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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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シンプルの裏にひそむ複雑さ / 著者:ドーナツ - ch9

誰かからのオススメ。それはリアルな付き合いがある人から直接聞くものだったり、某ネット販売サイトで押し付けがましく出てくる「あなたへのおすすめ商品」だったりする。

それに対して私がとる態度はまちまちだ。
親しい人から全く興味のないものを勧められたときは、そのオススメを受ける理由が全くないので、人間関係に支障のない程度に愛想を振りまきながらスルーする。
某ネット販売サイトで「おすすめ商品」にしょーもないものが出てきたときは慈悲などない。ばっさり切り捨てる。

誰かから何かを勧められるとき、それを受けるかどうかの判断はとてもシンプルだ。
私が好きかどうか、私に必要かどうか。
好きならありがたくそのおすすめに飛びつくし、必要でなさそうならスルーする。

それなら、好き/どうでもいい 必要/不要 の判断はどうしているのだろうかと考えてみたが、これがなかなか難しいのかもしれない。

時期によるのかもしれない。
例えば、長崎への旅行を計画しているとき、長崎の観光マップは必須なので某ネット販売サイトでわざわざるるぶを取り寄せたりするわけだが、長崎旅行が終わってしまえばそのるるぶはただの紙くずになってしまう。

YouTubeで音楽を聴いているとき、横にでてくるおすすめ動画を見るか見ないかは、その時にその動画を再生したいかしたくないかという気分にかなり左右される。
で、その気分がどう形成されるかというと、その日の体調とかそういうものにもよるし、その頃の関心にもよる。
今だったらウクライナのポップスをひたすら聴いているが、半年前の私にそれを聴かせたところで何の意味もないだろう。

「誰かからのオススメ」という形で、私たちは大量の情報を受け取っている。
その情報を生かすか生かさないかはその人次第であり、その人が今置かれている状況や元々持っている嗜好・関心によってその情報の扱われ方が決まってくる。

だから、逆に私たちが他人に何かを勧めようとするとき、その勧めを受けてもらえなかったとしても、その人にとって良いタイミングではなかったというだけかもしれない。
自分が一生懸命勧めたものをスルーされても、強く生きていこう。

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LNGサイダーを飲むと… / 著者:LNGサイダー - ch3

皆さんはじめまして,LNGサイダーと申します.
ちくわくんが面白いことをやっていたので彼に頼んで参加させていただきました.(ありがとう!)
さてテーマについて書き下していこうと思います.書き下している時に何かが降ってくれればいいなと思ったり…

皆さんはLNGって知っていますか?環境やエネルギー関連の記事などでよく見かけますので,知っている方は多いと思われます.
正解は「Liquefied Natural Gas」です.直訳すると液化された天然のガス,つまり液化天然ガスです.燃焼時の二酸化炭素排出量が石油や石炭より少ないとか硫黄酸化物や煤塵の排出が殆ど無いクリーンなエネルギーって言われますね.(LNGはCH4が主成分で,石油にもCH4はありますが,炭素原子の多い分子構造の炭化水素も含まれているので全部燃やしたら,二酸化炭素はLNGのほうが少なくなるということですね.石炭は炭素ばっかりなので言わずもがなですね.ふう,なんでこんな説明しているのだ…しかも内容薄いし,各々に含まれている成分が占めている割合も載せればよかったかもしれない。)また,天然ガスを-162度まで冷却するとLNGになります.なので,LNGはすごく冷たいのですね~.

そして,サイダーは皆さんも飲んだことあるでしょう?あのサイダーです.三○矢サイダー美味しいですよね.あの透き通った液体爽やかな果実から作った香り飲んだ時に駆け抜ける泡の心地よさ.この世でトップレベルに好きな飲み物です.

さて,ここで「サイダー」と「LNG」を組み合わせたら…?各々の特徴をいいとこ取りすれば最高の飲み物ができると思いませんでしょうか.以下に組み合わすべき特徴を整理してみましょう.

