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みんなでしんがり思索隊

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居場所をめぐる長い長い旅 / 著者:草薙菫 - ch10


 あなたは「居場所がない」と感じたことがありますか?

 新しく入ったばかりの職場や教室や部活動で、まだ仲良く話せる人がいない状況にあるから。いままで仲良くしていたはずのグループの中で、無視されるようになったから。《居場所のなさ》を感じる要因は、人によってたくさんあると思います。

 「居場所」は、「居場所がない」と感じられたときに、強く意識されるものです。
 わたしにとって、それは時々訪れます。

 たとえば、放課後。

 その後に予定のない放課後は、たいてい、家に帰るか喫茶店に行って勉強や読書をするかなのですが、どこへ行っても不正解な気がするのです。どこに行っても身の置き場がないように感じられます。そんな時、わたしは街を放浪します。「居場所のなさ」を引き連れて。

 たとえば、同じ年頃の人たちがつめこまれた教室の中。

 大学では人間関係に挫折して主に一人で過ごしていたのですが、教室によっては、一人で授業を受けているとき、涙があふれでてきたり、これ以上その空間にいることができずに退席したりしました。その時の感情を言葉にすると、世界に身の置き場所がない、といった感じでしょうか。落ち着かず、心細く、惨めな感じ。

 そんなわけで、わたしは人よりも「居場所」を強く意識するようになりました。

 卒論では「居場所のなさを抱えて生きてきたものが、日常場面で居場所を感じられるようになるとき、そこにはどのような精神力動が働いているのか」といった内容をテーマにしました。そこで知ったことや考えたことを踏まえて、わたしの場所についてお話します。

 「わたしの場所」という言葉の並びを見たとき、恋愛経験のない夢見る乙女のように、恋人や仲間がいる空間に、代替不可能な存在として、心から笑ったり泣いたりしているわたしを夢想します。実際に、ここが「わたしの場所」だとはっきりと感じたのは、わたしの存在を何よりも大事に想っていると感じさせてくれる人との関わりの中でした。

 わたしには、よくわからない概念がいくつかあります。「ありのまま」「心を開く」などの言葉に内包された意味がその内の一つです。

 先行研究では、

“臨床実践にかかわる研究において、「居場所」が「ありのままの自分」で居られる場所として定義されている。”

と述べられた上で、

“「ありのままの自分」を実感する上で、自己の困難な部分が表出され、受容されることが重要であり、その時、クライエントと治療者あるいは治療的な環境との間で、「依存」が達成されていなければならない。しかし、クライエントはこれまで、自分自身の困難な部分が、環境に十分に受け入れられず、そうした「ありのままの自分」は環境によって、あるいはクライエント自身によって否定されてきたという経緯がある。すなわち、「居場所のなさ」を反復するクライエントは、健全な形での「依存」を達成することができなかった歴史を生きていると考えられる。 (注1)”

と書かれています。

 確かに、「わたしの場所」を感じさせてくれた人は、居場所のどこにも無い感覚や、生きることの困難さなどに襲われているとき、わたしの避難場でもありました。わたしはそこで「ありのまま」に振る舞うことができました。つまり、感情をダイレクトに表に出せることで感情の種類が増えたり、その直接的な感情の中から言葉を発することができたりしました。(たとえば、何も考えずに心から、笑うことで楽しさを抱いたり、泣くことで安心感をいだいたり、できました。)生きてる感じがしました。しかし、いままで一人で耐え込んできた感情も、耐えられたはずの感情も、大きくなって現れてきます。そうして避難することを繰り返した結果、ずぶずぶと依存していきました。

 わたしは、自分の中で、依存と恋を見分けることができません。世間的に言われている恋とは、寝ても冷めても相手の存在が心の片隅にあって、求めて切なくなる感情のことを指すのだと思います。わたしの場合、愛される自信が無いにも関わらず相手のわたしに対する気持ちに寄りかかっていたため、見離されることや冷められることへの不安と、わたしと相手とのあいだにある距離感によって苦しくなりました。その苦しみの避難場も相手が引き受けるので、負のスパイラルです。寝ても冷めても相手のことしか考えられず、相手と会える時間がわたしの全てとなります。わたしは自分の肥大化していく恋心によって潰されます。

 それでは、健全な形の「依存」とは、どのようなものなのでしょうか。

 それを考えるにあたって、土居健郎の「甘え」に注目しました。わたしの中に、どんなに甘えても甘えても満たされない隙間があったからです。甘えには、素直な甘えと屈折した甘えがあり、屈折した、つまりよくない甘えのことを、「自己愛的甘え」と言います。

 「自己愛を自覚しなさい」とお叱りをいただいたことがあります。その時、自己愛という言葉が何を指すのか、わかりませんでした。そして自己愛的甘えについて研究を進めていくうちに、納得のいく文章に出会いました。

