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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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デモに行けなかった話 / 著者:らららぎ - ch7

私の姉はモデルをやっており、かつてもいまもダイエットをしている。痩せたり痩せなかったりを繰り返しては、その数値に一喜一憂を任せ、慎重に次の目標点を掲載していた。私はそれを横目に見ながら、なんてくだらないことをしているんだろうという気持ちを込めて、冷ややかな眼差しを視線のうえに付けて送っていただろう。

私のような馬鹿者は、すぐに合理的な「意味」というものを考えてしまうのだ。

本気で跪いて天に祈る教徒、あの光景を吉祥寺の教会で始めてみたとき、たぶん私は冷たい目をしていたに違いない。なぜ目を冷やしたのかと言えば、彼を馬鹿にすることで「怖い」という感情から逃げ出したかったからだったと思う。なぜなら、分からないからだ。意味が、理由が、全てが。全身全霊で天に向けて手を合わせ、震えながら祈りを届けようとしている「意味不明さ」に、私は即座に敗退したのだった。「そんなことをしたって、意味ないじゃないか」とか、「そんなことするぐらいなら真面目に努力しろ」とか、合理を装って頭の悪いことをつぶやいていただろう。

柄でもない進学校というものに、私は、成り行きで合格してしまった(高校なんて行きたくなかったけれど、マザコンだった私は、母の勧める高校に、母の勧めるやり方で合格してしまった)ことがある。そこでは学歴の良い教師たちが、教科用図書を使って科学的なことを科学的な方法で教えてくれる。低い点をとるということは、『理由が分かっていない』とか『意味が分かっていない』と科学的に思い込まれ、さらに科学的な指導を科学的にしていただくことができた。親は科学的に大満足の様子だった。

そうして、一箇の馬鹿者が生まれたのだった

あらゆることに「意味」や「理由」があると思い込み、それが祟って「宗教家のひとつひとつの行動にも意味や理由があるはずだ」と思い込み、それが全く分からないことに怯えたし、見下しもしただろう。ひいては「宗教」という抽象的な概念にまで「意味」を求めはじめ、散々宗教というものを馬鹿にしながら、散々宗教というものを勉強した。

かつての私とは正反対の人間として、チャーチル・ダーウィンというロールモデルを紹介したい。「弱肉強食と進化論だろ、知ってるよそんなやつ、古い古い」で知ったかぶらず、注意深く彼の著作を読んでほしい。

ダーウィンは、かつてアリストテレスがしたように、ミミズ(Earth Worm)の研究をした。ダーウィンは「動物の動きを機械(プログラム)と同じようにとらえること」を嫌った。ミミズの生態を何年も何十年もかけて観察することによって、ミミズには「概念」を生み出す力があることを証明する。「こうなったら、こうする」という反射的でプログラミング的な動きではなく、「え~っと、これはこのパターンだから、こうした方がより善いな」と考えて行動できるのだ。下等生物と呼ばれるものも、単に本能で反射だけしているだけではなく、パターンの分類を思考することができていたと発表した。

ダーウィンの行動を支えていた考えは、最初から最後まで、「進化や変化というものには、何の目的もなければ、何の方向もない」という鋭い観察眼から導き出されたものだった。たとえば、ミミズは世界中で土を耕しているけれど、それは「地球のため」だとか、「土のため」だとか、「作物のため」だとか、そういうものは全く無いということだ。

驚いただろうか、私は最初驚いた。目的や方向、意味や理由というものがあると思っていた。科学が発達したおかげで、私は「ひとつひとつに意味を求めてしまう病」に罹ってしまったのだろう。

そして、また、今日も「意味」を問うてしまった。
― 「デモに行く意味なんてあるのか

メンタルブロックを無視して冷静に考えればあるし、<自分の意志ある行為>に意味を持たせるのは自分である。私には「自分よりも若い世代を守りたい」という気持ちが足りなかった。むしろ守って欲しいなどと甘えている節がある。つい数年前まで母親に進学校へと通わせてもらっていた私にとって「してもらう」ことがメインであって、なぜ自分がまだ産んでもいないガキのために身を差し出さねばならないのだ」、と、意味や理由を訊いてしまったのだ

メンタルブロックは恐ろしい。
プライドが高いと、都合のよい問いばかり優先させる

問うべきは理由でも意味でもなく、「私がここまで平和に生きてこれたのは、何に支えられていたからなのか」であった。67年ものあいだ守られてきた平和憲法が、国民投票をまんまとすっぽかして閣議決定されるというのに、私は何をしていたのだろうか。自身の不明を恥じるばかりだ。

