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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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自己欺瞞そんなに悪い事かね/著者:めがね -ch32

「”嘘”は嫌いかね?私は嫌いでね。よく”嘘”をつく生徒を怒った事がある。」
「”嘘”をついてまで生きて何の価値があるのかと。そうしたら彼女はこう答えた。」
「”嘘”は自分についている本当の自分はとても卑怯で臆病だから人に見せられないと。」
「だが、その”嘘”のおかげで周りは笑ってくれてそして幸せになる。そんな嘘もあるんですよ…と。」
『そしてね先生!”嘘”が”真実”になる瞬間があるんだよ!』
(マジェスティックプリンス第3巻ep13)

はい。どうもお久しぶりです。めがねです。
もうね。彼此何ンヶ月ですか。更新止まってますね。忙しいですね。忙しいですよ。
皆さんもお忙しいでしょう。残念ながら、皆さんのお忙しさは僕には全くわからないですし、気持ちをお察しすることも叶いません。そんなの個人のアレなので。

GWも終って鬱々悶々としている方もいらっしゃるでしょう。
ここでね。一回気持ちを切り替える的な事を踏まえて、一本書こうと重い腰を上げた次第ですよ。

”嘘”は一般的に悪い事とされています。まぁ「オレオレ詐欺」だとか最近(少し前)聞いたのは「マイナンバー詐欺」ですか。まぁ大体が刑務所にブチ込まれるような悪い事です。

しかし上で挙げたような”嘘”は果たして悪いことでしょうか。僕個人としては悪い事とは思いません。基本的には僕は”嘘”があまり好きではないです。
しかし、ながら人間というのは一人では生きていけません。生きている以上何かのコミュニティに属さないと天才でなくては生きていけないでしょう。否。天才であっても評価する他者がいなければ生きていけません。著名な芸術家の幾人かは生前は評価されず、没後その作品を評価された話を聞くように天才がそうならば凡人の僕たちは、なおの事そうでしょう。
日本ではよっぽどの理由が無い限り、否応なしに義務教育という名のコミュニティに問答無用でぶち込まれます。
たしか、いつかのブログでイジメに等しい”弄り”と称される行為を僕が受けていた事を書いた覚えがあります。
そう。丁度この時期僕は僕自身に”嘘”をつきました。
『僕は一人でも生きていける強い人間である。こんな徒党を組まないと何も出来ない単細胞のゴミ共とは違う』と。
本当は人と触れ合う事、話し合う事はとても良い事なのだけれども、この時期僕は頑なに心を閉ざしました。そうでもしないと本当に辛くて惨めで情けなくて、あのままでは生きていけなかったから。
その経験があってか、どうにかこうにか今も生きていて、精神的に他人に依存することなく敵を作りまくっても平気でヘラヘラのうのうとズケズケとものを言い生きていく今の人格が形成されました。あの日の”嘘”が”真実”になった訳です。めでたしめでたし。

動物でも植物でも昆虫でさえ生きる為に擬態なんかで”嘘”をつくのだから人間が自分、他人を守る為に"嘘"をつくのは必然ではなかろうか。
友人の好きな女の子に告白され、自分も好きだったが友人の方が大事なので断った。
彼氏(彼女)の浮気を知ってしまったが知らないふりをした。別にいいじゃないか。
相手が格上のチームだと知っていても”俺たちのほうが強い”と鼓舞をする。大いに結構。

自分を鼓舞する為の”嘘”であったり、誰かを気遣ってつく”嘘”であったり、生きるために自分に”嘘”をつく。

最終的にその”嘘”が”真実”にさえなれば何の問題もない。
ただその”嘘”が誰かを傷つける”嘘”であれば直ちに止めたほうがいい。
その誰かが「自分自身」なら尚の事である。
”嘘”をつくなら他人も自分も幸せになるようなものにしよう。そうしよう。

