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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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宗教とは世界中の分業者を信じることである / 著者:らららぎ - ch12

宗教の根本定義 ― それは宇宙の直観と感情。かくしてそれは形而上学と道徳と相併ぶところの人間精神の本質的必然的第三者。これをもって宗教は、その財産を占有せんがためには、形而上学や道徳に属するものに対するあらゆる要求を断念し、宗教に押し付けてあるものはすべてこれを返却する。宗教は、形而上学のように、宇宙をその性質に従って規定し、かつ説明しようとは欲しないし、道徳のように、自由の力、および人間の神的自由意志から宇宙を発展させ、かつ完成させようとは欲しない。宗教の本質は、思惟でも行為でもなく、直観と感情である
(シュライアマハー「宗教論」p.49より)

「宗教について書く」というのは、考えれば考えるほど憂鬱になる。かつて一度だけ、「小動物的に生きること(ruderalism)、あるいは仏教とフィナーレの話」というものを書いたが、最終的には何も書かずに逃げたのと同じ出来(不出来)になり、濁った茶だけがテキストのうちに居残りとなった。

「宗教」(la religion:ラ・ルリジオン)の最大目標は、思うに、「人は最終的に死にます」という事実を確認・確信させることである。「動物であれば早晩死ぬ」なんてことは「当たり前に知っている」ことだけれど、私たちは死に関して無知である。

そのときの定義したものがこれ。この後の文章では、言いたいことがうまく書けなかった。たぶんこの御題はそのリベンジなのだろうと確信したので、老骨に"無知"打って、新規記事ページを立ち上げた。(こはくさんが熱を振りまいてくれなければ、ここまで自分はやる気にならなかっただろうと思うと、こはくさんの激白には本当に感謝している)。

閑話休題。

近代神学の祖と言われているシュライアマハーの『宗教論』第2章を分かりやすく意訳すると、「宗教は西洋哲学じゃないし!宗教は道徳じゃないし!マジで一緒にすんなし!"同じようなもの"として分類すんなし!お前ら宗教について何も知らないくせして分かったような口利くなし!」ということである。(分かる人に分かるように書くと、「宗教はヘーゲルとカントでは理解できない」ということ)。

さて、すごく初歩的なことから話を始めよう。

「あなたは道徳的な人(モラルマン)ですね」と言われたとして、それはいったい何のことだろうか。モラルがあるというのは、どういうことなのだろうか。この世にある全てのモラルというものを、同時に満たすことは可能だろうか。席を譲ることが道徳的かと思いきや、席を譲って怒られた経験がある。それが西武線だったときには、「ぜんぶ、西武線のせいだ」と西武線の広告を真似して憤慨してやりたくモ、ラル。(も、なる)

当たり前のことだが、私たちは「道徳的になることもあれば、非道徳的(インモラル)になることもある存在」である。何も不思議なことはない。だから、道徳というのは、相手によるというか、状況によるというか、大雑把にいって「自分ではないものに依存している」といえるだろう。

神。

コイツについて、ずっと疑問だったことがある。会ったことはないが、幼いころから噂にはとんでもねえやつだと聞いているし、隣の家の創価学会のオバちゃんに相談したら「私はあまり信じてないし、そんなことはいいから写経をしよう」と勧誘されたりもしたし、聖教新聞の最新号をくれたりもした。聖教新聞は学会の話ばかりに紙面が割かれており、そのおかげで社会紙面はコンパクトにまとまっていた。これは切り抜いて生徒に読ませてみよう…などと思ったが、親御さんに知れては大変だと思い断念した。さらに話を聞くと、この地区の幹部らしい。見た目はただのGLAY好きの普通のオバちゃんなのだが。夏はたまにパピコをくれる。ぼくの創価学会経験は、宗教家によくいそうな人当たりのいいオバちゃんだった。

いや、そんなことはどうでもいい。

神って、なんなんだ。

いやいや、そんなこともどうでもいい。

肝心なのは、神ってやつは超すげくて超越的な存在者なのに、なんでどうして、人間なんかにそんなに関わってくれるんだ、ということである。

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされた*1のである。
*1:本来は「看病された」「手当てされた」と訳すべきところだが、「精神面に重点を置くべきだ」という本田哲郎の指摘と訳に従う。
ペトロ第1の手紙2:24より / 注釈:らららぎ)

だって、頼んでもないのに「神」が痛みを負ってくれて、私たちはそれに「癒やされた」らしいんだよ。なんてすげえやつなんだ。でも、だから、なんで、そんなに関わってくれるのだろうか。20世紀を代表する神学者のカール・バルトは、神のことを「絶対他者」(der absolute Andere)とか「裂け目や痛みのない全体」(ein Ganzes ohne Risse und Schmerzen)と呼んだ。

宗教という言葉に現実味というか実体を感じている人は、「神があるから→不安を癒され、無知を解消してくれる」という順番で考えるだろう。でも、私のように、宗教を抽象的(あいまいなものとしての考え)に見る人にとっては、「不安を癒やし、無知を解消する(機能の)ために→神がある」という順番で考えるはずだ。つまり、前口上で「宗教」と言われて、すぐに「**教」だとか、「**神」だとか具体的なものが出てくる人は、「神がある→癒される」という順番で考えるし、そういうのが出てこない人にとっては、「癒やすためにある装置→神」という順番で考えるということである。

ここに重要な差があって、たとえば、「瞑想は宗教によって生まれるのか、宗教が瞑想によって生まれるのか」という重大な問いに気付くことができる。特に宗教をキリスト教とか仏教とか具体的なもので考えてしまっている人は、あまり考えたことなかったのではないか。冒頭の神学者が別のページで指摘している「諸君は宗教について何も知らないのに」という指摘は、つまるところ「普段から接してはいるけれど、何も考えていない」という手痛い指摘なのだ。

