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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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嘘 / 著者:エアリーズ - ch3

お初にお目にかかります、修羅の国こと九州は福岡にてボンクラ大学生をさせて頂いておりますエアリーズと申します。以後お見知りおかれましてよろしゅうに。
さて、この「みんなでしんがり思索隊」というグループにひょんな事から参加させていただきまして、まだここが何を目的としているのか、どの様な人々によって活動しているのか、そして自分がどの様な地位・役割を占めるべきなのか(*1)さっぱり分かっておりませんが、幾つか文章を拝見するにどうもこのお題について最初にお話するのが俺にとって都合が良いかと感じましてこの様に筆(正しくはキーボードなのですが)を執らせて頂いている次第でございます。
ちなみになぜこれが都合がいいかと言いますと、大したことではなくて単に「名前の由来を知っていると印象に残りやすく話しかけやすいのではないか」と考えたからに過ぎません。
さて、本題に入ります。私Twitterもさせて頂いておりますがこの「エアリーズ」という名前、中々エゴサーチ(*2)が出来ません。似た様な名前が多いばかりでなく、機動戦士ガンダムシリーズ(*3)に登場するモビルスーツに同名のものがありますので非常に多くの方のつぶやきの中に「エアリーズ」が登場するわけです。
では、私の名前もこのガンダムのモビルスーツから取っているとか、あるいはその更に元ネタに当たる牡羊座を意味する「アリエス(Aries)」の英語読みから来てるのかと言われれば然に非ず。ガンダムは碌に見たことはありませんしアリエスの英語読みだというのを知ったのはこの名前を使い始めてから少なくとも3年は経過した後でした。では、何が私「エアリーズ」の始まりなのか。じつはかなりしょーもないことだったりいたします。
本題に入ると言いながらなかなか入ってないですね。すみません。こういう人間なんです。
私が初めて「エアリーズ」を使い始めたのは厨二真っ盛りの、いわゆる中学校二年生の時でして、当時中学校で生徒会長に立候補していた私は、中学校二年生にして「身長180㎝、体重120㎏」というもはやインパクトの塊ともいうべき対立候補者の同級生に直面して、どうすれば彼より多くの票を得られるか、その為のアドバイスをキャスフィ(*4)という学生向け掲示板サービスに求めました。
それより前にもハンドルネームは一つ二つ持っておりましたが、それぞれ特定のコミュニティの常連ユーザーや自作二次創作小説の作者という限られた機能を持つ名前で、「私自身をネットに落とし込んだ存在」としてのハンドルネームはここで利用した「エアリーズ」が初めてでした。
さて、ようやく本題の由来についてです。
なぜエアリーズなのかというと、当時ハマっていたパソコンの戦略ゲームに登場する一番好きな兵器の名前だったからでございます。
そのゲームは現代に実在する兵器を用いた戦争をボード上で行うもので「エアリーズ」という兵器は日本の「電子戦機」として登場していました。電子戦機とは電子攻撃(*5)を行う航空機で、敵の索敵を邪魔したりミサイルの命中率を落とす効果が期待できました。
直接攻撃しない、つまり自分の意志では人を殺さないで敵の目的を挫く、ITが重要な現代戦のならではの兵器ということで当時は大変気に入っておりまして、自分もそうありたい、要は相手の真正面に出ずに裏で相手の目論見を潰す人間になりたい(*6)と考えてこのハンドルネームでキャスフィの門を叩きました。
重要なのはこの後です。俺はこの「エアリーズ」としてキャスフィでアドバイスを受け、根回し・印象操作・時には半ば買収のような政治術を伝授されて幸運にも生徒会長の地位を獲得するに至ったのですが、その後ひょんな事から俺のハンドルネームに関する重大な事実を感知するに至ります。
違ったんですよ。
「エアリーズ」という航空機は、エアリーズという名前では無かったんです。
俺がプレイしていたゲームではその電子戦機は「P3-Cエアリーズ」と言われていましたが、正式な自衛隊の航空機の名前は「EP-3Cアリーズ」あるいは「P3-CEアリーズ」。知った時はしばらく笑っていました。
なんと滑稽なことか。他の戦闘機や艦船は本物と同じ名前なんですから多分わざと名前を変えたなどということは考えずらく
恐らくは打ち間違えだったのでしょう。それにしてもエアリーズ(Aries)は牡羊座、アリーズ(Allies)は同盟者という意味で何の接点もない。俺はこんなものを厨二臭く自分の分身に採用していたのか。と。
ね。しょーもないことでしょう?
そこで名前をアリーズに変えればよかったんでしょうけど、どうもバツが悪いし、別のサイトで「Eアリーズ」と名乗ったこともありましたがやはり読みにくい。そもそも俺は「エアリーズ」という名前で生徒会長選挙という勝負に勝ったゲン担ぎから間違いと知っても変えるのに抵抗があった……
そうこうしてる内に1年、2年、3年と時間が経って俺を「エアリーズ」という名前で知ってる人が増え、しかも俺の保守的な思考が強く作用して遂に今日8年の歳月を迎えるに至りました。
こう書いていると何ともアホらしいことだなぁと、誤魔化しの多かった自分の過去に重ねて赤面してしまうのですが。
でもまあ、「嘘も繰り返せば真実となる」(*7)なんていうこともありますし、この由来も含めて(*8)俺らしいとも言えるかもしれません。
とりあえず、このハンドルネームをローマ字で書くときには``Aries``ではなく``Eallies``と書くようにしています。