おあとがよろしくなくても終わる。
終わるったら終わる。





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あなたはそこにいますか? / 著者:めがね - ch23

『あ・な・た・は・そ・こ・に・い・ま・す・か?』『見りゃあわかんだろぉおおおお』
『来い!俺が!二代目ゴーバインだあああ!』
(蒼穹のファフナーEXODUS 第九話 「英雄二人」より)

ええ。好きなんですよ。このアニメ。
ロボットものでSFでってのも極まってそれはもう滅茶苦茶に。
まぁ僕の好みの話なんてのはどうでもよくって誰しもが思春期に通るであろう、
「自分は本当に世の中に必要なのか」「恋人にとっての私は元カノ(またはカレ)の代替でしかないのだろうか」「誰でも良いなら自分でもいいじゃないか」「自分はシステムを維持するだけの歯車の一部でしかない」だとか陰惨を極めた精神状態に陥った事はあるだろう。勿論自分にも身に覚えがあるし、今現在も少なくなったとは言えどうしょうもない焦燥感に襲われることはたまにある。
今の社会が若者達にとって夢も希望も持ちづらい世の中だってのは中高生だって知っている公然の秘密であるし、「若者の○○離れ」だと「ゆとり世代」「さとり世代」だとか言う訳のわからない言葉がメディアで報道されている。「希望を持ちなさい」と煽るわりにはその実「私たちの時代は…」の常套句で叱責してくる、そもそも「希望」「存在意義」ってのが持てなくなった社会を作り上げたのはほかならぬ、あなたたち上の世代なのだけれどもと常々思う。
そんな物を丸投げされた世代ってはたまったもんじゃない。
毎度毎度話が横道に逸れるけれどもまぁいつもの事なので気にしないでいただきたい。
では本題。

・「痛み」によって「存在」が成り立っている
僕たちは生きている。もちろんそんな事は誰に言われなくても当たり前で、誰でも知っていると思う。生きていると様々な「痛み」というやつに苛まされる。例えば、バランスを崩して自転車から落ちただとか、喧嘩をして殴られただとか、寒すぎて手がかじかむだとか。
例えたのは物理的なものだけれども「痛み」を感じるのは何も肉体ばかりではない。
精神的にも「痛み」というのは感じるもので人間の場合むしろこっちの方が多い気がする。
友達は自転車に乗れるのになんで自分は乗れないんだという「劣等感」からの「痛み」、友達と喧嘩した時に後から少し言いすぎたかなと感じる「罪悪感」からの「痛み」。
この「痛み」というのは生きている限り誰しも逃れられないし、誰かに「引き受けてもらう事が出来ない」代替が効かない訳だ。(たまに出来る人もいる)
「痛み」っていう概念を幼い頃におぼろげながら学習した僕たちは次第に「痛み」そのものに恐怖を覚えるようになる。そんなのは当たり前の事で、転んだら傷口から血が吹き出るし痛い、人とは違う行動を取れば訝しげな目で見られると視線が痛い。周りの言動に合わないとおかしいなどと叱責の言葉が飛んでくる。物理的にも精神的にも痛いのなんか誰だって嫌だしそれから逃れるのなんてごく自然な事で別段おかしいとは思わない。
だけれども困った事に、変じゃないように変じゃないように。皆と同じ様に皆と同じようにというこの精神的な「痛み」から逃れよう逃れようとする行為こそが「自分の代替が可能なのでは無いか。」という疑念に駆られる本質的な原因になっていくのでは無いかと僕は考えた。
だってそこに「痛み」なんかなくて、いたって平和で健全で皆、慈愛に満ちている。
僕はそんなの御免こうむる。ひたすらに退屈だ。
この「焦燥感」も「劣等感」も全てひっくるめて僕であり、生きてきて受けた「痛み」によって存在する喜びと苦悩、「痛み」がなくなり存在がなくなる事への恐怖が僕そのものだ。
これは誰にも代替え出来ないし、誰にも共感されたくない。全部自分のものだ。