神とは何だ。宗教とは何だ。

道徳も哲学も、なぜ他者を必要とするのか。

なぜ神は人間と"そんなに"関わってくれるのか。

どうして神は「絶対他者」といえるのか。

宗教は実体なのか、装置なのか。

瞑想が先か、宗教が先か。

ここまで重大な問いをいくつか出してきたが、余計に分からなくなったように感じる。全部を細かく説明するのは、私の実力の範疇ではないので、必要なことだけを記していく。

その昔、アリストテレスは、「zoon politikon」(ぞーおん・ぽりてぃこん)という概念を創りだした。人間は政治的動物であるとか何とか、聞いたことがあるかもしれない。要するに「人間は共同体を作って、それぞれがそれぞれの目的を補う形で活動を分業している」というぐらいの意味である。自分の「外側にいる人たち」が、自分の目的を達成「させてくれる」のだ。何も自己完結しない。いつでも「外側にあるものごと」によって、自分という存在は分業されている

たとえば、病気になったことがあるだろうか。どういう気持ちだっただろうか。<自分>が苦しかっただろうし、<自分>が辛かっただろう。でも自分が苦しいだけなら、自分でどうにかすればいい。いーや、そうは行かないシステムになっている。なぜなら、病気というものに<自分の活動は奪われている>からだ。自分の外側にある病というものに<関係することによって>、「活動が奪われ、休養が与えられる」と考えることができる

たとえば、「信じる」というのは何だろうか。宗教的にも、一般的にも、信じるという行為がある。「天体が回っているのではなくて、地球が回っていると確認しました!証明も書きました!これまで何百億の人にイイネ!をしてもらえた考え方です!今日もどこかでイイネ!をしてくれている小学生がいます。あなたは"信じて"くれますか?」ということを学校やテレビでやっている。子どもたちは、十中八九、「信じてくれる」。過去、誰かが分業して調べてくれたことを「信じる」ことによって、その分業成績を「自分のものにもする」ことができる。

現在の教育は、(教育の御題で書きたかったが)、子どもたちが「よし信じよう、その分業を受け取ろう」と受け身ながらに確信するよりも早く、先生方が「ご親切にも」プリインストールよろしく組み込んでくれるようになっている。それを「サービス精神」だと勘違いしている親御さんからのニーズがさらに激しくなり、いわゆる「優しい先生」(信じてもらえるまで待つよりも早くインストールするのが特技の先生、生き残るにはそれしかない無能な先生)が一点豪華主義的に優秀だと考えられている。学校は、宗教の機能よりも"信じさせる"のが早くなってしまった。それを私は「与える教育」と密かに呼んでいる。知識の過保護なインストール。

私たちは、悔しいけれど、大人になった今でも、世界のことをほとんど知らない。全く知らないと言っても違和感ない。だから、世界中の多くで実際的にも抽象的にも「分業してくれている外部のもの」のことを信じることで、それらを追随的に得ることができた。この間までは、それが、科学だった。世界中で科学という外部存在が、私のために分業してくれていたのである。科学との関係を作って、科学と接続することによって、私たちは世界の多くを手にすることができていた。科学を「信じていた」し、たぶん今でもかなり「信じている」。科学は、この意味で宗教(信じるべき外部としての宗教)的である。(心理的に言って出来ないが)もしお気に入りの学者や人生の恩師のレビューを無視することができれば、私にとって、科学は仏教と同じであり、科学に基づくテキストは、神に基づく聖書と変わらない。性質的な特徴に限っていえば、科学の方が民主主義(客観的っぽくて、再現性に価値を置いている)と言えるぐらいだ。

宗教あるいは科学や哲学や道徳というものがあるおかげで、私たちは「誰かが何かが分業してくれないと無知になってしまって不安になるもの」から解放されている。キリスト教的に言えば、「痛みを神が負ってくれ、私たちは癒やされた」のだ。

私たちが「自分ではないものとの関係や接続」で生きている限り、あらゆるものが宗教的だし、あらゆるものが神と同じ性質を持っていることになる。無知(キエルケゴール的に言えば「無垢」)からの救済。痛みからの癒やし。これを読んでくれているあなたも、昨日入ってきたウィルスも、昼間に出会う弁当屋さんも、週末に行った道徳も、すべてが「他者」であり、「分業者」である。

私の知り合いの社長に、どんな出来事も「不況だから」で済ませる人がいる。不況教だよ。あらゆる物事の動きや原因は、「不況という分業者」によって生み出されているという考えなんだ。だから、彼は、正しく理解しているかは置いといて、不安や無知を感じることなく事業を進めている。不況教において、不況だからと考えることが「聖書の教義」であり、飲み屋でアベノミクスを愚痴ることが「聖書の実践」なのである

宗教の本質は、思惟でも行為でもなく、直観と感情である

なるほど。宗教というものを、宗教というものにしてくれていることは、(何も考えずに)分業者を信じて受け取ることなんだ。自分ではない外部のもの(他者)に対して、絶対的に受け身であることなんだ。だから「誰が神を造ったのか」という議論は意味がないけれど、「神が関わってくれていることは何か=神が分業してくれていることは何か」と考えることは、関係性で生きている人間(つまり人間性であるところ存在)にとって、とても役に立つことなのだ。それは、もちろん、科-学-と-同-じ-程-度-に

ありがとうございました。おわる。

しーゆーれーらー

誕生日の前日という貴重な時間を使って書いた、貴重じゃない記事でしたw)

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