以下脚注
*1:そもそもこのサイトは私に何か占める地位・役割を期待しているのか。多くの場合は最後まで分からないままである。
*2:検索機能を利用して自分の名前を含むツイートを検索すること。他人同士の会話やフォローしていない人のツイートに自分の名前が入っている場合引っかかるので、私のように他人の目が気になる人間には不可欠な作業であるが、私の場合関係ないゲームなどのツイートが余りに多いため、自分のフォロワーの発言に検索対象を限定しなければならない。無意味。
*3:1979年日本サンライズ制作のロボットアニメ。多くのメディアミックスとスピンオフが現在まで続いており、総称して「ガンダムシリーズ」と呼ばれる。ちなみにエアリーズというモビルスーツ(ロボットの一種)が登場するのはスピンオフの「新機動戦記ガンダムW」。
*4:主に中高生を対象とした掲示板サービス。様々なジャンルごとにいわゆる「板」が存在し種々のお悩み相談から学生らしい甘酸っぱい話まで交わされた。どうもここの参加者の方にも過去に利用されていた方がいらっしゃるんだとか。
*5:この手の領域は専門ではないが、幅広い周波数帯に同時に電波を発することで敵の偵察機や早期警戒機、ミサイルの追尾機能などに用いられるレーダーに干渉して友軍の存在や位置を見失わせる性質のものらしい。ゲームをプレイする分には「こいつが入れば周囲何マスかの敵には自分が気付かれない」という事さえ知っていれば十分であった。
*6:この自身の目標はそもそも生徒会長という役職を志す者にとって不適切であったかもしれないが、我が母校の生徒会長はほとんど学校側の予定を生徒にたいして実施する中間管理職であり、裏工作はおろか表舞台で活躍することさえ大して無かったのが事実であった。
*7:ネットではしばしば用いられるが、元はヒトラーの著書「我が闘争」からの引用で、しかも正しくは「嘘が真実に変わる」のではなく「嘘も唱え続ければ大衆は真実と信じてくれる」というという程度のニュアンスなので正しくは間違い。
*8:そもそもこの文章自体が私自身の思考回路や話し方を再現しているところが大きいため、らしいといえばらしい。俺に友人が少ないのも然もありなんである。

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それは根拠を求めたから / 著者:大人たん - ch23

「自分には代わりがいくらでもいる」という命題、それは思春期の少年少女エブリバディが思い悩むこと——という風に御題で紹介されていましたが、私の思春期に、そのような悩みはありませんでした。かつて一度も悩んだことがありません。

そんなこと言うと、大人たんはもしかしてまだ世襲制なのですか? みたいな誤解をされてしまうかもしれませんが、もちろん世襲制でもありませんよ! 私は自分で自分の就く仕事を見つけました。

では、なぜ「そんなこと」に悩まないかというと、別に根拠を求めていないからです。いまの自分が考えていることは(他人からみて)正しいかなとか、いまの自分がしていることは(他人からみて)合っているだろうかとか、そういうことを考えないので、やることなすことに根拠が要らないんですね。今風に言えば「無責任」ということです。

ちょっとデリケートな話題ですけれど、「福島県産の野菜」と言われて、たぶんうちの母親ならヒステリックを起こすのでしょうけれど、私は「別にどこの野菜でもいい。食べてみて美味しくなかったら普通に次からは買わない」というスタンスをとっております。

私、自分以外のものにいちいち頼りながら選択するの嫌いなんです。

福島県産の野菜だったら、「専門家」とか、「被曝数値」とか、「政府の発言」とか、「農家への社会的同情」とか、「風評」とか、いろいろな情報がありますね。そういうのに頼る人は、そういう情報をネットやテレビでかき集めて、吟味して、根拠として成立させようとします。食べる/食べない(スル/セザル)の選択は《自己責任》だから、そうやって頼りになる何かの情報を「言い訳」にして、生きていくわけです。

