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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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あなたはそこにいますか? / 著者:めがね - ch23

『あ・な・た・は・そ・こ・に・い・ま・す・か?』『見りゃあわかんだろぉおおおお』
『来い!俺が!二代目ゴーバインだあああ!』
(蒼穹のファフナーEXODUS 第九話 「英雄二人」より)

ええ。好きなんですよ。このアニメ。
ロボットものでSFでってのも極まってそれはもう滅茶苦茶に。
まぁ僕の好みの話なんてのはどうでもよくって誰しもが思春期に通るであろう、
「自分は本当に世の中に必要なのか」「恋人にとっての私は元カノ(またはカレ)の代替でしかないのだろうか」「誰でも良いなら自分でもいいじゃないか」「自分はシステムを維持するだけの歯車の一部でしかない」だとか陰惨を極めた精神状態に陥った事はあるだろう。勿論自分にも身に覚えがあるし、今現在も少なくなったとは言えどうしょうもない焦燥感に襲われることはたまにある。
今の社会が若者達にとって夢も希望も持ちづらい世の中だってのは中高生だって知っている公然の秘密であるし、「若者の○○離れ」だと「ゆとり世代」「さとり世代」だとか言う訳のわからない言葉がメディアで報道されている。「希望を持ちなさい」と煽るわりにはその実「私たちの時代は…」の常套句で叱責してくる、そもそも「希望」「存在意義」ってのが持てなくなった社会を作り上げたのはほかならぬ、あなたたち上の世代なのだけれどもと常々思う。
そんな物を丸投げされた世代ってはたまったもんじゃない。
毎度毎度話が横道に逸れるけれどもまぁいつもの事なので気にしないでいただきたい。
では本題。

・「痛み」によって「存在」が成り立っている
僕たちは生きている。もちろんそんな事は誰に言われなくても当たり前で、誰でも知っていると思う。生きていると様々な「痛み」というやつに苛まされる。例えば、バランスを崩して自転車から落ちただとか、喧嘩をして殴られただとか、寒すぎて手がかじかむだとか。
例えたのは物理的なものだけれども「痛み」を感じるのは何も肉体ばかりではない。
精神的にも「痛み」というのは感じるもので人間の場合むしろこっちの方が多い気がする。
友達は自転車に乗れるのになんで自分は乗れないんだという「劣等感」からの「痛み」、友達と喧嘩した時に後から少し言いすぎたかなと感じる「罪悪感」からの「痛み」。
この「痛み」というのは生きている限り誰しも逃れられないし、誰かに「引き受けてもらう事が出来ない」代替が効かない訳だ。(たまに出来る人もいる)
「痛み」っていう概念を幼い頃におぼろげながら学習した僕たちは次第に「痛み」そのものに恐怖を覚えるようになる。そんなのは当たり前の事で、転んだら傷口から血が吹き出るし痛い、人とは違う行動を取れば訝しげな目で見られると視線が痛い。周りの言動に合わないとおかしいなどと叱責の言葉が飛んでくる。物理的にも精神的にも痛いのなんか誰だって嫌だしそれから逃れるのなんてごく自然な事で別段おかしいとは思わない。
だけれども困った事に、変じゃないように変じゃないように。皆と同じ様に皆と同じようにというこの精神的な「痛み」から逃れよう逃れようとする行為こそが「自分の代替が可能なのでは無いか。」という疑念に駆られる本質的な原因になっていくのでは無いかと僕は考えた。
だってそこに「痛み」なんかなくて、いたって平和で健全で皆、慈愛に満ちている。
僕はそんなの御免こうむる。ひたすらに退屈だ。
この「焦燥感」も「劣等感」も全てひっくるめて僕であり、生きてきて受けた「痛み」によって存在する喜びと苦悩、「痛み」がなくなり存在がなくなる事への恐怖が僕そのものだ。
これは誰にも代替え出来ないし、誰にも共感されたくない。全部自分のものだ。


・他人のリソースに成り果てていないか
リソース(resource)とは、資源の意味の英単語で目的を達成する為に役立つ、または必要な
要素の事だそうだ。
「お前の代わりなどいくらでもいる」などという発言をする人間がたまにいる。これは、相手を「個体」ではなく「資源」として見ているから発する事が出来る発言だと考える。
人の存在を否定する、尊厳を踏みにじる場合に非常に効果的でかつ攻撃力が高く発言した相手をリソースだと認識させるには十二分過ぎる威力を持っている。
もちろん文面通り自分より優秀な人材は、探せば星の数ほどいるしその通りだと僕も思う。
しかしながら、その人材がその言葉を発した人間を「選ぶ」かどうかなんて考えてもみないだろう。ましてや自分が「選ばれる側」の人間だなんて微塵も思っていないのが非常に滑稽だ。
人という「個体」は時間という概念を経て成長する。昔、嫌いだった食べ物が食べられるようになると言う話は良くある話で、もしかしたら今出来ない事が急激に出来るようになるかもしれないし、今は嫌いな所が好きになるかもしれない。
人を「資源」として見ている場合にはこの「個体」は成長するという概念を持っていないので、
相手を蔑ろにするような行動や発言をしてしまう。
逆に自分を「個体」ではなく「資源」だと認識してしまった場合には自分を低く見積もって「どうせ僕(私)なんていなくても同じ」だとか「○○の替りでしかない」などネガティブなリソース意識を持ってしまいがちだ。
やめてしまえそんなもの。意味がない堂々巡りだ。
「選ばれなかった」なら「選び」に行けばいいのだ。無限とは言わないけれども2・3本くらいは選択肢はあるだろう。

絶望なんてのは探せばそこらじゅうに転がってるし、僕もしょっちゅう絶望する。
「痛み」を受け入れろなんて偉そうな事は言わないし言えない。時々、見なかった事にする事もある。でも「痛み」によって蓄積された傷は一生残るし無かった事になんて決して出来ない。
時には膝を折ったって良いと思う。
それでもやっぱり最後に立って「あぁ僕は確かにここに存在していた」って言えたり、何か残せたり出来たら「資源」としての僕じゃなくて僕という「個体」がここにいたと言うのを残せたら最高だなと思う。

なんか青臭い事を言うようだけれども青臭い事が言えないクリエイターなんて全然おもんないし魅力もなくないから、出来ればコレは無くさないでいたい。

終わる。

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