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みんなでしんがり思索隊

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信仰と共同体の分離は可能か / 著者:ドーナツ - ch12

このタイトルだけ見て「?」となる方は少なくないだろう。
だが、私にとっては人生をかけても良いと思えるほどの問いなのだ。
答えを出すことはまだ出来ないが、この問いを解きほぐすことによって、私の宗教に対する考え方を多少なりとも提示できたらと思う。


日本人は無宗教とよく言われる。
確かに周囲の日本人を見る限り、明確な信仰を持った人は決して多くない。

だからそういう日本人は「宗教と距離を置いている」とでも言うのだろうか。
正直言って、それを聞くたびにイライラする。
明確な信仰を持たない日本人がどれほど信仰に出会ってきたか、また出会おうとしてきたか、が重大ではなかろうか。

信仰の姿を目の当たりにすることなく、宗教を食わず嫌いするのはあんまりではないだろうか。
いや、これは私の独りよがりな意見なのかもしれない。
でも、もしかしたら、宗教の連帯感みたいなものが人々を宗教から遠ざけているのかもしれない。

それについて書いてみよう。



私は宗教的にとても多様な環境で暮らしてきた。

幼稚園は神道系で、毎週神社でお参りしていた。
小学校は公立だったが、中学高校はミッションスクール。
現在は国公立の大学に通っているが、専攻がアラビア語なので必然的にイスラームやムスリム・ムスリマに接することが多いし、なんかよくわからないけどイスラエルとかやっちゃってるのでユダヤ教も多少は勉強せねばならない立場である。
で、実家はどうかと言うと、地元に多い宗派の仏教だ。

それぞれ宗教の礼拝の動作も何となく習ってきたし、信仰者の姿も何となく見てきたし、キリスト教・イスラームでは特に「教会」と呼ばれる場所を訪れ、信者のコミュニティーにも出会ってきた。
そういう経験を21歳までにしてきて、私なりの宗教観や信仰の有無がはっきりしていったわけだが、ひとまず私にはどうも一神教の考え方が合っているらしいので、キリスト教のどこかの教派に改宗しようと思っている(と言い始めてもうすぐ5年ほどたつが、大丈夫だろうか)。

真面目に改宗を考えるにあたってとりあえず教会へ行かねばならないわけだが、教会というものは非常に共同体意識の強い場である。
なので、根無し草で生きている(ましてやアラビア語専攻でイスラエルを研究対象にしようとしている)学生である私にとって教会は、決して入り込みやすいコミュニティーではない。
だとしても、教会の人々とは「同じ信仰を持つ者」なので何となく受け入れてはもらえるのだが……

もしかしたら、教会の「共同体」が外から見たら非常に気持ち悪いものなのかもしれないと思った。
キリスト教(←よくわかんない)を信じる人々が老若男女問わず集まって(←なんで集まってるのか理解できない)なんか礼拝してる(←何してんのか分かんないしなんか気持ち悪い)のだ。
気持ち悪くないはずがない。
私だって、キリスト教の教会を訪れると、「そんな、わざわざ自分たちの信仰を露骨に口に出して確かめ合わなくてもいいでしょうに」と思ってしまうことがあるほどだ。

信仰などという底知れないものを軸に集まった集団の連帯感。
外の者を寄せ付けない雰囲気がある。

これが「共同体」の話だ。



それでは、考察対象を個人に向けてみたらどうだろうか。
個人を見ようと思うと、必然的に信仰とはいかなるものかを考えることになる。

スピッツの名曲「空も飛べるはず」にはこんな歌詞がある。
幼い微熱を下げられないまま 神様の影を恐れて
隠したナイフが似合わない僕を おどけた歌でなぐさめた
(作詞・作曲 草野正宗)

また、これと対照的な内容の歌詞が松任谷由実の「やさしさに包まれたなら」に現れる。
小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
(作詞・作曲 荒井由実)

このように、今は大人となってしまった私たちも、信仰の有無にかかわらずなんとなく神様めいたものを幼少期に思い浮かべたことがあるのではないだろうか。
神様のような、人間を超越した存在を何となく意識しながら生きること、これが私にとっての信仰である。

私がそう思うのは、ミッションスクールであった学校やお祈りをするムスリムの姿、もっともっと遡って幼稚園のときにお参りしていた神社のことを思い出してそう思っただけなのだ。
身体に染み付いてしまったし、そう思いながら生きていくのが生きて生きやすいだろうと何となく分かってしまったという、ただそれだけのことなのだ。

もちろん、信仰はそのようなことでなくたっていい。
友達は大切にするとか、ありがとうとちゃんと言うとか、そういう倫理観も信仰みたいなものではないだろうか。
信仰は別になくても生きていける。
だが、あったらあったでその人の人生を豊かにしたり円滑にしたりしてくれるものだ。




ここまで書いて、当初の「信仰と共同体の分離は可能か」というテーマに戻る。
私は(正直いろいろめんどくさいので)私自身の信仰とそれを軸にした共同体(=教会)は切り離せないかなぁという方向に向かっているが、教会でちゃんと洗礼受けなきゃいけないよな、と考えている当たりどうも完全な分離は無理であるように思えてくる。
宗教というものがここまで続いてきたのは、共同体を自らの宗教の思想を共有してきたからだ。

私がきちんと洗礼というプロセスを経てキリスト教徒になろうとしている理由は、自分自身に「キリスト教徒」というレッテルを貼ってしまうことで「一神教的な価値観を持っている人」というレッテルも貼ってしまいたいからだ。
だが、この洗礼という過程は「共同体(=キリスト教会)が信じている思想を信じますよ」と宣言してしまうことにもなるので、なかなか世間は世知辛い。
いや、それも全く間違ってはいないのだが……



グダグダ書いてしまったが、最終的に提案したいのは、「宗教の信仰としての性質と共同体としての性質を分離して考えても良いのでは?」ということである。
だらだらと○○教の教義を勉強するというのは最低限でいいです、ぜひ信仰を持つ人と出会ってみてください。



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