でも、それって、ちっとも「自己責任」じゃないんですね。単に「最終的に選んだのが自分」なのであって、その根拠となる情報は外部にあります。誰々がこう言ってたから、どこどこでこういうことがあったらしいから、数値によればこうだから、そういう根拠を集めたところで、自分という人体にとって安全かどうかなんて分かりっこないのです。「正確な選択」というのは、彼方まで行ってもやってきません。選択の責任を取るために情報を集めていたはずが、いつの間にか他人の情報を言い訳にしようとしているのです。

つまり、自己責任というのは、集めた外部の情報を《越えていく》ことであって、集めた外部の情報に日和って埋もれていくことではないのです。他人が言っていること、他人が教えてくれたこと、そういう貴重な情報を受け取り、もちろん尊重したうえで、自分で決めるために《踏み越えて行く》ということなのですね。

なぜ私たちが「自己責任」なんてことに悩み始めたのかを話すと長くなってしまうので避けますが、「ギデンズの再帰性」「ポストモダンとヘーゲル批判(国家・道徳・真理)」などに関連することをお調べいただくと、ある程度は分かってくると思います。

さて、本題です。

自分には代わりがいくらでもいる、そう思ってしまうのは、根拠を求めてしまうからです。つまり、自分の固有性を確かめようと、それを保証してくれる情報、それを確実にしてくれる情報を探し回ってしまうのですね——まるで福島県産の野菜が安全かどうかの根拠を探すように。

それを俗に《じぶんさがし》なんて言ったりするわけですが、そんな根拠を「どこか」に求めてしまった時点で、言い訳する気まんまんということになります。親の言葉だったり、友だちの言葉だったり、占いの言葉だったり、カウンセラーの言葉だったり、ネットで見つけた言葉だったり、同じクラスタの言葉だったり、宗教の言葉だったり、そういった誰かの言葉を言い訳にしようとしているのです。自分を探そうとしていたはずなのに、いつの間にか誰かの言葉を探そうとしてしまっているのです。

昔は、そんなの探さなくても「神」とか「先祖(家系)」とかそういうのが《当たり前》だったので、「選ばない責任」に気付かなくて済んでいたわけです。でもいまは、自己責任という概念が流行していて、国家の言葉も、道徳の言葉も、真理の言葉も、神の言葉も頼りにすることができなくなり、自分が「選ばなかったこと」にさえも責任があったことに嫌でも気付くようになりました。

だから、「それに早くから気付けなかったことをコンプレックスに思っている親(私の人生がうまくいかなかったのは早くから気付けなかったせいだ!と思い込んでいる親)」が、自分の子どもに習い事をさせて、選択肢の幅を広げようとするわけですね。そして子どもは、何でも選択できるのだと知り、今度は「何でも選択できるのだから、何かを選択するためにはそれなりの根拠が必要である」と気付き、一生懸命に根拠を探すようになります。

ピアノも習った、習字も習った、剣道も習った、ダンスも習った、英会話も習った、作文も習った、絵画も習った——さてその子は「自分の人生が唯一無二であることを証明するために、どんな根拠で、どの道に進めばよい」のでしょうか。そして、その根拠は、巨額の富を子どもに投資した親(投資家)を満足させるに足りているでしょうか。

親切に提供された豊富な選択肢を前にして何かひとつを選ぶとき、《考えるまでもなくそれが当たり前だから》では許されないのです。固有性というのは、それが当たり前だからという根拠以外では成り立たないのに、選択肢が平等に並べられ、それに「客観的な=他人と一緒に納得できる」根拠が求められたとたんに、固有性は失われてしまうのです。

いまの時代は、もう、「それが当たり前だから」という根拠が通用しなくなっているのです。「いろいろな習い事をさせてもらったけれど、やっぱり私はこの道をいきたい。なぜならそれが考えるまでもなく私にとって当たり前のことだから」という説得に納得する親は、もういないんじゃないですかね。きっと「考えるまでもないってどういこと、ちゃんと考えなさい、あなたの人生なのよ、一回きりなのよ、もう一度、真面目に考えなさい」みたいなこと言うんじゃないでしょうかね。

固有じゃない、つまり代替可能なのも大変ですが、固有なのもまた大変な時代なのかもしれません。どっちにしろ、たくさん不安になると思います。

私は、すごく単純に言って、私の人生のことでいちいち誰かを納得させるだけの根拠を見つけてくるのが面倒なので、無責任に生きているだけですが、それが固有性に繋がっています。きっとその根拠を求め始めたら、一気に「交換できる存在」になってしまうのでしょうね。