 デモは、体制が維持している秩序の外部にほんの少しだけ触れてしまっていると言ってもよいだろう。というか、そうした外部があるということをデモはどうしようもなく見せつける。だからこそ、むしろデモの権利が認められているのである。デモの権利とは、体制の側が何とかしてデモなるものを秩序の中に組み込んでおこうと思って神経質になりながら認めている権利である。「デモの権利を認めてやるよ」と言っている体制の顔は少々引きつっていて、実は、脇に汗をかいている。
 …デモとは何か。それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。だから、デモに参加する人が高い意識を持っている必要などない。ホットドッグやサンドイッチを食べながら、お喋りしながら、単に歩けばいい。民主主義をきちんと機能させるとかそんなことも考えなくていい。お祭り騒ぎでいい。友達に誘われたからでいい。そうやってなんとなく集まって人が歩いているのがデモである。
 …デモのテーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないなどと主張する人はデモの本質を見誤っている。もちろん、デモにはテーマがあるから当然メッセージをもっている(戦争反対、脱原発…)。しかし、デモの本質はむしろ、その存在がメッセージになるという事実、いわば、そのメタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることこそが重要なのだ。
(國分功一郎「パリのデモから考える」より)

結局、まず自分がデモをやるほかないんですよ。なぜデモをやらないのかというような「評論」を言ってたってしょうがない。それでは、いつまで経っても、デモがはじまらない。デモが起こったことがニュースになること自体、おかしいと思う。だけど、それをおかしいというためには、現に自分がデモに行くしかない、と思った。…昔、哲学者の久野収がこういうことを言っていました。民主主義は代表制(議会)だけでは機能しない。デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。デモなんて、コミュニケーションの媒体が未発達の段階のものだと言う人がいます。インターネットによるインターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。インターネット上の議論が世の中を動かす、政治を変える、とか言う。しかし、僕はそう思わない。そこでは、ひとりひとりの個人が見えない。各人は、テレビの視聴率と同じような統計的な存在でしかない。各人はけっして主権者になれないのです
(柄谷行人「反原発デモが日本を変える」より)

代表制は、たとえそれが効果的な代表であっても、民主主義を強化するのではなく民主主義を妨げるものであるということを2011年(から)の運動の非常に多くははっきりと認識していた。だからこそ、2011年(から)の運動は、代表制の政治構造と政治形態に対して批判を向けているのだ。民主主義の(未完の)プロジェクトはどこへ言ってしまったのか?私たちはどのようにすれば、民主主義のプロジェクトにふたたび取り組むことができるのだろうか?市民=労働者の政治権力を取り戻す(いや、実際には、はじめて実現する)ということはいったい何を意味するのか?2011年の運動が教える一つの経路は、この章で私たちが概観してきたような、貧困化され、脱政治化された主体=従属者(であること)に反逆し、叛乱を起こすことである。民主主義を実現=現実化することができるのは、この点をしっかり把握し、演じることができる主体が登場したときだけだ。
(ネグリ・ハート「declaration」、tes​sai​-ek​ai訳:より)

代議制民主主義の限界は、とっくの昔から語られている。上に挙げた3つの思想家の考えは、どれもまだ、代議制を前提から問い直すものではない。だから哲学としては不十分だが、それでも「いま当たり前のこと」としては大事なことが書いてあるとも言える。

そして私は、「いま当たり前のこと」さえもできていない。「いま当たり前のこと」さえ欠けている私が、外から冷たい視線を送っている。そんな誕生日前夜のデモとなった。これでいいのだろうか、深く問わざるを得ないと感じている。

こんな邪魔なメンタルブロックがなければ、私だって、演説をしたあとに新宿の連絡口で焼身自殺を図るだろう。「代議制は限界だ」という昔から語られてきたことを、その記憶が失われている人々のために、いま当たり前のこととして語りたいと思う。だから、焼身自殺の彼は、私がやりたくてもできないことをやってのけたし、「いま当たり前のこと」を知っていたのだろう。

「意味なんてない」とか、「子供っぽい」とか、科学的な人は、科学的に冷たい視線を送るだろうが、私は、今日をもって23歳になったので、そういう科学が寄越してくる「意味」というメンタルブロックを乗り越えると宣言する

2014年7月1日、らららぎ、決意をここに記す。

ありがとうございました。おわる。

しーゆーれーらー




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宗教とは世界中の分業者を信じることである / 著者:らららぎ - ch12