LNG サイダー
1. 極低温-162℃
(とっても冷たい)
1. とても美味しい
(よね!?)
2. 粘度が水よりも低い
(水よりサラサラしている,値にすると一桁小さい)
2. 透明
(無垢を具現化した様)
3. エネルギー
(あやかれば元気をもらえそうですよね)
3. のどを駆け抜ける泡
(全身に染み渡り定着する感じ)

表 LNGとサイダーの良い特徴

こんなもんでしょうか.とっても冷たく,粘度が低いので喉越しが良く,一瞬で全身に澄み渡り,エネルギーが補給される.そして無垢,透徹,清澄,明瞭が具現化されたような透明の液体.決して人間は口を触れることも許されない,でも人間を魅了する液体.「狐と葡萄」という話がイソップ寓話にあり,結果的には狐が防衛機制と合理化を機能させ葡萄を諦める.しかし,それは防衛機制と合理化の機能すら停止させる.諦めることを諦めざるを得ない.口に触れた事すら無いのに惹きつけられる.他の飲み物を飲んでも,喉が渇く.湿っているのに精神的には乾いた喉.朦朧として,その名を口にしてしまう.求めるだけでは寄ってすら来ない絶対的な究極の法則のような存在…
そして,奇跡的にありつけた時,とてつもない大きさの潤いとカタルシスが肉体と精神を溺れさせる.物理的には喉を通過し,胃に注ぎ込まれる.しかし,精神的には身体に流動する液体全てがそれに置換される.そんな感覚が自分の意義,意識,存在,記憶,細胞を犯してくる,破壊してくる,原子レベルまで粉々にする,そしてそれら全てを再構築させ――ーー――ーー――ーー――ーー――ーー――ーー――ーー――ーー――ーー――ーー――ーー。

自分の頭の中で思考を巡らせるとこういった物なのかな?と思います.途中から宗教チックになったかもしれませんが,即興で書き下していてこうなりました.正直LNGサイダーはあまり考えず決めました.しかし,何か惹かれるものがある,発展性があると直感的に見込めたから決めたのかもしれません.そして,上記のようなことを述べたので,これは自分の本心かもしれませんね.なんだろう,A○KAみたいなりたいのだろうか.それとも神様にでもなりたいのだろうか.ははは.また,違うテーマで逢えたらよろしくお願い致しますね.全部,いや,少しだけでも読んで下さったとしても嬉しいです,ありがとうございました.

(編集責任ちくわ)

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選ばれる権利を持ちながら / 著者:らららぎ - ch13

ずっと疑問だったことがある。
ー 宝くじがギャンブルというのなら、破産する人がいないのはなぜだろうか

他のギャンブルでは、破産した話をよく耳にする。射倖の煽度が違うからだろうか。「今日の損失を取り戻す」ということが、宝くじにあるのだろうか。

その違いのひとつとして、参加の仕方があると思う。

競馬であれば、騎手や馬を選ぶ。(プロは蹄鉄師を選ぶ)。
パチンコであれば、釘を見抜いて台を選ぶ。(かなり運だが)
スロットであれば、目押しという選択技術がある。(かなり運だが)。

公営ギャンブルも、スポーツ賭博も、カジノ系も、基本的に「選ばせれる」のが基本姿勢である。つまり参加者は「選ぶことで勝つこと」を目指している。

宝くじの発祥は「みずほ銀行(日本勧業銀行)の特殊な債権」だったという。この債権を買っておくと、"還元金"の他に"割増金"という莫大な利子の抽選権利を手に入れることができ、そのシステムから「割増金」の部分だけが切り取られ、現在の「宝くじ」(債権を買うけど還元金は無く、その代わりに高額な割増金だけが当たるくじ)になったとされている。

なるほど、もともとは「違うものを買ったらラッキーで付いてくるもの」だったのだ。つまり、宝くじの本質は「選ばれるために何かを介しているということ」だと、ひとまず言えるだろう。

それが当時は「債権を買う」というものだったが、今では無くなってしまったために、なるほど「日頃の行い」(善行)とか、「見えない権力への忠誠」(風水)とか、何を介するかは自由になっているようである。そして、参加者にとって、何かを介さねば「選ばれる」ことはなく、宝くじよりも「介するもの(こと)」の方が大事になってくるといえる。