・他人のリソースに成り果てていないか
リソース(resource)とは、資源の意味の英単語で目的を達成する為に役立つ、または必要な
要素の事だそうだ。
「お前の代わりなどいくらでもいる」などという発言をする人間がたまにいる。これは、相手を「個体」ではなく「資源」として見ているから発する事が出来る発言だと考える。
人の存在を否定する、尊厳を踏みにじる場合に非常に効果的でかつ攻撃力が高く発言した相手をリソースだと認識させるには十二分過ぎる威力を持っている。
もちろん文面通り自分より優秀な人材は、探せば星の数ほどいるしその通りだと僕も思う。
しかしながら、その人材がその言葉を発した人間を「選ぶ」かどうかなんて考えてもみないだろう。ましてや自分が「選ばれる側」の人間だなんて微塵も思っていないのが非常に滑稽だ。
人という「個体」は時間という概念を経て成長する。昔、嫌いだった食べ物が食べられるようになると言う話は良くある話で、もしかしたら今出来ない事が急激に出来るようになるかもしれないし、今は嫌いな所が好きになるかもしれない。
人を「資源」として見ている場合にはこの「個体」は成長するという概念を持っていないので、
相手を蔑ろにするような行動や発言をしてしまう。
逆に自分を「個体」ではなく「資源」だと認識してしまった場合には自分を低く見積もって「どうせ僕(私)なんていなくても同じ」だとか「○○の替りでしかない」などネガティブなリソース意識を持ってしまいがちだ。
やめてしまえそんなもの。意味がない堂々巡りだ。
「選ばれなかった」なら「選び」に行けばいいのだ。無限とは言わないけれども2・3本くらいは選択肢はあるだろう。

絶望なんてのは探せばそこらじゅうに転がってるし、僕もしょっちゅう絶望する。
「痛み」を受け入れろなんて偉そうな事は言わないし言えない。時々、見なかった事にする事もある。でも「痛み」によって蓄積された傷は一生残るし無かった事になんて決して出来ない。
時には膝を折ったって良いと思う。
それでもやっぱり最後に立って「あぁ僕は確かにここに存在していた」って言えたり、何か残せたり出来たら「資源」としての僕じゃなくて僕という「個体」がここにいたと言うのを残せたら最高だなと思う。

なんか青臭い事を言うようだけれども青臭い事が言えないクリエイターなんて全然おもんないし魅力もなくないから、出来ればコレは無くさないでいたい。

終わる。

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7:3の割合なのに”地球”って変じゃね? / 著者:めがね - ch28

『もうすぐですよ。海峡の幅はほんの20スタディアです。”地球”の大きさからしたらほんのわずかだ。』『”地球”……”地球”か!うまい言い方だな。これからはそう呼ぼう。』『おっ採用ですか?やった!』
(アフタヌーンKC 岩明均「ヒストリエ第一巻」より)

今日は髪を切りに行くが僕は阿呆なので一番早い時間帯でお願いします。などと言って10時とかまったくもって意味のわからない時間帯に予約を取ってしまった。時間が結構あるしせっかくなのでさくさくっとブログを書く事にしたので、時間がある時にこれを読んで頂くと大変嬉しい。

さてさて僕は漫画が大好きなので前項で例に出したのは今、話題の「寄生獣」で有名な漫画家さん岩明均さんの「ヒストリエ」と言う漫画の一幕である。ついでなのでざっくり説明すると紀元前のお話でマケドニア王国のアレクサンドロス大王に仕えた『カルディアのエウメネス』という書記官のお話。史実にはカルディア出身であること以外は記録がなく不明なので創作だそうだが、物語の切り口や、物語に登場する道具の使い方がかなり面白いので興味がある方は一読してみると良いかもしれない。