つまり…

大人たん「私の人生は固有です。なぜなら考えるまでもなくそれが当たり前だからです」
他人「?????」

という人生を送るか、

大人たん「私の人生は固有です。なぜなら私には先祖がいて、代々家系があり、私はその大きな物語を受け継いでおり、この時代の、この場所に、奇跡的に生まれたからです。あとこんな特殊な技能も持っています。私はこんなに変わった人です。どうか変態と呼んでください。希少価値のある言葉で私を認めてください。私はとても貴重なんです、サブカルなんです」
他人「それは分かりましたが、それは誰でも、大小あるものの、みな同じですよね?」
大人たん「はい…そうですね…(私の人生なんて代替可能なんだ…ッ!)」

という人生を送るか、ということです。

根拠をどんなに挙げたところで、その根拠が他人のものでもある以上、代替可能性が見え隠れします。だったら、もう面倒だから、一般性のある根拠なんか提示しないで、「それがそうであることが当たり前だからです」と言ってしまえばいいのだと思いますよ。

「自分の代わりなんて〜」と悩んでいる自分が好き、という特殊な嗜癖を持っている方でなければ、今すぐに固有の人生を送ることができます。他人からの理解や共感は一気に減りますが、それが固有に生きるということです。他人と群れたり、集団に埋もれたりすることに安心感を憶えるのであれば、別に無理して固有になる必要はないと思います。代替可能であることを嘆くこともないと思います。

自分の好きなほうを、好きな風に生きるのが、ベターだと思いますよ。









(編集責任:らららぎ)

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きらきらをまとう /著者:草薙菫 - ch2



 きらきらとしたひとたちに憧れてきました。きらきらとは、若さあふれるひとたちの輝いてみえる様を指します。

 その話をする前に、スクールカーストについて話をせねばなりません。

 わたしはスクールカーストを過敏に感じ取る子でした。そして上位のひとたちに怯えていました。いつからでしょう。

 小学高学年の頃、クラスの女子全員でまわす交換日記があったのですが、そこからもれた女子が三人いました。足が不自由でお風呂になかなか入られないために、菌呼ばわりされていじめられていた子。わがままで、ひとを呼ぶときにつばをつけた手で肩をたたく癖があるとうわさされていた子。そしてわたしです。

 いちばん好きな遊びがかくれんぼうで、「いちばん好きな自然はなあに? わたしは風が好き」といった話を好んでいたから、馴染めないのもわかります。おそらく周りより、精神年齢が3年ほど遅れていたのです。

 思春期に突入した子どもは誰でもそうだと思うのですが、その頃のわたしにも同じく自意識というやっかいなものが芽生えていました。それまでも不思議な子として認識されており、クラスにいる知的な障がいを持つ子と同じようにとらえられているのでは、と、プライドを傷つけられそうで自由に振る舞えなくなっていたのですが、そこに自意識が芽生え、混沌とした状態にありました。

 その混沌により、男子との口のきけなさが徹底的になりました。それはもしかしたら、以前に露出魔に追いかけられたという経験が端を発したのかもしれませんが、モテたいという気持ちが大きかったというのもあり、相関的に男子への意識がより大きくなっていたのです。このひとはわたしへの好意があるのでは、と些細なことで勘ぐったり、隣の席に座る男子につばを飲みこむ音を聞かれたくなくて、わき出てくるつばを口のなかにためてどうすることもできなくなったり、としていました。多目的ホールで自由時間があったとき、寝っころがって頭をひじで支えるという、モデルのような (と考えていた) ポーズをとったこともあります。おいあれみろ、と男の子たちにひそひそされました (黒歴史です)。

 最終学年となり、係り決めをするとき、同じいきものがかりになった女の子と仲良くなりました。その子と仲良くなるにつれ、クラス内の権力がわかるようになりました。その子は、最も権力を持つ女の子とも仲良くしていました。スネ夫みたいだと思った記憶があります。Sちゃんと呼びます。Sちゃんと仲良くなったことで、筆箱から色ペンが無くなり排水溝から見つかる、という嫌がらせがなくなり、クラスの子たちから話しかけられるようになりました。

 Sちゃんはちょっぴり悪い子でした。放課後に、購入を禁止されているのに自販機でジュースを買ったり、公衆電話のフリーコールでクラスメートの住所と名前を使って注文をしたりしていました。いきものがかりの当番では、亀を排水溝に流したり、鳥箱をあけて卵を下に落として割ったりしました。しかし、Sちゃんとそういう悪事をすることも、楽しく感じていました。ふたりだけの秘密があるということが、親密である気持ちになったのです。