宗教の根本定義 ― それは宇宙の直観と感情。かくしてそれは形而上学と道徳と相併ぶところの人間精神の本質的必然的第三者。これをもって宗教は、その財産を占有せんがためには、形而上学や道徳に属するものに対するあらゆる要求を断念し、宗教に押し付けてあるものはすべてこれを返却する。宗教は、形而上学のように、宇宙をその性質に従って規定し、かつ説明しようとは欲しないし、道徳のように、自由の力、および人間の神的自由意志から宇宙を発展させ、かつ完成させようとは欲しない。宗教の本質は、思惟でも行為でもなく、直観と感情である
(シュライアマハー「宗教論」p.49より)

「宗教について書く」というのは、考えれば考えるほど憂鬱になる。かつて一度だけ、「小動物的に生きること(ruderalism)、あるいは仏教とフィナーレの話」というものを書いたが、最終的には何も書かずに逃げたのと同じ出来(不出来)になり、濁った茶だけがテキストのうちに居残りとなった。

「宗教」(la religion:ラ・ルリジオン)の最大目標は、思うに、「人は最終的に死にます」という事実を確認・確信させることである。「動物であれば早晩死ぬ」なんてことは「当たり前に知っている」ことだけれど、私たちは死に関して無知である。

そのときの定義したものがこれ。この後の文章では、言いたいことがうまく書けなかった。たぶんこの御題はそのリベンジなのだろうと確信したので、老骨に"無知"打って、新規記事ページを立ち上げた。(こはくさんが熱を振りまいてくれなければ、ここまで自分はやる気にならなかっただろうと思うと、こはくさんの激白には本当に感謝している)。

閑話休題。

近代神学の祖と言われているシュライアマハーの『宗教論』第2章を分かりやすく意訳すると、「宗教は西洋哲学じゃないし!宗教は道徳じゃないし!マジで一緒にすんなし!"同じようなもの"として分類すんなし!お前ら宗教について何も知らないくせして分かったような口利くなし!」ということである。(分かる人に分かるように書くと、「宗教はヘーゲルとカントでは理解できない」ということ)。

さて、すごく初歩的なことから話を始めよう。

「あなたは道徳的な人(モラルマン)ですね」と言われたとして、それはいったい何のことだろうか。モラルがあるというのは、どういうことなのだろうか。この世にある全てのモラルというものを、同時に満たすことは可能だろうか。席を譲ることが道徳的かと思いきや、席を譲って怒られた経験がある。それが西武線だったときには、「ぜんぶ、西武線のせいだ」と西武線の広告を真似して憤慨してやりたくモ、ラル。(も、なる)

当たり前のことだが、私たちは「道徳的になることもあれば、非道徳的(インモラル)になることもある存在」である。何も不思議なことはない。だから、道徳というのは、相手によるというか、状況によるというか、大雑把にいって「自分ではないものに依存している」といえるだろう。

神。

コイツについて、ずっと疑問だったことがある。会ったことはないが、幼いころから噂にはとんでもねえやつだと聞いているし、隣の家の創価学会のオバちゃんに相談したら「私はあまり信じてないし、そんなことはいいから写経をしよう」と勧誘されたりもしたし、聖教新聞の最新号をくれたりもした。聖教新聞は学会の話ばかりに紙面が割かれており、そのおかげで社会紙面はコンパクトにまとまっていた。これは切り抜いて生徒に読ませてみよう…などと思ったが、親御さんに知れては大変だと思い断念した。さらに話を聞くと、この地区の幹部らしい。見た目はただのGLAY好きの普通のオバちゃんなのだが。夏はたまにパピコをくれる。ぼくの創価学会経験は、宗教家によくいそうな人当たりのいいオバちゃんだった。

いや、そんなことはどうでもいい。

神って、なんなんだ。

いやいや、そんなこともどうでもいい。

肝心なのは、神ってやつは超すげくて超越的な存在者なのに、なんでどうして、人間なんかにそんなに関わってくれるんだ、ということである。

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされた*1のである。
*1:本来は「看病された」「手当てされた」と訳すべきところだが、「精神面に重点を置くべきだ」という本田哲郎の指摘と訳に従う。
ペトロ第1の手紙2:24より / 注釈:らららぎ)

