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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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紙はなんでも欠けている / 著者:ちくわ - ch25

ぼくと紙について。
ぼくと紙の、関わりについて。

紙に関わるとはどういうことでしょう。それは、紙を紙にすること、ではないでしょうか。ぼくが紙に寄り添ったとき、初めて紙が紙となる。そんなはたらきかけを、関わると呼ぶのではないでしょうか。

何かに「関わる」というのは、欠けている部分にこちらが手を加えて、完成させることなのです。

ラブやで~には、人の声が欠けています。(*) だからラブやで~に関わるとき、ぼくたちはそれを声に出します。声に乗って「ラブやで~」が発されたとき、初めて「ラブやで~」は「ラブやで~」になるのです。
漫画には、時間が欠けています。(**) だから漫画に関わるとき、ぼくたちはそこに時間を重ねて読みます。そこに読者なりの時間が流れ始めたとき、初めて漫画は漫画になるのです。
劇には、視点が欠けています。だから劇に関わるとき、ぼくたちは"観"客としてその劇に参加します。「この席から、この距離で、この角度で、この音の届き具合で、見たお芝居」という見方が生まれたとき、初めて劇は劇になるのです。

ぼくたちが何かに入り込むことができるのは、そこになにか足りないものがあるからです。それをぼくたちが補うことで、ぼくたちはそれに「関わる」ことができるのです。


紙というのは、そんなふうにぼくたちが入り込めそうな「ポジティブな物足りなさ」にあふれていて、それゆえに、関わり方も無数にあります。

たとえば、紙には「位置」が欠けています。
だから、ぼくはそれをどこにでも置くことができます。

紙を触るのが好きでした。紙は、ひっくり返すことも、斜めに置くことも、ぶらさげることも、やわらかく曲げて固定することだってできます。パソコンや携帯に表示された文字は、いつだって画面に収まっていてそこから動くことはありませんが、紙は位置も、形も、自分が決めることができるのです。そのせいで紙の山の中に埋もれ、どこにやったかわからなくなるわけですが……。

たとえば、紙には「立体感」が欠けています。
だから、ぼくはそれに高さを織り込んで(折り込んで)やることができます。

紙を折るのも好きでした。一歳だか二歳だかのころ、ぼくは一日に何百機も紙飛行機を折っていたのだと、聞かされたことがあります。折り紙も好きです。小学生の頃に折り紙の本を読んで、いつか悪魔や竜を折ってやろうと思っていました。けっきょく今でもまだ蛙しか折れないので、蛙しか折りませんが、一匹折れば満足するので、それでよいのかもしれません。箸袋で蛙を折ると、蛙は箸置きにもなりますね。箸を守っていた紙と、ぼくの<折る>という関わり方が組み合わさって、箸袋は箸置きになるのです。

たとえば、紙には「広さ」が欠けています。
だから、ぼくはそれに広さを与えてやることができます。

紙に描くのも好きでした。小中学生のころ、弟だけに読んでもらうマンガを、ひたすら描いていました。続けて練習したことがないので、人に見せられるようなものは描きませんが、自分で描くぶんには、紙と鉛筆さえあれば何だって描けるというのは素晴らしいことですよね。限られた紙の中に、海だって山だって、地球だって宇宙だって、無限に近い広さを押しこめることができます。描き終えることのできる小さなスペースだけを有する紙、そしてぼくの<描ききれないはずのものを描く>という関わり方が組み合わさって、キャンバスは絵になるのです。

たとえば、紙には「言葉」が欠けています。
だから、ぼくはそれを言葉で埋めることができます。

紙の上に文字を書くのは大好きでした。高校生になったばかりのころ、一冊のノート(***)を数人の友人で回しながら、お題を決めて1ページずつ掌編小説を書いていました。左に小説、右にみんなの感想……あずき色のリングノート。今でもぼくの部屋(のこのうずたかく積もった紙の山の中のどこか)にあるはずです。

頭で考えるのでもない、携帯で打つのでもない、パソコンのキーをタイプするのでもない、言葉を紙に書くというのは不思議なものです。紙には摩擦があって、画数の多い字を書くには相応の時間がかかりますね。要するに、現実世界で鉛筆を動かすための物理的なルールにぼくは抗えないわけで、なんだか「ぼくが書いている」というより、「ぼくと紙が書いている」と言うほうがしっくりきます。そういえばある先輩は、紙に言葉に書くことで、情報処理速度を落ち着かせて思考のオーバーヒートを止めると言っていました。じっさい、紙の上につらつらと文字を書くことは、何かのリズムを作っているように感じられるときがあります。思いついた言葉をリズムまで含めて書きとめたり、難解そうな文章や数式を書き写してそのリズムを掴んだり。そういったときに紙と鉛筆はぴったりだと思います。現実にでーんとある紙の存在に、ぼくの<言葉を書く>という関わり方が組み合わさって、紙はぼくの世界になるのです。


そういうわけで紙というのは、真っ白で、薄っぺらくて、面白味もなさそうな形でぼけーっとしていて、ポジティブな物足りなさにあふれています。抜けていると感じたものをそっと足してあげれば、どんな関わり方だって許してくれる、そんなほんわかした空気を紙は持ち合わせているのです

色が欠けていると思うなら、色を塗りましょう。
物語が欠けていると思うなら、物語を綴りましょう。
運動性が欠けていると思うなら、キムワイプ卓球をしましょう。

さて、今日は、紙のどこを埋めようか。

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<註>

*
隙間だらけだから、人の気持ちや体温が入り込みやすくて、馴染みやすいのがラブのいいところです。わかりやすくきらきらしているわけでもなく、また隙間が多いから変形しやすいので見失いがちになるのが困っちゃうところですが、それこそ「ラブやで~」の一言で、「あ、そうだった、ラブだった!」とラブに立ち返ることができます
「ラブやで~」の連鎖 / 著者:菖蒲 - ch1



**

***
春先に、このノートの話をらららぎさんとしていました。何それ面白そう、ブログでやろうよ、みたいな話になったのか、どうなのか、はっきりとは覚えていませんが、そんなこともあって生まれたのがこの ― みんなでしんがり思索隊 でした。ここは紙ではないけれど、ぼくにとっては紙のずっと先にあった場所だったりするのです。たくさんの方が参加して下さって、そしてたくさんの方が訪れて下さっていることを、本当に本当に嬉しく思っています。ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします。ちくわでした。

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