話が横道に逸れたけれども僕らが住んでいる”地球”という惑星はどうも”29.2%”と70.8%と約7:3の割合で出来ているらしい。お察しのとおり7割が”海”と呼ばれる部分で残りの3割が”地”と呼ばれる部分だ。潮の満ち引き、干潟なんかの関係で厳密な数値を出すのにも限界があるそうだがざっくりこんな感じだ。理科年表にはもっと詳しく載っているらしい。
今まで何の疑問も抱かず”地球”なんて呼んで来たけれども”海”と呼ばれる部分の方が圧倒的に多いのに少ない割合の部分の名詞を”地球”なんて僕たちは当たり前に呼んでいる。はて?
それと言うのはやはり僕ら人類が”地”という部分にしか住めない事に依存しているのでは無いかと考えた。”海”と呼ばれる部分では特殊な装備が無ければ呼吸することも出来ない。ずっと”海”にいればいろんな意味でむしろ死ぬ。

じゃあ、仮に”海”に住む機構が人類についていたらなんと呼んだだろうか。
妄想してみた結果、『廻』『深』『永』だとか言う単語が出てきたので『深永廻』なんてどうだろう。
なんせ”海”は”地”と違って終わりが見えない。ひょっとして廻り終わっているかもしれないけれども多分気がつかないからこの空間は永遠に続くのだろうとか思いそうだ。実際には有限なのに無限に感じるようなところなんかはかなりエッシャーっぽい。

そういえばPAWORKSの製作したアニメに『かつて全ての人類が海の中で普通に呼吸し、生活を営んでいた世界があって、ある時を境として陸に上がって生きる人たちも現れ、やがて人の世界は海と陸に分かたれた。』今でも海で暮らす人々と、陸に上がって暮らし始めた人々の確執と共存の仕方なんてのをテーマにした『凪のあすから』と言うものある。
想像することしか出来ないの世界感ではあるけれども暮らす世界が”海”だと前後、左右だけでなく上下という概念もあるのでスポーツなんかも、もっと立体的な競技になっていたかもしれない動線だってかなり自由かつ複雑になってそれはそれで楽しそうだ。

人類ってのは頭が良すぎるから自分本位で名前や事柄を決定してしまうので水中で暮らす機構が備わっていたら”海”も”地”もなかったかもしれない。
ただ空が見えないのは辛い。

お後がよろしいようで。


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鰯は僕らより遥かに死の端に近い / 著者:めがね - ch18

どうもめがねです。

事の発端は今日。そう、まさに建国記念の日で世の中が祝日で浮かれきっているこの日。
新宿で外国人がPVの撮影なんかをしていたり、ミスタードーナツでカップルが100円セールだと言ってこれみよがしにドーナツを食っている最中僕は衝撃的な事実を耳にしたのだ。

友『鰯って鱗取れただけで死ぬらしいですよ。』
僕『え?マジで?くっそ雑魚いじゃん。』

そう読んで字の如し「魚偏」に「弱い」と書いて「鰯」(イワシ)。

彼らは鱗が取れると体温調節が出来なくなって死ぬのだ。Oh…。なんてこったい。
それなのに彼らは鱗と鱗が接触しない絶妙な空間把握能力で群れを成して泳ぎ、朝鮮人民共和国の軍隊も顔面蒼白にして逃げ出すような一糸乱れぬ勢いで方向転換をする。驚くべき集団である。
よく『マイノリティは叩かれる』だのなんだのと人間はいうけれども、鰯にとってのマイノリティ、つまり『集団の輪を乱すものの存在』=『集団の魚の死』なのだ。
だって鱗無くなったら死ぬんだもの。辛い。なんて辛いんだ鰯の世界。常にギリギリじゃないか。
彼らにはひょっとして統率者がいるのだろうか、あの集団を一糸乱れぬ動きを一括管理できるカリスマ鰯がいるのだろうか。もしくは鰯の脳は実は攻殻機動隊のタチコマの様に情報の並列化が行われているのだろうか。そんな事を考えると夜も寝られない。(寝るけど)
もし一匹の鰯が死んだら喧嘩とか罪の擦り付け合いなどが起こるのだろうか。