だって、頼んでもないのに「神」が痛みを負ってくれて、私たちはそれに「癒やされた」らしいんだよ。なんてすげえやつなんだ。でも、だから、なんで、そんなに関わってくれるのだろうか。20世紀を代表する神学者のカール・バルトは、神のことを「絶対他者」(der absolute Andere)とか「裂け目や痛みのない全体」(ein Ganzes ohne Risse und Schmerzen)と呼んだ。

宗教という言葉に現実味というか実体を感じている人は、「神があるから→不安を癒され、無知を解消してくれる」という順番で考えるだろう。でも、私のように、宗教を抽象的(あいまいなものとしての考え)に見る人にとっては、「不安を癒やし、無知を解消する(機能の)ために→神がある」という順番で考えるはずだ。つまり、前口上で「宗教」と言われて、すぐに「**教」だとか、「**神」だとか具体的なものが出てくる人は、「神がある→癒される」という順番で考えるし、そういうのが出てこない人にとっては、「癒やすためにある装置→神」という順番で考えるということである。

ここに重要な差があって、たとえば、「瞑想は宗教によって生まれるのか、宗教が瞑想によって生まれるのか」という重大な問いに気付くことができる。特に宗教をキリスト教とか仏教とか具体的なもので考えてしまっている人は、あまり考えたことなかったのではないか。冒頭の神学者が別のページで指摘している「諸君は宗教について何も知らないのに」という指摘は、つまるところ「普段から接してはいるけれど、何も考えていない」という手痛い指摘なのだ。

神とは何だ。宗教とは何だ。

道徳も哲学も、なぜ他者を必要とするのか。

なぜ神は人間と"そんなに"関わってくれるのか。

どうして神は「絶対他者」といえるのか。

宗教は実体なのか、装置なのか。

瞑想が先か、宗教が先か。

ここまで重大な問いをいくつか出してきたが、余計に分からなくなったように感じる。全部を細かく説明するのは、私の実力の範疇ではないので、必要なことだけを記していく。

その昔、アリストテレスは、「zoon politikon」(ぞーおん・ぽりてぃこん)という概念を創りだした。人間は政治的動物であるとか何とか、聞いたことがあるかもしれない。要するに「人間は共同体を作って、それぞれがそれぞれの目的を補う形で活動を分業している」というぐらいの意味である。自分の「外側にいる人たち」が、自分の目的を達成「させてくれる」のだ。何も自己完結しない。いつでも「外側にあるものごと」によって、自分という存在は分業されている

たとえば、病気になったことがあるだろうか。どういう気持ちだっただろうか。<自分>が苦しかっただろうし、<自分>が辛かっただろう。でも自分が苦しいだけなら、自分でどうにかすればいい。いーや、そうは行かないシステムになっている。なぜなら、病気というものに<自分の活動は奪われている>からだ。自分の外側にある病というものに<関係することによって>、「活動が奪われ、休養が与えられる」と考えることができる

たとえば、「信じる」というのは何だろうか。宗教的にも、一般的にも、信じるという行為がある。「天体が回っているのではなくて、地球が回っていると確認しました!証明も書きました!これまで何百億の人にイイネ!をしてもらえた考え方です!今日もどこかでイイネ!をしてくれている小学生がいます。あなたは"信じて"くれますか?」ということを学校やテレビでやっている。子どもたちは、十中八九、「信じてくれる」。過去、誰かが分業して調べてくれたことを「信じる」ことによって、その分業成績を「自分のものにもする」ことができる。

現在の教育は、(教育の御題で書きたかったが)、子どもたちが「よし信じよう、その分業を受け取ろう」と受け身ながらに確信するよりも早く、先生方が「ご親切にも」プリインストールよろしく組み込んでくれるようになっている。それを「サービス精神」だと勘違いしている親御さんからのニーズがさらに激しくなり、いわゆる「優しい先生」(信じてもらえるまで待つよりも早くインストールするのが特技の先生、生き残るにはそれしかない無能な先生)が一点豪華主義的に優秀だと考えられている。学校は、宗教の機能よりも"信じさせる"のが早くなってしまった。それを私は「与える教育」と密かに呼んでいる。知識の過保護なインストール。