破産しないはずである。
そもそもこれをギャンブルと言うのだろうか。

宝くじは「介すること」を教えてくれる。きっと胴元が自治体ということも影響しているだろう。自治体は、確かにお金がほしいだろうが、それ以上に自治体の存在を知ってもらおうともしているよう感じる。「これは宝くじの収益によって~」という枕詞には、どこか自治体としてのプライドというか、我々は市政であり、我々は市民であるという共同体的な自尊心を感じる。

宝くじは、市政にとって誇らしい代表のようなものなのだ。

そして、宝くじは、「当選」を与えるものである。当選を与えられた人は、これより「当選者」となる。何者にもなれない「一箇の市民」というものが、日頃の行いや風水に従うことによって、つまり「善良な市民」になることによって、「当選者」という存在者になることを願う。それが宝くじの周辺にある「」である。

宝くじはすぐ買えるが、すぐには結果が分からない。その間に善きカルマを積むことができる。いつもより部屋をきれいにしてみたり、いつもより元気に挨拶してみたり。宝くじを所有しているというのは、「選ばれる権利を持ちながら生活する」というきわめて尊くて、きわめて貴重な時間を得ることだといえる。

あなたは、「選ばれる権利を持ちながら生活したこと」がどれだけあるだろうか。学校の生徒会選挙期間中か、内定待ちか、プロポーズを宙づりにされているか。基本的には不吉でうしろめたくて自信のない「待機」しかしたことがないのではないだろうか。しかし、宝くじはポジティブである。待機している期間中でさえ、善行を積むことができる。(積んだところで当たらないという退屈な確率主義は勘弁してください)。

確率主義も、科学主義も、「自分の外部にある強い影響力」を信じない。「ツキ」とか、「運勢」とか、そういうものが本当に無いと言えるだろうか。ギャンブルの本質というのは、そういう「外部の得体の知れないやつの影響を意識すること」である。そうすることによって、人は謙虚さも知る。

「必勝法」などに頼ろうとする確率主義が、どんどんと横暴になっていくだけの話であって、ギャンブルをギャンブルする人は「運あるいはツキ」の前で謙虚になる。宝くじは、そういう要素が非常に強い。確率的にはふざけているし、自治体に持って行かれる取り分も暴利と呼べる。だけどみんが「宝」と呼んでやまず、それを富の象徴としようと必死になるのは、「お金」や「確率」では計れない<何か>がそこにあるからではないだろうか。そういう疑問を提示して、終わりにしたい。

ありがとうございました。おわる。

しーゆーれーらー

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クローズドから、オープンへ。 / 著者:こはく - ch7

10代の頃、僕は人と話すことを極端に嫌っていました。
小学生の頃はそこまででもなかった、むしろ積極的に誰かと関係しようとしていたはずなのですが、人見知りということもあってか中学校、高専と進むにつれてなかなか人と接することが億劫になってきました。
学校内の関係、もっというとクラス内の関係だけで全てを完結させようとしていた感がありました。
その理由は今思い返して出してみると非常にシンプルで、
「誰かと話してる暇があるならそれをゲームと音楽につぎ込む」
というものでした。
僕の学生生活の大半はゲーム、高専に入ってからは音楽もそこに加わりました。
通学中は基本的にイヤホンを常時装着。
その頃の僕の関心事はもっぱら好きなバンドのドラムの耳コピでした。
「耳コピをするためにはありとあらゆる雑音を排除しなくちゃいけない、誰かに気を割いている余裕なんてないんだ!
という気持ちで僕は外界を遮断していたのです。

今振り返ると、僕のこの方針は明らかに間違っていました。
仮にアーティストを志すようになったとして(そんなつもりは昔も今も毛頭ないですが)、それで僕はアーティストになることができたでしょうか?
きっとできなかったと思います。
音楽家として成功するためには、『人に響くもの』を創る必要があります。
それなのに人と会話することを嫌う人、もっと言えば人の心を理解しようとしない人が人に響く音楽を創れるはずがないのです。
この「他者と接しないことが善だ」というのが、僕のメンタルブロックでした。
客観的に見て僕は明らかな精神的引きこもりでした。
とても閉鎖的な、閉じた世界に住んでいたと思います。
すごく勿体ないことをしていました。