鰯A『おい鰯Xが死んだぞ!!誰だ今Xに当たったヤツ!!規律をみだしたのは貴様か鰯B!!』
鰯B『俺じゃねぇ!!俺は悪くねぇ!!距離を詰めてきたのは鰯Cだ!!俺じゃねぇ!!』
鰯C『なんだとてめぇ!!鱗剥がすぞコラ!もとは言えば鰯Dが…』
鰯D『違げぇよ!!それを言うなら鰯Eてめぇコラ…』

以下略

醜い。実に醜い。こんな事だったらほんと醜いよ鰯。
それとも仲間の死すらがん無視の『てめぇの血は何色だ!?』みたいな殺伐とした雰囲気なのだろうか。うーん。謎は深まる。
鰯がいつも《死の端っこ》に居るなんて、人間で考えてる人なんてそう何人もいないだろう。
頑張れ鰯。負けるな鰯。そして人間が祝日で浮かれている今日も、集団で生きるという生存戦略を繰り広げているのだろう。

おわる。



PS.体温調節が出来ないと死ぬので人間の体温で触らても死ぬらしいですよ。うーん。ギリギリ。








(編集・校正責任:らららぎ)

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ヤンキーでもないしDQNでもないし怖い人でもない。 / 著者:めがね - ch17

こんにちわ。めがねです。一回書いてたのですがデータが飛んで書き直しました。書き直しついでに、今回の記事から「私」と言うのをやめて、一人称を「僕」に統一する。理由は至極簡単。なんかしっくり来ない。ただそれだけ。

それでは今回は『私がずっとしたかった言い訳』(chiasma17)でお送りします。

・口が悪い=怖い人っておかしくないか

「言葉はね、言い方や、言い回しじゃない。内容はちゃんと伝えないとね。それが、言葉の役目だから。」
「言い方が悪いからヘソを曲げたり、傷ついた、やる気が出なくなった、と主張する人がいる。しかし、そのせいばかりじゃない。それが通れば、言い方や言い回しがよければ、何でもゆるされるような感覚になってしまう。それじゃダメでしょう。言い方や言い回しにだまされる人がいる。」
――via『詩的私的ジャック』

僕を知ってる方は分かっているかと思うが、知らない方もいると思うので記事の最初にことわっておくと、僕は結構口が悪い。思ったことを直ぐ口に出してしまうし、おかしいと思ったら相手の気持ちなどお構いなしに速攻で批判を繰り出す。頻繁に『殴りたい』『ぶっ飛ばしたい』『〇回ぐらい〇んだほうが良い』など粗野な言葉を使う。粗野な言葉を使うとヤンキーとかDQNだとかその類に思われがちだが、断じて違う。育った環境と土地柄のためである――と声を大にして言いたい。

特に人を威嚇したい訳でも、否定がしたい訳でも、相手に畏怖を植え付けたい訳でもない。誰かにも言ったし何処かにも書いたが、意見に悪いも良いもない。『自分の意見に近いか否か』だけを言葉か文章かにしておきたい。

ハッキリ言って、印象は最悪である。

『顔も良くない』『性格も悪い』『空気も読まない』『おまけに頭も悪い』完全に満貫である。これは現実でもそうだしTwitter上でもブレることはない。一貫してこのような感じだ。

勿論、僕に鍵付き裏アカウントなど存在しないし、表面上仲良くするくらいならリムーブだってする。僕の発言で別に相手にブロックされようとリムーブされようと関係ない。他人から誤解されようが批判されようが、こちとら知ったこっちゃない。

だって「僕自身の評価と僕が創る作品とは何の因果関係もない」からだ。よく『この人はこんな綺麗な作品を作るのにこんな性格悪くて作品まで嫌いになった。』などと言う人を見かけるが、ハッキリ言っておく。