 権力を持つ子に気にいられようと、その子たちの真似をし始めました。読む本に携帯小説を取り入れたり、いじめられている子のいじめに参加したりしたのです。しかしそれでも輪に入ることはむずかしく感じました。

 中学に入ると、はじめのクラスでは権力を感じずにいられました。特別仲のよい子はいませんでしたが、孤立していたわけではなかったからです。しかし小学生の頃に最も権力を持っていた人は、隣のクラスでわたしの親友をいじめていました。本人曰く、それはドラマにでてくるようなレベルで。

 Sちゃんは別の学校へ行き、あとで別の子から、あの子と関わるのは止めなさい、あの子は教室で財布からお金を抜き取ってまわっているのが発覚して停学になったのだ、という情報を聞きました。

 人間関係はどろどろとしています。カーストの上にいるひとたちは、ひとの悪口を言うことでまとまりを得ているのではないかと感じていました。しかしそのひとが悪口の対象となるのなら、わたしがその対象とならないことがあるでしょうか。

 わたしが怖れていたのは、輪からはじき出されることでした。その権利は、カーストの上のひとたちにあります。彼女らは誰かをクラスから排除することができるのです。

 当時入部していた部活動は、その縮図でした。

 女子の部活動でいちばん上下関係が厳しいといわれている部活です。天気が悪い日とテスト週間以外は、休日祝日含め、毎日ありました。わたしはそのスポーツが好きでした。ラケットにボールがあたる音、走ってボールに追いつき、ラケットを振りきる感覚、そういったものに気持ちがすっきりとしたからです。

 そのため、先輩たちからの説教や圧力には耐えられました。むしろそのために同学年の結束が強くなったようにも感じました。

 問題は、下級生が入部し、権力が自分たちに生まれたころから発生しだしました。

 もともと同級生たちは同じ小学校出でグループがはっきりと分かれてはいなかったのですが、それが二分しました。正義感の強いわたしの幼なじみが権力を握るグループと、性格のキツいお嬢さまタイプの子が権力を握るグループです。幼なじみグループでは、幼なじみ以外はクラスでいじめや無視をされる階級におり、お嬢さまグループでは、最も華のある階級かそのひとつ下の階級にいました。幼なじみグループのみんなとは小学校からの友だちであったため、わたしははじめ、幼なじみグループに所属していました。

 わたしはしばらくお嬢さまに気に入られました。そしてその子とともに、幼なじみの悪口を聞こえる場所で言ったり、応援歌の歌詞を変えて幼なじみをけなすように歌ったりしました。動物への加害やいじめの参加と同じく、わたしはその行為を“親密な秘密”といった気持ちで楽しんで行っていました。その行為をとることで、幼なじみの心を痛めつけ、拒絶されるようになるとは、これっぽっちも想像していなかったのです。しばらく、幼なじみから仲間内に、わたしと口をきくなという指令が出されました。

 幼なじみやその仲間と口をきいてもらえるようになった頃、お嬢さまから嫌われるようになっていました。彼女へ恐怖を抱くようになったからです。

 通っていた塾には、幼なじみグループのふたりも一緒に通っていました。幼なじみと、O子ちゃんです。わたしはO子ちゃんが好きでした。いえ、O子ちゃんだけではありません。幼なじみグループの権力を持たないひとたちが好きでした。彼女たちとの帰り道は幸福な時間でした。なぜ不幸だと悩むひとたちはこんな簡単なことが出来ないのだろうと不思議に思うほどに。

 幼なじみ以外の子たちと同様に、O子ちゃんはクラスに溶け込めていませんでした。そして仲が良かったはずなのに、3年生になる前後、その権力を持たない (とわたしが思っていた) 友だちから、あの子はオタクだからという理由で避けられ、ある日をきっかけに部活から姿を見せなくなっていました。事件はその頃に起こりました。

 部活を辞めた後、塾へ来たO子ちゃんは、おずおずと「隣に座ってもいい?」とわたしに聞きました。どう接したらよいのか戸惑っていたわたしは言葉なくうなずくと、O子ちゃんは隣の席に座りました。教室に幼なじみが入ってきて、「お前、なんでそんなやつの隣に座ってるんや」と言いました。わたしは「しょうがないじゃん」と答えました。そして授業がはじまり、O子ちゃんは隣で声を殺して泣いていました。

 それからO子ちゃんと話しをすることができなくなりました。

 わたしはこの出来事にすっかり参ってしまいました。

 だれかを傷つけるくらいなら、自分を傷つけよう。グループのなかで必死に振る舞って疲れ果てるくらいなら、ひとりで過ごそう。そう心に決めた覚えがあります。

 それから「所属」がわたしのテーマとなりました。

 高校に入ってからは、人間関係のどろどろとした部分が薄れたように感じました。あからさまな差別を目にしなくなったからです。しかし、わたしの中にあるスクールカーストへの恐怖心は無くなりませんでした。きらきらと青春を楽しんでいるように見えたのは、スクールカーストの上位のひとたちだけでした。しかしわたしは彼や彼女らが怖かったのです。きらきらに憧れ、焦がれながらも、わたしは彼/彼女らにはなれないと感じました。誰かを排除してしまうからです。