もちろん。
僕に限らず、人は本質的には人との会話は苦手な部分や嫌いな部分があるはずです。
究極的には自分ではないもの、異物と接しているわけですから、そこにはある種の恐怖があります。
でも、だからこそ、それによって自分の世界を広げることができる。
自分を自分ではない誰かと比較することによって、始めて自分というものが明確に理解できる。
そしてその結果としてアーティストであれば人に響く音楽を生み出すことができる。
でも、当時の僕はそれに気づけませんでした。
人と関わることは社会で生きるための必要条件だ、ということに気づくことができませんでした。
自分の中の心地のよいぬるま湯的な世界に浸っていることが、日々を楽しく過ごすことだと信じていました。
僕は僕を愛するあまり僕の人生を置き去りにしていました。

今はこの壁を乗り越え、積極的に人と話すことができるようになりました。
いや、正直に言うと今でも苦手な部分は多少あります。
でもなるべく、できるだけ、話をする努力できるようになれたことはひとつの事実です。
個人という閉鎖的世界ではなく、人と人が関わりあう世界に僕は住処を移すことができました。

こはく

PS.

この度僕はこのメンタルブロックをまたひとつ乗り越えることにしました。
このブログの創設者のおひとりであるらららぎさんの誕生日会に明日から行ってきます。
僕の記憶を探る限りですが、僕は友達のお家に「お泊り」したことがありません(!)
親戚の家や旅館、ホテルは何度も泊まりましたが、らららぎさんのようないわゆる横のつながりの方のお家で宿泊することは初めてです。
おそらく今までの僕の中には「人の家に泊まったら迷惑がかかるから絶対ダメだ」というメンタルブロックがあったのでしょう。
でも、それでもいいじゃない、今まで周りの人には散々迷惑をかけてきたし、これからも迷惑になるんだから、って今は思えるのです、そしてその思いを確信するために誕生日を祝いに、お泊りをしに行ってきます。
メンタルブロックに、思い出を詰め込んできますね。

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なにそれこわい宝くじ / 著者:ちくわ - ch13

ぼくは「宝くじが怖い」
そして、それゆえに、(そうでないと思いたいけれどやはり)自分はお金というものに価値をおきながら生きているのだなぁ、と気づかされてしまう
……ざっくり言うと、こんなお話を今日は書いていきます。ちくわです。

まず、ぼくは宝くじを買ったことがない。まぁ、宝くじを買わないことは社会的にも別に問題のあることではないので、こんなお題にでもならない限り普段は忘れているようなことだよね。もちろん、買わなくても、宝くじを買う自分を想像してみることはときどきある。そうするとたいてい、はっきりした感覚ではないのだけれど、なんだか怖い、という感覚にもわっと包まれる。何が怖いのか。お金をつぎこむこと、宝くじが外れること、それは別に良い。宝くじに当たってしまうことが怖いのである。

何を言ってるんだこいつは、な話ではある。だいたい、宝くじなんてまず当たらない。それはそう。確率の話は誰かが書いてくれるかもしれない(丸投げ)。で、まぁ、それはそうなんだけれども、それはそうとして、一億円とか三億円とか当たったときのことを想像してみると、とても怖いのだ。おそろしい。ぽんっとそんなお金が手に入ってしまったらぼくが直面している問題の半分くらいは解消されるだろう。それが怖い。今までちょこまかちょこまかとやってきたことが全て吹っ飛んでしまう……ような気がしないだろうか。ぼくが悩んでいたことはなんだったのか、来週の食費とか綿密に計算しながら生きていたりしたぼくはどうなるんだ、金銭的な理由から見切りをつけようとしていたあれこれはどうすればいいのか、すべて考え直しというか、考えることが馬鹿らしくなる次元に飛ばされてしまいそうである。不謹慎な喩えで申し訳ないけれど、大災害が起きてふだんあった生活そのものが消えてしまう事態に近いものをぼくはそこに感じるのだ。