『阿呆か。』


終始こんな感じなので、勘の良い読者は気付いていると思う。

――僕は『友達』が少ない。
――そもそも『友達』ってなんだ。

適当に相手の機嫌を取ってヘラヘラニコニコしてれば『友達』だろうか。
その場の空気を読んで「私たちズッ友だよね」とか言ってれば『友達』だろうか。
月に何回か集まって「ウェーイお前ら最高ウェーイ」とでも言えば『友達』だろうか。

僕の中では断じて『否』だ。大事なのでもう一回言うが断じて『否』だ。

僕が思う『友達』というのは、時間も距離も空間も関係なく、そこに居ればいつでもどこでも本音で語り合える人のことで、一朝一夕、一期一会で獲得できるものではない。膨大な会話の擦り合せと相互の理解によって成り立つものだ。

あくまで自分と相手の立場は『対等』でありたいといつもそう思っている。だから僕は口が悪いかもしれないけれど決して怖い人ではない。建前無しで当たり前に接し接されたいのでそうやっているのだが、人間はそこまで強くない。

他人の考えを否定することも、そこで認知の歪みや齟齬が発生するなら仕方のないことであるし、強制するつもりもない。それが原因でサヨナラされても当然であるし、批判は甘んじて受け入れる。

・対等でいたい

僕の友達にファッションセンスが壊滅的に『ダサい』奴が一人いた。いたと言っても別に死んだ訳でもなんでもない。『ダサい』のが多少改善されたのだ。高校の時は制服で頻繁に遊びに行っていたので、あまり気にすることもなかったのだけれども、その彼が大学生になり、私服を着るようになってから気がついた。あまりにも『ダサい』。

雑誌を読んだり、セレクトショップで結構良い服を買ったりしているのに、なぜだかいつも決まって『ダサい』。今は住んでいるところがバラバラなのだが、僕と彼ともう一人の友達とで良くつるんで遊びに行っていたのだが、会う度、会う度に『ダサい』ので、友達と僕で頻繁に『なんでその色をチョイスしたのか。』『その組み合わせ何なん?』『せっかくいい服なのになんでそんな風に着れるん?』『一緒に歩くの恥ずかしい。』などの駄目出しをしていた。

流石に彼も頭にきたのか『自分の身体に合った服』を選ぶようになった。原因は簡単で、身体が結構ガッシリしているのに、細身のジーンズやジャケット、シャツを着ていていつもアンバランスにピチピチだったからだ。それを一切止めた。憤りによってなぜ『ダサい』のか俯瞰して見れるようになったのだ。

一方、僕も散々な扱いを受けている。誕生日にアスペルガー症候群の本と統合失調症の本を送られたり、当時の彼女をみて『お前センスないよね。』と言われたり、待ち合わせのときに『あ、背が小さくて見えんかったわすまんの。』などなど。

その場ではキレるけれども、不思議と不快な感じにはならない。僕らは、歪みながらも一応『対等』を保っているからこそ無茶苦茶を言い合えるのだし、多少嫌味な行動でも寛容になれるだと思う。

だらだらと言い訳を書き続けて来たが、あんまり言い訳がましいとそれこそ『ダサい』ので、この辺で終わろうと思う。

最後にこれだけ言わせて頂きたい。

『ほーらw怖くないよーw』

それではまた。








(編集・校閲責任:らららぎ)

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あの夏の花火は二度ともう見られない。 / 著者:めがね - ch16

お久しぶりです。めがねです。
試験やらなんやらかんやらでなかなか忙しくてブログが書けなかったと言うのは建前で、
正直な所、何書いていいか分かんなくなったのと
引用してばっかで自分の言葉ではないような気がして筆が進まなくなったってヤツです。はい。
久々に恋人として足りないものという話でビビビっときたので
『僕らが別のアビリティを手に入れる事で捨ててしまったアビリティ』ってやつを
私の幼少時代の少しおセンチな話を交えながら皆さんも『
獲得したもの』と『捨ててしまったもの』考えてみて下さい。
chiasma:16『夏がくると思い出す事』。