 中学で入部していた部活動で集団への所属がトラウマとなった (小集団では排除のリスクが高い) わたしは、高校で美術部に入部するも、3ヶ月しかもちませんでした。部活動に居場所や青春を求めることもできなくなったのです。



 命は等価ではないのでしょうか。人の価値って、なんでしょう。よいとされるものを残せること? 多くのひとに影響を与えられること? だれかに強く必要とされていること?

 わたしはひとの価値基準として、「誰かから最も愛されていること」を重要視するようになりました。選ばれなかったひとは死にゆくゲームがあったとして、誰か愛するひとをひとり生き残らせられるとしたら誰を選ぶか (相談不可)、という想像をよくしていました。そしてひどく孤独でした。わたしはその想像ではかならず生き残らなかったからです。

 きらきらをまとっているように見えるひとたちは、集団の中心や、才能を発揮できる場所や、愛を放射している恋人の隣にいて、青春をあびていました。

 きらきらとは青春です。青春とは、

たとえば——クラスのバレーボール大会で勝利をおさめたときに何のためらいもなく、みんなで飛び跳ねながら手をたたき合っている輪に入っていけることです。

たとえば——学校の帰り道に川辺で恋人と語り合い親密な時を過ごすことです。

たとえば——夜中に友だちと何時間も話し込んで思想や感情や出来事を共有することです。

たとえば——感覚表現の世界に打ちこみ周りから評価されることです。

たとえば——仲間と呼べるひとたちとの集まりで開放的な気分で様々な思い出をつくることです。

 輝きを得られないわたしは、生に対する執着が強すぎて成仏できなかった幽霊のように、青春に未練を残しながら、生き残れなかった人間として生きていく他ありませんでした。わたしはこんな人生を歩むつもりなのではなかった、と、別の人生に焦がれながら。

 失われた日々。

 するすると踊るように流れた日々より、上手くゆかずうめくように進んだ日々のほうが、濃密であると聞きます。

 身をひそめるようにして生きた青春の日々。きらきらに焦がれたわたしの青春。

 過去を回想して物語ることは、現在の心情に影響されます。いつか憧れの暮らしのなかで、わたしはすこしずつ自分が幸福であったことを発見してゆくのでしょう。そこで見つめ直された過去のわたしは、すでにあの焦がれていたきらきらをまとっているのです。








(編集・校正責任:らららぎ)

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鰯は僕らより遥かに死の端に近い / 著者:めがね - ch18

どうもめがねです。

事の発端は今日。そう、まさに建国記念の日で世の中が祝日で浮かれきっているこの日。
新宿で外国人がPVの撮影なんかをしていたり、ミスタードーナツでカップルが100円セールだと言ってこれみよがしにドーナツを食っている最中僕は衝撃的な事実を耳にしたのだ。

友『鰯って鱗取れただけで死ぬらしいですよ。』
僕『え?マジで?くっそ雑魚いじゃん。』

そう読んで字の如し「魚偏」に「弱い」と書いて「鰯」(イワシ)。

彼らは鱗が取れると体温調節が出来なくなって死ぬのだ。Oh…。なんてこったい。
それなのに彼らは鱗と鱗が接触しない絶妙な空間把握能力で群れを成して泳ぎ、朝鮮人民共和国の軍隊も顔面蒼白にして逃げ出すような一糸乱れぬ勢いで方向転換をする。驚くべき集団である。
よく『マイノリティは叩かれる』だのなんだのと人間はいうけれども、鰯にとってのマイノリティ、つまり『集団の輪を乱すものの存在』=『集団の魚の死』なのだ。
だって鱗無くなったら死ぬんだもの。辛い。なんて辛いんだ鰯の世界。常にギリギリじゃないか。
彼らにはひょっとして統率者がいるのだろうか、あの集団を一糸乱れぬ動きを一括管理できるカリスマ鰯がいるのだろうか。もしくは鰯の脳は実は攻殻機動隊のタチコマの様に情報の並列化が行われているのだろうか。そんな事を考えると夜も寝られない。(寝るけど)
もし一匹の鰯が死んだら喧嘩とか罪の擦り付け合いなどが起こるのだろうか。

