

 ここでは、そういう若き幻想をどのように砕いていけばいいかを、ぼくなりに解説していくので、何かの足しにしてもらえたら幸せである。

 考えるべきことは、誰にも引き継げない個人的なことだ。たとえば、極論だが、あなたがお風呂に入り、恋人から電話が入り、途中で上がったとしよう。そのお風呂の続きを妹に頼む、なんてことはできないといえる。すなわち、《入浴は誰にも引き継げない》のだ。

 では、なぜ入浴は引き継げないのだろうか。それは「ぼくとあなたで一緒に積み重ねる」ことができないからである。共通の累積ではないと言ってもいいし、単にふたりの同じ行為の結果は集合しないと言ってもいい。表現は趣味に任せるが、要するに、個人レベルでしかありえないことが引き継げない理由である。

 よく、行けなくなったライブのチケットを譲渡する際に、「俺の分も見てきてくれよな」というが、これは(言外に含まれている意味を無視すると)原理的に無理なのだ。ライブという体験は、「ぼくとあなたで一緒に積み上げる」ものではなく、どこまで行っても個人の経験としてしかありえない。

 科学的知識のように「一般化」すると引き継ぎができるようになり、個人的なレベルで扱うと引き継ぎができなくなる。そのどちらも一長一短で、優劣をつけることはできないが、とにかくそういう違いがあるということを改めて確認しなければならないだろう。

 たとえば、誰にでも引き継げる「一般化された知識」の代表格に、マニュアルというものがある。全くスキルのないバイトでも、商品を売ることができるスグレモノ。マニュアル通りにすれば、だれでも同じにできて、だれでも同じになれる。

 逆に「個人的な理解」というのは、どこまでいっても個人的なものである。俺はここまで理解したので、後はお前がやってくれ、という引き継ぎができない。音楽を途中から代わりに聴いてもらうことができないのと同じように、理解というものもひとりのなかのひとつづきであり、他者に託すことはできない。

 自分が交換可能に感じたときは、(1)自分で理解し、(2)自分で表現し、(3)自分で生産するのがよい。これらは、はからずも「哲学」のやっていることなので、世間では、こういうことを「哲学」とか言ったりする。「経営者の哲学」とか「プロの哲学」とか、自己啓発本で目にしたことがあると思う。学問としての哲学ではなくて、「自分流の理解と表現による生産」という部分を引き抜いて、哲学と比喩するあれ。(学問として哲学をやっている人たちから評判の悪い比喩)。

 アタリマエのことだが、マニュアルは十全でない。いろいろな状況があって、いろいろな対処法がある。そういう《マニュアルには載っていないけれど、絶対に知っておきたいこと》を知っているのは、外でもない《ベテランの先輩》である。ベテランの先輩は交換可能ではない。ベテランは、自分なりの理解を――どうも一般化できないような形で――何度も自分のうちに積み重ねてきているのだ。そういった意味で、哲学者と呼べるだろう。

 哲学者は、分かるだろうか、単独である。マニュアルのような「誰かが作ってくれたもの」を、誰かと共有することはできない。自分だけで理解して、自分だけで表現する。それが妥当だとか、正解だとか、間違っているとか、誰も教えてくれない。孤独で、単独で、いつもひとりなのだ。交換できないということは、単独ということである。

――それが、そんなによいことなのだろうか。
――それが、本当にあなたの目指しているものなのだろうか。

 もう一度、よく考えて欲しい。あなたが「あなたのみ」になる方法はたくさんある。だが、本当になりたいのだろうか。交換できない、単独で、ひとりで、共感したフリをされることはあるけれど、本当に理解してもらえることはない。そんな存在になりたいのだろうか。なりたいならなればいいし、なりたくないならならないほうがいい。

 厳しいことをいえば、代わりがいることに絶望するような人間は、代わりがいなくなって単独になったときにだって絶望するといえる。同じ絶望ならどちらがいいのか考えてもらいたい。偉そうになってしまったが、ぜひ、今までとは違う角度から、いろいろ考えてみてほしい。

ありがとうござました。おわる。

しーゆーれーらー

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