私たちは、悔しいけれど、大人になった今でも、世界のことをほとんど知らない。全く知らないと言っても違和感ない。だから、世界中の多くで実際的にも抽象的にも「分業してくれている外部のもの」のことを信じることで、それらを追随的に得ることができた。この間までは、それが、科学だった。世界中で科学という外部存在が、私のために分業してくれていたのである。科学との関係を作って、科学と接続することによって、私たちは世界の多くを手にすることができていた。科学を「信じていた」し、たぶん今でもかなり「信じている」。科学は、この意味で宗教(信じるべき外部としての宗教)的である。(心理的に言って出来ないが)もしお気に入りの学者や人生の恩師のレビューを無視することができれば、私にとって、科学は仏教と同じであり、科学に基づくテキストは、神に基づく聖書と変わらない。性質的な特徴に限っていえば、科学の方が民主主義(客観的っぽくて、再現性に価値を置いている)と言えるぐらいだ。

宗教あるいは科学や哲学や道徳というものがあるおかげで、私たちは「誰かが何かが分業してくれないと無知になってしまって不安になるもの」から解放されている。キリスト教的に言えば、「痛みを神が負ってくれ、私たちは癒やされた」のだ。

私たちが「自分ではないものとの関係や接続」で生きている限り、あらゆるものが宗教的だし、あらゆるものが神と同じ性質を持っていることになる。無知(キエルケゴール的に言えば「無垢」)からの救済。痛みからの癒やし。これを読んでくれているあなたも、昨日入ってきたウィルスも、昼間に出会う弁当屋さんも、週末に行った道徳も、すべてが「他者」であり、「分業者」である。

私の知り合いの社長に、どんな出来事も「不況だから」で済ませる人がいる。不況教だよ。あらゆる物事の動きや原因は、「不況という分業者」によって生み出されているという考えなんだ。だから、彼は、正しく理解しているかは置いといて、不安や無知を感じることなく事業を進めている。不況教において、不況だからと考えることが「聖書の教義」であり、飲み屋でアベノミクスを愚痴ることが「聖書の実践」なのである

宗教の本質は、思惟でも行為でもなく、直観と感情である

なるほど。宗教というものを、宗教というものにしてくれていることは、(何も考えずに)分業者を信じて受け取ることなんだ。自分ではない外部のもの(他者)に対して、絶対的に受け身であることなんだ。だから「誰が神を造ったのか」という議論は意味がないけれど、「神が関わってくれていることは何か=神が分業してくれていることは何か」と考えることは、関係性で生きている人間(つまり人間性であるところ存在)にとって、とても役に立つことなのだ。それは、もちろん、科-学-と-同-じ-程-度-に

ありがとうございました。おわる。

しーゆーれーらー

誕生日の前日という貴重な時間を使って書いた、貴重じゃない記事でしたw)

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大事なのは、葛藤に気付いて面白がれるかってこと / 著者:らららぎ - ch5


俺言ったろ?大事なのはお前らが、この試合を面白がれるかどうかだって。

『GIANT KILLING』というサッカー(の監督がメインに描かれている)漫画。番狂わせとか、大物食いという意味なんだとか。この監督が率いることになった弱小チームETUは、彼のもとリーグで1位を目指すことになるが、選手たちは「成し遂げたことのないこと」に怯え、自らの実力を半減させる葛藤に捨て鉢のような態度をとり、勝利へと導く監督のロジックに反抗する

彼らの「本来持っているはずの実力」を無効にしているのは不安である。その不安は葛藤から生まれ、その葛藤の正体は「役割間葛藤」と称されるものである。自分たちは「勝利者に相応しいのか」と考えてしまう。彼らは「強いものが勝つ」という前提にあるため、負け続けてきた自分たちは勝利者なりえないと決め込んでいる。ベッケンバウアーが強く主張するように、本当は「勝ったものが強い」のに。

大人というのは、臆病の正体がバランスの欠如だと知っています。臆病な人にとって、勝利は〈重荷〉に感じられます。彼は〈敗北に慣れすぎている〉のです。負け慣れてしまうと、いざ勝利のチャンスに出会い、その玄関先まで辿り着いたとしても、チャンスを掴み切ることができないものなのです。(32)
— 大人たん(@otona_tan) 2013, 12月 8

大人たんも「敗北に慣れすぎていて、勝利が重荷になっている」と語る。

肝心なのは、面白がれるかということなのだ。
ゴミ箱に虫が集うことも、電気代を支払えず超過金をとられることも、隣の家から性的でリズミカルな叫び声が聞こえることも、ゴキブリに歯ブラシをかじられることも、山のように洗濯物が溜まることも、野菜室の奥でキャベツが腐っていることも、布団にカビが生えることも、トイレに蜘蛛が棲み付くことも、テレビを付けたまま寝てしまうことも、寂しさと苦しさで心が混み合って鬱ぎ込むことも、すべてが「いまここにいる自分にしかできない代えがたい唯一の経験」なのだ。それを愛すること。不幸も幸福も、どちらも自分の人生なんだと思って無条件に愛撫してやること。それが大事なことだろう。