鰯A『おい鰯Xが死んだぞ!!誰だ今Xに当たったヤツ!!規律をみだしたのは貴様か鰯B!!』
鰯B『俺じゃねぇ!!俺は悪くねぇ!!距離を詰めてきたのは鰯Cだ!!俺じゃねぇ!!』
鰯C『なんだとてめぇ!!鱗剥がすぞコラ!もとは言えば鰯Dが…』
鰯D『違げぇよ!!それを言うなら鰯Eてめぇコラ…』

以下略

醜い。実に醜い。こんな事だったらほんと醜いよ鰯。
それとも仲間の死すらがん無視の『てめぇの血は何色だ!?』みたいな殺伐とした雰囲気なのだろうか。うーん。謎は深まる。
鰯がいつも《死の端っこ》に居るなんて、人間で考えてる人なんてそう何人もいないだろう。
頑張れ鰯。負けるな鰯。そして人間が祝日で浮かれている今日も、集団で生きるという生存戦略を繰り広げているのだろう。

おわる。



PS.体温調節が出来ないと死ぬので人間の体温で触らても死ぬらしいですよ。うーん。ギリギリ。








(編集・校正責任:らららぎ)

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【企画】自動販売機とコミュニケーション

面白そうなコンテストを見つけたので、しんがりの皆さんに考えて欲しくてお題を投げます。

JVMA Creative Award 2015テーマ
「自動販売機とコミュニケーション」
http://www.jvma.net/award2015/index.html

JVMAは、「日本自動販売機工業会」という社団法人です。
名前の通り、自動販売機やATMなどの現金取扱機器の発展を目的とした団体です。

今回のテーマは、上記の通り「自動販売機とコミュニケーション」です。
昔から身近にある、自動販売機との斬新なコミュニケーション、考えてみませんか?

締切は【2/27】です。

作品の提出形式は絵でも文章でも自由ですが、作品規定に[未発表の作品]とありますので、しんがりで発表しないように気をつけてください。

興味を持たれた方は、ぜひぜひご応募を。
それでは。



(黄色より)

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『打破』の仕方 / 著者:西洋中世史たん - ch22


 人は何かしらの問題を抱えていることと思います。その大きさは何であれ、それが解決されてもまた次の問題が持ち上がるでしょう。問題は一度に何個もおこるかもしれません。

 問題を抱えているということは、逆に言えば生きているということであるように思います。

 さて、『打破』する方法はいろいろあります。ひたすら頑張ること、頭を使うこと、そして何もしないこと。

 問題を解決するのには時間がかかることもかからないこともあるでしょう。問題の難易度もいろいろあるでしょう。

 問題を『打破』するためにはタイミングも重要かと思います。何度やってもダメなときもあるでしょうし、何をやってもダメなときもあるかもしれません。

 でも、時間を置けば新しい考えが生まれるかもしれません。問題を整理できるかもしれません。自然解決できてしまうかもしれません。

 文字通り「時間が解決する」というやつですね。

 私が「時間が解決する」っていうのもなかなか重要だと思うのですね。

 問題にぶつかったとき、それがどんな種類のものであれ、じっくり時間を置いておく、しかもその間その問題については考えない。そんな時間を作るというのも一つの『打破』の仕方だと思うのです。






(編集責任:らららぎ)

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油そばとかバイオとかモノマネとか / 著者:寝返りレタス - ch7

お久しぶりです。寝返りレタスです。早くもあみめでぃあが行き詰まっているので気分転換に書きます!

思い出の詰まったメンタルブロック、ということで。。



*油そば


(図1)

 我が家で「私のメンタルブロック」といって最初に名の上がるのが、こいつ——油そば。今ではすっかり大好きな油そば。それでも最初はメンタルブロックがっちがちでした。

 東京に住み始めてすぐのころ、同居人と秋葉原を歩いていたときのことです。晩御飯に何を食べるか悩んでいたら、同居人の提案したのが「油そば」でした。

でもさ、油そばって!「油」「そば」って!!

 私の頭には、なんかよおわからんギットギトの油に塗れただけの麺が鎮座している絵が浮かんでいました(図1参照のこと)。こちらに来てすぐのころはあまり食欲も振るわず、油ものを食べきるのが厳しかったこともあり、

えー無理…だって《油そば》でしょ……似たようなやつならラーメンでもいいじゃん!!