加えて、ここからは自分でもきちんと説明できない話になるのだけれど、ぼくは「暴力的な甘やかし」というものに恐怖を感じるのである、昔から。これは何故と言われても、ほとんど反射的に、としか言えなくて、もし近い感覚をお持ちの方がいればぜひ言語化してほしいし、逆に意味わかんねぇよって人は無視してもらっても構わないかなーみたいなそういうやつ。暴力的な甘やかし、例えば、頭の中で「さぁあなたはここでなにしてもいいわよーなにたべてもいいわよーめんどうなことはなにもしなくていいのよーうふふ」みたいな状況におかれることを考えると、理屈で考える前に気持ち悪いと思ってしまうのである。(理屈で考える段階になると、そういう状況うらやま!!素晴らしい!!とか言うと思うけれど) なんなのだろう、これは。宝くじにあたった状況というのは必ずしもこういうものと同じ状況ではないと思うけれど、まぁ、このよくわからない感覚も宝くじへのもやもやを増幅させているのは確かである。

ところで、宝くじが当たることが怖いというのは、一見、お金にこだわりがない人の発言のように見えるかもしれないけれど、ぼくは逆だと思う。むしろこれは、ぼくが金銭という価値基準にこだわっている証拠なのだ。多少語弊はありそうだけれど、ぼくがぞわぞわしているのは、価値観を変えることを余儀なくされる異常事態に対してだ ― とまぁ言って良いだろう。そして、「3億円が当たったことによって変えなければならない価値観」というのは、当然、金銭に関するものだけなのである。ということは、これまで「自分の行動を決める重要な基準として、金銭という要素を使う」ことを繰り返してこなかった人であれば、その部分にどんな大変化がおきたところで、今まで通りに暮らしていけるだろう。ところがたぶん、今のぼくは、そうではない。いやだいやだと言いながら、貨幣に価値をおきながら生きている。貨幣にしばられているのだ。つらい。どうしようもないけれど、自覚くらいはしておきたい。

そんなわけで、宝くじが怖い。怖いということは、ぼくはお金に価値をおいて生きている。その価値が転覆するのが怖い。資本主義から逃げられない。いや、本当は多少逃げる方法があるということも様々な例で知っているのだけれど、逃げていない。たぶんこの価値観によって何かしらの恩恵も受けていて、そのぬるま湯に浸かる方を結局は選んでここにいるのだと思う。宝くじに当たってのんびり暮らしたいですかと聞かれれば、まったくその通り、ぜひとも当たりくじを買ってぼくにプレゼントしてくれよぉと答えるけれど、同時になんだか心がざわっとしてしまう。その心のざわっこそが、ぼくが「気にしてないっすよ~www」と笑っていることを本当はめっちゃ気にしてるということの裏返しなんだと思う。みたいな話。

……まぁ、でも、何億も当たったらとりあえず最高だろうなぁ。
おわり。ちくわでした。

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chiasma 13:「宝くじについて思うこと」

chiasma 13:「宝くじについて思うこと」
・「なにそれこわい宝くじ」(ちくわ)
・「選ばれる権利を持ちながら」(らららぎ)
・「宝くじは夢を捨てるものである」(こはく)
・「未成年には分からなかった」(公民たん)

未執筆
(めがね、イミ、黒崎咲夜、かなぽん、ねぎとろ、くびなが、水無月 紫苑、ドーナツ、菖蒲、ネコ、大人たん、ゆうちゃん、むいこ、あめ子、しゅくる、西洋中世史たん)

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デモに行けなかった話 / 著者:らららぎ - ch7

私の姉はモデルをやっており、かつてもいまもダイエットをしている。痩せたり痩せなかったりを繰り返しては、その数値に一喜一憂を任せ、慎重に次の目標点を掲載していた。私はそれを横目に見ながら、なんてくだらないことをしているんだろうという気持ちを込めて、冷ややかな眼差しを視線のうえに付けて送っていただろう。