葛藤で苦しむ人には、愛が足りない。
ひいては愛嬌(人間的で温かい隙)が足りない。

ひとりで暮らしたことない人間が、「私は独力で暮らすに相応しい人間だろうか、それをやり遂げる資格があるだろうか」などと問うのは退屈で窮屈だといえる。もっと楽しんでいい。窮極に楽しめないときでも、面白がれるかどうか、そこが何よりも肝心である。

ということで、すべからく楽しむべし

しーゆーれーらー

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調音点で活躍している音の群れ / 著者:らららぎ - ch3

憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それ負ふ母も 吾を待つらむぞ

 山上憶良という詩人の詠んだ歌で、ひらがなに読み下すと「おくららは いまはまかむ こなくむ それおうははも わをまつむぞ」になる。この歌の解釈は様々あれど、定説では「宴会の席を中座するときに詠んだ歌」となっているらしい。これが面白いのは「ら」という音が過剰に織り込まれているところだろう。


Para bailar la Bamba(ぱ ばいらる ばんば)
Para bailar la Bamba(ぱ ばいらる ばんば)
Se necesita una poca de gracia(せ ねせした うな ぽか で ぐしあ)
Una poca de gracia y otra cosita(うな ぽか で ぐしあ い おった こした)
Y arriba y arriba, Y arriba y arriba(い あば い あば い あば い あば)
Por ti seré, por ti seré, por ti seré(ぽ てぃ せれ ぽ てぃ せれ ぽ てぃ せれ)
Yo no soy marinero. Yo no soy marinero.(よ の そい ま よ の そい ま
Soy capitán. Soy capitán. Soy capitán.(そい かぴたん そい かぴたん そい かぴたん)
Bamba, bamba...(ばんば ばんば)

 スペインの民謡「ラ・バンバ」。歌詞は歌い手によって少し異なるけれど、だいたいこんな感じなんだとか。「ラ行」で弾かれたところで曲に勢いがでる。



(wikipedia「硬口蓋音 - 音声学」より)

 日本語の「r」は、「歯茎はじき音」(フラップ "r")と呼ばれていて、一瞬だけ口のなかを「閉鎖」して(音声学的に調音して)、そこから弾くようにして空気のまとまりを放出する。これが「音の明度」を高めているように感じるのだ。山上憶良が「ら」を多用したところは、きっとここだったと考えられる。

――「ら」は外側に発散する。
――「ら」は明るさを押し広める。
――「ら」は陽気と歓楽を瞬時に生成し、言語空間の音楽性を整える
――「ら」は平和の音声であり、あらゆる制御に解放を唱え、他者を優しくする
――「ら」は、五十音のなかで唯一、連続で聞いても苦しくない音素である。

ららららららららららららららららら

 そこで、アニメのオタクというイメージを定着させるために、化物語の主人公「あららぎくん」の言い間違い「らららぎ」を名前にもらった。さらにアニオタを強調するときは、魔法少女まどか☆マギカの「明美ほむら」を併せて「明美ほむらららぎ」などと称するときもある。

 「ら」の明るさが好きなのだ。余裕も愛嬌もある「ら」の音を、いつでも呼びたい。ぼくの子どもが生まれたら、「等等等」(ららら)という名前にしてキラキラさせてしまおうか。冗談。

 とにかくこれが、アカウント名の由来。

 前口上で予想した通り、説明に寄ってしまったけれど、これが今の限界。
 自分について語るのは、別の機会に譲るとして、これはこれで終わり。

 しーゆーれーらー

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人を呪わば穴二つ ― シャッフルされる主語 / 著者:らららぎ - ch1

ローマ人への手紙12章19節のなかに、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」という命法がある。

高校生の頃は、至極どうでもいい話だと思っていた。パウロの説教を聞くぐらいなら、吉野家で牛丼を食べた方が遥かに有益だ、と。あるいは、元迫害者の説教に耳を傾けるぐらいなら、つゆだくにしようかネギだくにしようか迷ったほうが余程すばらしい、と。それから幾年か過ぎ、そろそろ牛丼に食べ飽きてきたころ、「そういえば、なぜ神の怒りに任せるべきなのか」という神学的な問いが生じたのだったと思う。