とか言って逃げようとしましたが、そこは目ざとい同居人、逃してくれるはずがありません。

「食べたことないでしょ!ラーメン好きなら絶対好きだから!」

と押しに押され、しぶしぶ入店してみたのです。

 はい、お察しの通り、ハマりました(はーと)。美味しそうに食べる私を見て、隣に座る同居人が「どう?ww」と訊いてきたときは、悔しいやら恥ずかしいやらで「……美味しい」と答えるのが精一杯だったのを憶えています。

 前述の通り、今では油そばが大好きですよ。当時から好きだったラーメンより頻繁に食べています。早稲田周辺の美味しいお店に、ひとりで食べに行ったこともありました。

 メンタルブロックって怖いなあと最初に感じたのが、油そばでした。


*バイオハザード

 最近我が家で大ブームのゲームです。カプコンから出ているホラーアクションアドベンチャーゲーム——『バイオハザード』。ゾンビとか寄生虫とかのアレです。

 どうして苦手だったのか、その理由はかなりはっきりしています。私が苦手な男の子が、大好きだったからです。

『バイオハザード』が大好きな彼は、しょっちゅう「ゾンビが人間を食べるシーンのモノマネ」と称して、いろんな人に近づき、付き纏っていました。家でやるならまだしも、公道でやるのは迷惑だし恥ずかしいからやめてほしい、と常々思っており、それがどうも苦手でした。

 それに、『バイオハザード』を知らないからどう反応したらいいのかわからないのです。実際にやればわかったのかもしれませんが、私の両親は『バイオハザード』のようなゲームに対して強い偏見を持っていて(まあだいたいどんな家庭でも、あまりいい顔はされないと思いますが…)、借りることさえもままならず(というのは言い訳ですが…)。その結果、『バイオハザード』は、私の偏見の山に投棄されたままでいたのです。あと、据置型のゲーム機よりも携帯型のゲーム機を多く持っていた、というのも少しは関係あるかもしれません。

 この家に来て、ゲーマーな同居人の影響で、ゲームに触れる機会が急に増えました。『バイオハザード』は、そのうちのひとつです。やってみると、面白いのなんのって。私はアクションゲーム全般がへったくっそなのですが、それでも楽しいのです。

 今では私が『バイオハザード』の真似をして遊んでいます。敵クリーチャーや主要キャラクターたちのモノマネはもちろん、BGMや発砲音、SEまで再現して遊んでいます(遊んだ気になっている、とも言います)。


*モノマネ

 そうそう、前述の『バイオハザード』にも関係しているのですが、私は昔からモノマネを誰かに披露するのが苦手でした。昔はよく犬の鳴き真似とかポケモンの真似とかしていたのですが、似すぎて引かれたり、あんまり思うような反応が得られなかったりで、いつの間にか真似をすることが減っていました。単純に「恥ずかしいから」という理由も少なからずあります。

 ただ、最近になって、声優を志望する者、つまり表現者として恥を捨てることが前提でなければならないと感じ、それを当たり前に実行している同居人(またか!)を見て、「これじゃいけない!」と思ったのをきっかけに、いろんなモノマネをやるようになりました。

 だってね、同居人ったら、「トポルジック・メンテコリアの真似して!」なんて架空の名前を出されても、やってくれるんですよ。どんなにクオリティの低いモノマネも、みんなが笑うならとどんどんやっちゃうのです。その姿勢を見て「負けてられない」と思いました。ほんの数十日だけ一緒に暮らした年下の同居人も、そういった点でかなり強かったので、ふたりの影響は計り知れません。

 最近は、仲の良い友人や、ポケモンや、ゲームの真似をしています。なかなか楽しい。下手でも笑ってくれる友人の存在というのは大切ですね。上手いと「上手いね!」って言ってもらえるのもとても励みになります。

 ただ、「ロッテ・キシリトールガムのモノマネやって」とか「回転寿司の真似して」という無茶ぶりに応えるだけのメンタルがまだ無いので、そのあたりが今後の課題ですね。顔芸がダメなんです。せめて「できない」から「やらない」に底上げしたいので、頑張ります。実はこっそり、顔の筋肉を動かす練習なんかもしてるんですよ。夜道、ひとりで自転車を漕ぎながら、変顔の練習をしている不気味な女がいたら私だと思ってください。


 今ぱぱっと思い浮かぶのはこんなところですね。まだまだまだまだ死ぬほどあったし、実際にあるのですが、私にとってはどれもこれも大切な思い出です。《私の心の奥の奥で跡地となってしまったメンタルブロックの在処》が、今ではかえって思い出深く、時が経つ分だけ愛おしく感じられるのは気のせいでしょうか。

《いろんな人の存在で私の趣味や嗜好ができてゆく》というのは、私の生を支えてくれている重要な部分です。

 これからもいろんなメンタルブロックにぶち当たるのでしょうし、その分だけ乗り越えていって、人生の幅を広げたいですね。今回はこんなところです。



お読みいただきありがとうございました。寝返りレタスでした。







(校正・編集責任:らららぎ)

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