私のような馬鹿者は、すぐに合理的な「意味」というものを考えてしまうのだ。

本気で跪いて天に祈る教徒、あの光景を吉祥寺の教会で始めてみたとき、たぶん私は冷たい目をしていたに違いない。なぜ目を冷やしたのかと言えば、彼を馬鹿にすることで「怖い」という感情から逃げ出したかったからだったと思う。なぜなら、分からないからだ。意味が、理由が、全てが。全身全霊で天に向けて手を合わせ、震えながら祈りを届けようとしている「意味不明さ」に、私は即座に敗退したのだった。「そんなことをしたって、意味ないじゃないか」とか、「そんなことするぐらいなら真面目に努力しろ」とか、合理を装って頭の悪いことをつぶやいていただろう。

柄でもない進学校というものに、私は、成り行きで合格してしまった(高校なんて行きたくなかったけれど、マザコンだった私は、母の勧める高校に、母の勧めるやり方で合格してしまった)ことがある。そこでは学歴の良い教師たちが、教科用図書を使って科学的なことを科学的な方法で教えてくれる。低い点をとるということは、『理由が分かっていない』とか『意味が分かっていない』と科学的に思い込まれ、さらに科学的な指導を科学的にしていただくことができた。親は科学的に大満足の様子だった。

そうして、一箇の馬鹿者が生まれたのだった

あらゆることに「意味」や「理由」があると思い込み、それが祟って「宗教家のひとつひとつの行動にも意味や理由があるはずだ」と思い込み、それが全く分からないことに怯えたし、見下しもしただろう。ひいては「宗教」という抽象的な概念にまで「意味」を求めはじめ、散々宗教というものを馬鹿にしながら、散々宗教というものを勉強した。

かつての私とは正反対の人間として、チャーチル・ダーウィンというロールモデルを紹介したい。「弱肉強食と進化論だろ、知ってるよそんなやつ、古い古い」で知ったかぶらず、注意深く彼の著作を読んでほしい。

ダーウィンは、かつてアリストテレスがしたように、ミミズ(Earth Worm)の研究をした。ダーウィンは「動物の動きを機械(プログラム)と同じようにとらえること」を嫌った。ミミズの生態を何年も何十年もかけて観察することによって、ミミズには「概念」を生み出す力があることを証明する。「こうなったら、こうする」という反射的でプログラミング的な動きではなく、「え~っと、これはこのパターンだから、こうした方がより善いな」と考えて行動できるのだ。下等生物と呼ばれるものも、単に本能で反射だけしているだけではなく、パターンの分類を思考することができていたと発表した。

ダーウィンの行動を支えていた考えは、最初から最後まで、「進化や変化というものには、何の目的もなければ、何の方向もない」という鋭い観察眼から導き出されたものだった。たとえば、ミミズは世界中で土を耕しているけれど、それは「地球のため」だとか、「土のため」だとか、「作物のため」だとか、そういうものは全く無いということだ。

驚いただろうか、私は最初驚いた。目的や方向、意味や理由というものがあると思っていた。科学が発達したおかげで、私は「ひとつひとつに意味を求めてしまう病」に罹ってしまったのだろう。

そして、また、今日も「意味」を問うてしまった。
― 「デモに行く意味なんてあるのか

メンタルブロックを無視して冷静に考えればあるし、<自分の意志ある行為>に意味を持たせるのは自分である。私には「自分よりも若い世代を守りたい」という気持ちが足りなかった。むしろ守って欲しいなどと甘えている節がある。つい数年前まで母親に進学校へと通わせてもらっていた私にとって「してもらう」ことがメインであって、なぜ自分がまだ産んでもいないガキのために身を差し出さねばならないのだ」、と、意味や理由を訊いてしまったのだ

メンタルブロックは恐ろしい。
プライドが高いと、都合のよい問いばかり優先させる

問うべきは理由でも意味でもなく、「私がここまで平和に生きてこれたのは、何に支えられていたからなのか」であった。67年ものあいだ守られてきた平和憲法が、国民投票をまんまとすっぽかして閣議決定されるというのに、私は何をしていたのだろうか。自身の不明を恥じるばかりだ。