たとえば仏教における復讐は「第二の矢」と呼ばれており、負が力を増しながら不必要にストロークすると考えられている。それが「苦」になるからやめた方がよくね?となるのだが、キリスト教の復讐の考え方は少し違う。「自分がもともとどれだけ豊かに許されたかを思い出して相手を祝福しよう、自分を害するやつが裁かれることを求めながら日々を険悪に生きるのはあまり善いとは言えない。そんなことは神(教会)に丸投げして、あなたは自由な心で生きなさい、あなたはそうして良い人なのだ」ということである。

つまり、仏教では「余計な荒波を自分で制して自由になる」のに対して、キリスト教では「険悪な心は神に任せて自由になる」という立場に立つ。彼らは自由になる方法論を異にしているだけで、「復讐、いくないっ!」と教えてくれている。なぜだろうか。なぜ恨むことが苦であり、憎むことが険悪なのか。

人々は「怨みや呪いは、巡り巡って自分に返ってくるから」と教えてくれる。この「返ってくる」というのは比喩である。実際に返ってきているわけではない。では、悪口(愚痴)や呪詛(恨節)が返ってくるとは、何が起こっているのか。脳科学は「人間の古い方の脳は主語を認識できない」と教えてくれる。「You die soon!」と呪ったとき、「die soon」の部分だけが認識され、自分にも適用してしまうのだとか。要するに、誰かの悪口を言った「つもり」になっているだけで、それはほとんど「誰のことを言っているのか分かっていない」(shuffled)のが脳の現状らしい。最初は納得し難い言説だったが、のちに妙に納得した。

もちろん法則というのは演繹的だから、(いつだってそうなる保証はないため)一回一回の適用がギャンブルになるけれど、そういうことが「よくある」と私も思っている。元カレの愚痴や悪口が定番になっている女子会は、この法則でいくと、不幸の会合みたいなものになってしまうのかもしれない。他の女子の悪口にも同調しないといけないから、人数に比例するように不幸が肥大化していく。悲惨だ。

この「人を呪わば穴二つ」ということわざと向きあうことで、私は聖書の言葉を少し理解できるようになった。(それまでは理解しているつもりだった)。そして何より、「自分がこれまで途方も無いくらい豊かに許されてきた」ということに直面できた。この法則と向き合わねば、自分に悪いことをするやつ(電車の中でうるせえやつとか)が裁かれるのを望み、心を自分で蝕んでいたかもしれないと思う。だから、好きなのだ。助けてくれた、助かるのを手伝ってくれた。

鉄は熱いうちに打つべきだとしたら、悪口は早いうちに神に任せてしまえ
(このように、法則の合わせ技なんていかがでしょうか)

ありがとうございました。おわり。らららぎ。

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みんなで考え、みんなで分かるということ——野球チームで学んだことを頼りに(らららぎ、『あみめでぃあ』第二号の前書き)


