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みんなでしんがり思索隊

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人を呪わば穴二つ ― シャッフルされる主語 / 著者:らららぎ - ch1

ローマ人への手紙12章19節のなかに、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」という命法がある。

高校生の頃は、至極どうでもいい話だと思っていた。パウロの説教を聞くぐらいなら、吉野家で牛丼を食べた方が遥かに有益だ、と。あるいは、元迫害者の説教に耳を傾けるぐらいなら、つゆだくにしようかネギだくにしようか迷ったほうが余程すばらしい、と。それから幾年か過ぎ、そろそろ牛丼に食べ飽きてきたころ、「そういえば、なぜ神の怒りに任せるべきなのか」という神学的な問いが生じたのだったと思う。

たとえば仏教における復讐は「第二の矢」と呼ばれており、負が力を増しながら不必要にストロークすると考えられている。それが「苦」になるからやめた方がよくね?となるのだが、キリスト教の復讐の考え方は少し違う。「自分がもともとどれだけ豊かに許されたかを思い出して相手を祝福しよう、自分を害するやつが裁かれることを求めながら日々を険悪に生きるのはあまり善いとは言えない。そんなことは神(教会)に丸投げして、あなたは自由な心で生きなさい、あなたはそうして良い人なのだ」ということである。

つまり、仏教では「余計な荒波を自分で制して自由になる」のに対して、キリスト教では「険悪な心は神に任せて自由になる」という立場に立つ。彼らは自由になる方法論を異にしているだけで、「復讐、いくないっ!」と教えてくれている。なぜだろうか。なぜ恨むことが苦であり、憎むことが険悪なのか。

人々は「怨みや呪いは、巡り巡って自分に返ってくるから」と教えてくれる。この「返ってくる」というのは比喩である。実際に返ってきているわけではない。では、悪口(愚痴)や呪詛(恨節)が返ってくるとは、何が起こっているのか。脳科学は「人間の古い方の脳は主語を認識できない」と教えてくれる。「You die soon!」と呪ったとき、「die soon」の部分だけが認識され、自分にも適用してしまうのだとか。要するに、誰かの悪口を言った「つもり」になっているだけで、それはほとんど「誰のことを言っているのか分かっていない」(shuffled)のが脳の現状らしい。最初は納得し難い言説だったが、のちに妙に納得した。

もちろん法則というのは演繹的だから、(いつだってそうなる保証はないため)一回一回の適用がギャンブルになるけれど、そういうことが「よくある」と私も思っている。元カレの愚痴や悪口が定番になっている女子会は、この法則でいくと、不幸の会合みたいなものになってしまうのかもしれない。他の女子の悪口にも同調しないといけないから、人数に比例するように不幸が肥大化していく。悲惨だ。

この「人を呪わば穴二つ」ということわざと向きあうことで、私は聖書の言葉を少し理解できるようになった。(それまでは理解しているつもりだった)。そして何より、「自分がこれまで途方も無いくらい豊かに許されてきた」ということに直面できた。この法則と向き合わねば、自分に悪いことをするやつ(電車の中でうるせえやつとか)が裁かれるのを望み、心を自分で蝕んでいたかもしれないと思う。だから、好きなのだ。助けてくれた、助かるのを手伝ってくれた。

鉄は熱いうちに打つべきだとしたら、悪口は早いうちに神に任せてしまえ
(このように、法則の合わせ技なんていかがでしょうか)

ありがとうございました。おわり。らららぎ。

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