 デモは、体制が維持している秩序の外部にほんの少しだけ触れてしまっていると言ってもよいだろう。というか、そうした外部があるということをデモはどうしようもなく見せつける。だからこそ、むしろデモの権利が認められているのである。デモの権利とは、体制の側が何とかしてデモなるものを秩序の中に組み込んでおこうと思って神経質になりながら認めている権利である。「デモの権利を認めてやるよ」と言っている体制の顔は少々引きつっていて、実は、脇に汗をかいている。
 …デモとは何か。それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。だから、デモに参加する人が高い意識を持っている必要などない。ホットドッグやサンドイッチを食べながら、お喋りしながら、単に歩けばいい。民主主義をきちんと機能させるとかそんなことも考えなくていい。お祭り騒ぎでいい。友達に誘われたからでいい。そうやってなんとなく集まって人が歩いているのがデモである。
 …デモのテーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないなどと主張する人はデモの本質を見誤っている。もちろん、デモにはテーマがあるから当然メッセージをもっている(戦争反対、脱原発…)。しかし、デモの本質はむしろ、その存在がメッセージになるという事実、いわば、そのメタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることこそが重要なのだ。
(國分功一郎「パリのデモから考える」より)

結局、まず自分がデモをやるほかないんですよ。なぜデモをやらないのかというような「評論」を言ってたってしょうがない。それでは、いつまで経っても、デモがはじまらない。デモが起こったことがニュースになること自体、おかしいと思う。だけど、それをおかしいというためには、現に自分がデモに行くしかない、と思った。…昔、哲学者の久野収がこういうことを言っていました。民主主義は代表制(議会)だけでは機能しない。デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。デモなんて、コミュニケーションの媒体が未発達の段階のものだと言う人がいます。インターネットによるインターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。インターネット上の議論が世の中を動かす、政治を変える、とか言う。しかし、僕はそう思わない。そこでは、ひとりひとりの個人が見えない。各人は、テレビの視聴率と同じような統計的な存在でしかない。各人はけっして主権者になれないのです
(柄谷行人「反原発デモが日本を変える」より)

代表制は、たとえそれが効果的な代表であっても、民主主義を強化するのではなく民主主義を妨げるものであるということを2011年(から)の運動の非常に多くははっきりと認識していた。だからこそ、2011年(から)の運動は、代表制の政治構造と政治形態に対して批判を向けているのだ。民主主義の(未完の)プロジェクトはどこへ言ってしまったのか?私たちはどのようにすれば、民主主義のプロジェクトにふたたび取り組むことができるのだろうか?市民=労働者の政治権力を取り戻す(いや、実際には、はじめて実現する)ということはいったい何を意味するのか?2011年の運動が教える一つの経路は、この章で私たちが概観してきたような、貧困化され、脱政治化された主体=従属者(であること)に反逆し、叛乱を起こすことである。民主主義を実現=現実化することができるのは、この点をしっかり把握し、演じることができる主体が登場したときだけだ。
(ネグリ・ハート「declaration」、tes​sai​-ek​ai訳:より)

代議制民主主義の限界は、とっくの昔から語られている。上に挙げた3つの思想家の考えは、どれもまだ、代議制を前提から問い直すものではない。だから哲学としては不十分だが、それでも「いま当たり前のこと」としては大事なことが書いてあるとも言える。

そして私は、「いま当たり前のこと」さえもできていない。「いま当たり前のこと」さえ欠けている私が、外から冷たい視線を送っている。そんな誕生日前夜のデモとなった。これでいいのだろうか、深く問わざるを得ないと感じている。

こんな邪魔なメンタルブロックがなければ、私だって、演説をしたあとに新宿の連絡口で焼身自殺を図るだろう。「代議制は限界だ」という昔から語られてきたことを、その記憶が失われている人々のために、いま当たり前のこととして語りたいと思う。だから、焼身自殺の彼は、私がやりたくてもできないことをやってのけたし、「いま当たり前のこと」を知っていたのだろう。

「意味なんてない」とか、「子供っぽい」とか、科学的な人は、科学的に冷たい視線を送るだろうが、私は、今日をもって23歳になったので、そういう科学が寄越してくる「意味」というメンタルブロックを乗り越えると宣言する

2014年7月1日、らららぎ、決意をここに記す。

ありがとうございました。おわる。

しーゆーれーらー




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