 うちの野球チームには六年生がおらず、五年生だけで構成されていました。夏の少年野球大会、小規模ながらも地区大会決勝戦、五年生だけでそこまで勝ち進んだという事実に、監督やコーチは誇らしげでした。
 相手投手は六年生。身長が高く、見たことない速さの球を投げ、僕らを圧倒しました。「別格」とか「別次元」とか、端的に言って「僕らと彼では、住んでいる野球世界が違う」という怯えを感じました。他にも「決勝まで当たらなくてラッキーだった」とか、「僕たちは五年生だから」とか、「速い球を投げれば勝てるもの」とか、そうやって、自分たちとの(仮想の)実力差を正当化しようとして、まだ試合中にもかかわらず、たくさんの概念を生み出しました。
 なるほどこのままノーヒットノーランされるのかと確信をしたところ、神戸コーチが檄を飛ばしました――「振らなきゃ当たらないだろ、振れよ」。ただ、そんな正論で気持ちが切り替わるほど楽なシチュエーションではなく、「はいはい、説教すか、振っても当たらないからこうなってるんじゃん」という言い訳を心の中央部にセットし、誰もがやる気のない態度でバッターボックスに佇んでいました。つまり、振って三振して「ほらね、振っても三振したでしょ」という顔をする気でした。
 相手投手もそれに感付いたのか、手を抜いたというか、弱者向けに力配分された球を放ってきたように思います。人は安全を確信したときに油断するというのは吉田兼好(1)の言い草ですが、彼の投げた甘い球を誰かが何気なく打ち、その打球は外野のあいだを抜け、ツーベースヒットになりました。打った方も投げた方も、何ならその場にいた誰もがひどく驚いたと想像できます。
 それを機に「打てるんだね」という合意が仲間のあいだに形成され、「(ヒットを)打つ」という概念が生まれました。不思議なことに、誰かが打ってしまえば、それに便乗するようにして、自分にもできるはずだと「分かる」ようになります。それが概念のもっている凄さなのです。一種のネタバレ効果というか、「難しい」「不可能」と思っていたことでも、誰かがそれを「攻略」できたと知ると、急に出来るように感じるものです(2)。
 僕が通っていた学校でも、同じように、「誰かが先に分かると、それに追随するようにして皆が分かる」という現象が起こりました。基本的に《分からないは、いつか分かるに変わる》という希望を絶やすことがありません。エリート大学への進学率というデータではなく、この精神性――誰かが分かれば、きっとみんな分かる――をもっているかどうかで、僕は進学校かどうかを規定しています。
 分かる/分からないという二元論ではなくて、理解には「分かりかけている」「分かり損ねている」「分かりめいている」「分かり淀んでいる」「分かり始まっている」「分かり止まっている」という細かい状況があって、なかなか断定できないものなのかもしれません。「分かり際」にいる人も、「分かり沖」にいる人も、みんなで集まって、みんなで思い切って、自分の理解を発表してみることで、僕たちの理解は先へ先へ奥へ奥へ進んでいくのでしょう。
 ここ『あみめでぃあ』は、そういう場所です。どんな概念にも一人で立ち向かわなくていいんだ、そう安心できる場所。味方を見つける場所。「約束」「食べる」「大人」「言語化」「デザイン」「好き」「ラブ」「三日坊主」「リズム感」「家出」「悪党」「声」「狂う」「回る」「思考」「音感」「機動戦士ガンダム」「諦める」「公開」「眼鏡男子」、そういった概念をみんなで理解すること。そうすれば、誰かの理解が、誰かの理解の一助になり、発端になり、先駆となり、いつか大きな何かになるものです。僕が分かったら君も分かる、君が分かったら僕も分かる――――それぞれ別の仕方で。

(1)「高名の木登りと言ひし男、人をおきてて、高き木に登せてこずゑを切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに軒たけばかりになりて、 『過ちすな。心して降りよ。』 とことばをかけ侍りしを、 『かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。いかにかく言ふぞ。』 と申し侍りしかば、 『そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れ侍れば申さず。過ちは、やすきところになりて、必ずつかまつることに候ふ。』 と言ふ。」――徒然草第百九段「高名の木登り」

(2)師と呼ばれる者は、この「できる感じがする」という先触れを意図的に創りだすことに長けています。周りより遅れて野球を始めた僕に、野球が「できる」と感じさせてくれたコーチ、英語の長文が読めなかった僕に、英語が「読める」と感じさせてくれた先生、ギターの奏けなかった僕に、ギターが「奏ける」と感じさせてくれた叔父さん。僕はたくさんの「師=職人」の存在のおかげで、挫けるはずだったところでポジティブに生きることができました。つまり、英語なら英語、ギターならギター、それぞれが持っている特有の折檻に閉じ込められて、伏し目がちになりそうな《瞬間》に、何度も何度も引きずり出してもらってきたということです。『四月は君の嘘』第一巻「カラフル」のなかで、宮園かをりが「聞いてくれる人が私を忘れないように。その人の心にずっと住めるように。それが私の、在るべき理由。だから私の伴奏をしてほしい。ちょっぴり私を支えてください。挫けそうになる私を――支えてください」と語り、それが目指しているところは「私たち(演奏家)はあの瞬間のために生きているんだもん。ここにいる人たちは、私たちのことを忘れないでいてくれる、きっと、私、忘れない。死んでも忘れない」(第二巻「曇天模様」)という境地なのです。演奏家は、観衆を感動させ、その音楽の《瞬間》を心に深く刻み込んで忘れないでいてもらうこと、自らの奏でた音楽の一瞬一瞬が誰かの生命の一部になることを願う人種であると語ります。それは誰かの《瞬間》のために生きる「師=職人」の生き方です。しかし、まだ中学生だからその生き方を目指すことは、とても難しいもの。もしかしたら「できない」かもしれないと不安になるとき(第二巻「水面」)もあるでしょう。だから支え合うのです。この文芸誌は、概念の前で挫けそうになるお互いを、読者/著者の立場を問わず、同時代の師として友として、支え合う場所なのです。そうなることを祈っております。


「ちょっぴり私を支えてください。挫けそうになる私を――支えてください」

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