・あの気持ちにはもう二度となれない
あれは確か小学3年生だったと思います。
母方の実家が能美島という所でして港が目の前で海の向こう側に瀬戸内海を臨むことが出来ます。
とても気持ちの良いところで僕は今でも母の実家から見渡す景色が大好きです。
今でこそ夏が嫌いなのですがその頃は夏になると母の実家に行って従兄弟達と遊んだり
当時ゲームボーイを私は持っていなかったので母の実家で従兄弟のゲームボーイをするのが毎年楽しみでした。
色々な事をしました。用水路でミニ四駆レースに明け暮れたり、駄菓子屋でチューペット食ったり、
庭でバーベキューしたり、軽トラの後ろに乗って海へ行ったり。隣町までチャリで行ってみたり。
思い出せばキリがありません。それでも夏になるとやっぱり思い出すのは一人の女の子の事です。
一度会っただけで名前も知らなければ顔も声すらも今では思い出す事が出来ません。
ただハッキリしているのは、私と彼女が同い年だった事。一緒に船から宮島の花火を見たこと。
そしてたった一日限りだったけれども私は彼女の事を好きになってしまった事。
この三つだけです。彼女が私の事をどう思っていたのかなんて今となっては確かめることすら出来ません。
もしかしたら私の事なんか覚えてないかもしれないと思います。

出会ったのは、もちろん花火大会の日の事です。叔父が船を借りて宮島の花火大会に行くと言うので、
私と妹、従兄弟4人兄弟で車で少し遠い港まで行きました。
叔父の知り合い、もしくは血縁関係者?ともかくその人とによく知らない女の子が一人立っていました。
いかにも島の子という感じの健康的かつ活発なショートヘアの女の子だったような記憶があります。
私も当時は結構活発な少年時代を過ごしていたのですぐに仲良くなり
私は彼女の事を「3年さん」彼女は私を「3年くん」と呼び合うようになりました。
花火大会の場所に行く道すがら彼女と従兄弟、妹達とかなり楽しく過ごしていました。
色々な話をしたりだとか船(漁船のような感じ)を走り回ったり、
従兄弟たちが持っていたワンピースを一緒に読んで見たりだとかお菓子を食べたりだとか。
花火が始まるとやはり子供なので興味はそちらに移ります。『凄いね』『綺麗だね』とか言って笑い合いました。
散々はしゃいだ後だったし海の上だったので帰る頃にはすっかり私は気分が悪くなってダウンしていた所を
彼女が膝枕してくれました。港に着くまでずっとそうしていました。
凄く顔が近かったのでキスしてしまった様な気がします。もしかしたらしてないかもしれません。
相当気分が悪かったので其の辺の記憶は凄く曖昧です。
その後また来年会おうねとバイバイして彼女と別れました。その後は色々あって船で花火を見ることはなくなりました。彼女とはそれから二度と会う事はありませんでした。

これで話は終わりです。『吊り橋効果』だとか『ゲレンデマジック』だとか理由付けはテキトーに出来ます。
今考えるとそれすら気のせいだったのかもしれません。
ただ言えることは『打算も計算もなくメリットなしでただ純粋に人を好きになれた
』時期と言うのは、
きっとあの時期だけだろうな。と思います。とても素敵な事です。

ただ仮にもう一度、彼女と会うことが出来たとして今、同じ花火を見てもきっとあの頃と同じ気持ちで見れることなんて二度とないのだろうなと思います。
変わりゆくのは正しいけれど、少し寂しい気持ちになりますね。

おわる。

ほいじゃ。



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そんなことよりチョコを楽しもう。 / 著者:めがね - ch15