 “自己愛というのは、単に正しく自己を愛することとは違い、自己中心的、利己的なものであり、それはどのように利己的であるのかというと、精神的な弱みからくる欠乏状態によって、対象関係において、わがままで要求がましい状態を伴う。そして自己愛の中心的な問題として、十分に愛してくれない、満たしてくれない他者や、言う通りにしてくれない他者への不満や怒りを伴うといった特徴であり、このような自己愛的心理が「自己愛的甘え」である。(注2)”

 図星です。「居場所がない」と感じている時、愛されたい、全てを受け入れられたい、一体感によって満たされたい、などという欠乏感が強く現れていた気がします。これにより、健全な「依存」= 素直な「甘え」であると推測しました。

 そして、自己愛的甘えを解決したら、大切な人に依存せずに済むだろう、「わたしの場所」を安定して得続けることができるだろう、と考えました。

 素直な甘えはこのように書かれています。

“甘えとは分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚することである。つまり、「対象とは一体ではないことはよくわかっていながら、心のどこかでは対象との分離を否定している」心と、「対象と一体であると感じながら、同時に心のどこかではそうではない (対象と一体ではない) ことがわかっている」という心の相反する二つの心的態勢の同時的な共存である。(注3)”

“「自分」の意識は、甘える関係の中に埋没して失われていた自分を、甘えていた対象から分離して見つめるところに生起する。そこには、「自分を大事にしなければならない」というような自分に対する積極的な感情も含んでいる。(注4)”

 しかし、自己愛の傷つきによる欠乏感があると、相手に埋没したまま戻ってこれなくなります。「対象と一体であると感じながら、同時に心のどこかではそうではない (対象と一体ではない) ことがわかっている」という意識が難しいのです。離れているときに (相手の関心がわたしに向いていないときに) 一体を感じられず、分離の否定が先走り、相手が置かれている状況を考えられなくなります。

 自己愛的甘えの解決策として、このように書かれています。

“素直な甘えは、人間関係の基本に信頼や安心があり、相互的な信頼を軸にしており、「落ち着く」心理を含んでいるのである。そして、そのような心理を基盤にして、利己的で要求がましく、一方的な自己愛的甘えから脱却する (「いつまでも甘えていられない、自分を大事にしなくてはいけない。」と自覚する) ことが、素直で健康的な甘えにつながると考えられる。(注5)”

 お互いに信頼し合っている関係のなかで、自分の欠乏感から来る甘えを自覚して、その甘えを相手に満たしてもらおうと欲する代わりに、自分を大切にしようとすることで、素直な甘えができ、居場所を感じられるようになる、ということなのでしょう。

 ここで、新たな問題が立ち上がりました。「信頼」とは、何でしょうか。

 文字通りに解釈すれば、「信頼」とは信じて頼ることです。「頼る」は、自己開示をしたり、その存在によって心を休めたりすることであろうと、なんとなくわかりますが、「信じる」は難しく感じます。疑わないこと、ではないと思うのです。疑ってあれこれ考えた末に信じたものは、すぐに信じて受け入れたものより、価値があるような気がするからです。

 「対象と一体であると感じながら、同時に心のどこかではそうではない (対象と一体ではない) ことがわかっている」が出来ないのは、この「信じる」が出来ていないからではないでしょうか。

 もしも、その時の相手の言動が、真摯な気持ちから発せられたものであるという確信が「信じる」なのであれば、相手に埋没し、自分がない状態にあるとき、「信じる」行為は難易度が高いです。逆を言えば、相手がわたしの元からいなくなって依存が和らいだとき、過去のその人を「信じる」ことは容易です。

 共依存の関係 (あるいはわたしが一方的に深く依存していた関係) にあった相手がわたしのもとから立ち去った後も、わたしの中にはその人の存在があります。話したことや共有した時間は残るし、心に溶け込ませたものは分離できない。

 それは、「自分」の意識が新しく生起した、とも言えるのではないでしょうか。

 「わたしの場所」を感じ続けられるようになるためには、その「自分」を大事にしつつ、「自分」を無くさないように、ゆっくりと信頼関係を築いていくことです。



(注1) 中藤信哉 (2013). 心理臨床における「居場所」概念 京都大学大学院教育研究科紀要, 59, 361-373.
(注2) 土居健郎 (2001). 続「甘え」の構造 弘文堂.
(注3) 土居健郎 (1971). 「甘え」の構造 弘文堂.
(注4) 土居健郎 (2000). 土居健郎選集1 精神病理の力学 岩波書店.
(注5) 稲垣実果 (2005). 自己愛的甘えに関する理論的考察 神戸大学発達科学部研究紀要, 13, 1-10.






(編集・校閲責任:らららぎ)

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