そこで何をするつもりだったかって、言うとさ聾唖者のふりをしようと思ったんだ。
そうすれば誰とも、意味のない愚かしい会話をかわす必要がなくなるじゃないか。
誰かが僕に何かを言いたいと思ったら、いちいち紙に書いて手渡さなくちゃならないわけだ。
しばらくそんなことを続けたら、みんなけっこううんざりしちゃうだろうし、
あとは一生誰ともしゃべらなくていいってことになっちゃうはずだ。
みんなは僕を気の毒な聾唖者だと思って相手にせず、放っておいてくれるはずだろう。

The Catcher in the Rye
J.D. Salinger
翻訳:村上春樹

前回の更新よりもだいぶ間隔があいてしまいました。こんにちは。めがねです。
先に述べておきますが私は重度のチョコレートジャンキーであります。
と、同時にきのこたけのこ戦争におけるきのこ厨と言われる人種でもあります。
しかしながら、きのこたけのこ戦争に加担する気など毛頭ございません。
なぜならば、私はチョコレートを愛しているから。
ではそんなこんなで、chiasma 15:「きのこたけのこ戦争の理想的な終わり方」始めていきます。
よろしくお願いいたします。

・明治製菓がつぶれてしまえばいい
極論だがこれが一番手っ取り早い。争いの元凶たる商品を提供する明治製菓が潰れてしまえば、戦いなど怒らない。火のないところに煙は立たぬ。ということわざ通りだ。
戦いをしていた者たちもきっと戦いをやめて明治製菓の復活を祈るだろう。もしかしたら、復活の為に手だって取り合うかもしれない。一致団結というヤツだ。
しかしながらこれはナンセンスだ。
明治製菓は大企業である。吹けば飛ぶような中小企業とは違う。
仮にきのこの山、たけのこの里が無くなっても新しいコンテンツを開発して、きっとそこでまた派閥争いがおこる。まったくもって阿呆くさい。ではどうするか。私は一つの結論に達した。

・傍観者に徹する
前口実で述べたが私はチョコレートをこよなく愛している。一日1P何かしらのチョコレートを食べている。それぐらいチョコレートが好きだ。
きのこの山、たけのこの里を食べるという事はそもそもにチョコレートが好きで購入しているはずだ。
なぜ、チョコレートが好きなもの同士で貶め、貶し合わなければならないのか。
なぜチョコレートの中で優劣をつけなければならないのか。
チョコレート分離主義。良いじゃないか。チョコレート混合主義。良いじゃないか。
そもそもチョコレートが世の中に一種類しかなければ、食べ比べることも出来ないのだ。
LOTTEアーモンドチョコレートの控えめな甘さと明治製菓のアーモンドチョコレートの甘ったるい甘さも比べる事ができないのだ。
ポッキーのスティックにチョコレートをコーティングしてある食感とトッポの空洞にチョコレートを注入してある食感の食べ比べも出来ないのだ。
チョコレートが一種類しかない世の中を想像すると絶望する。
きのこの山のチョコとビスケットが分離したカリカリ感も、たけのこの里のクッキーにチョコレートがコーティングされたサクサク感も楽しむことは出来ない。
一括管理された一定量のチョコの量、コーティングされる素材は一種類。
なんて、ディストピアだ。信じられない。
戦争は破壊だけで何も生まない。巨乳貧乳論もそう。ゲームハード戦争もそう。互いに貶め貶し合うだけだ。生産性なんかあったもんじゃない。
だから、私はこの件にたいしてはうんざりしたので口を噤んで傍観者に徹する事に決めたのだ。闘争は人間の本能だ。これは仕方ない、振り上げた拳は振り下ろすしかない。
だが逆説的に言ってしまえば、拳を振り上げなければ振り下ろす必要はない。そんなことより揺り椅子に座ってチョコレートを楽しむ方が私にとっては有意義である。
これが、私のきのこたけのこ戦争の終わらせ方だ。

以上。

ばーいちゃ。

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