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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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*きまぐれ索引(さ〜そ)*

《さ行》(軸足を置く――思考の沼に嵌まる――視座――**自体――死の人称――シルエット――人格――進学先――呪詛――**性――刹那――。)



【軸足を置く】(じくあしをおく)――メインの足の運動性や方向性を強めたり支えたりする足のことを軸足といい、軸足を意識して置くこと。

 足(πούς)というのは、「地面の最も近くで接触しながら最大の重力を受けて身体を支えている」(地徳と触れ合っている)という点から、頻繁に比喩として使われるものです。生物にとって最も楽な姿勢は匍匐(ほふく)ですが、人間は足を犠牲にすることで直立し、そのために頭が発達しました。「足る」(充分に満たされている)という言葉を「足」という漢字で表すのもそのためだそうです
 軸足という比喩は、《中心》という意味で使われるかもしれませんが、本当に立派な軸足の置き方は「常歩」(馬の歩き方)だといえるでしょう。どちらの足も自在に軸足化できる、二軸的な歩調で安定的に進むことが肝心です。

そんな状況で、周りを見渡せばみんな何かに打ち込んでいるというのに、ぼくはどこに軸足を置けばいいのかもわからないままで、どこに軸足を置いても失敗するし、不安定で、何をしたって自分を信じることはとてもできそうになく、ぼくの芯はなんだっけ、自分が一番大事にしなきゃいけないものって何だったのだっけなんてことを、自然に考え始めていた。
(知れば知るほど、知らないことが増えてゆく / ちくわ)

【思考の沼に嵌る】(しこうのぬまにはまる)――単一的な思考をひとつの沼とみなして、それに没頭してしまい、抜け出すことが出来なくなること。

 一見慣用句のようですが、《――に嵌る》の他には、「引き釣りこまれる」「誘われる」「入る」「陥る」「囚われる」「足を取られる」「沈む」「落ちる」「捕まる」「足を踏み入れる」などを繋げることがあり、その多様さから慣用句にはなりそうもありません。
 「嵌」という漢字は、中国語で「填塞」(隙間を縫って塞ぐ)という意味になり、大事なのは「塞ぐ」というところ。自分で塞ぐ場合は、いい意味で嵌る(没頭する)ことになるけれど、「思考の沼に嵌る」「罠に嵌る」「蟻地獄に嵌る」「深みに嵌る」「ドツボに嵌る」「泥沼に嵌る」という悪い意味の場合は、(抗うことができずに)「嵌められる=塞がれる」と考えるのが自然でしょう。
 「嵌る」というのは、それだけでは善悪が一目で分からないため、さらに分かりやすい文章を心がけるときは、「ぬかるみに落ちる」「混迷を深める」「惨状となる」「奈落へと後進する」「どうしようもなくなる」「身動きがとれなくなる」「悪戦苦闘を強いられる」「出口の見えないスパイラルに陥る」「隘路に嵌り込む」など状態の説明が明確なものを選ぶとよいかもしれませんね。

描いては消し、描いては消し。そうすると、「あれ?自分は結局なにを描きたいんだっけ?」というような思考の沼に嵌ってしまう。
(自然体 / 水無月 紫苑)

【視座】(しざ)――物事を考えるときの立場。

 人間には、5系統のインプットがあります――視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。(5つが科学の常識ですが「きっと6つ目の系統がある」と信じている人たちは、その6つ目のインプット系統を「超能力(第六感)」などと言ったりします)。
 人間は、インプットと情報処理を《視覚》に頼りまくっています。たとえば、「観点」「観念」「視点を切り替える」「見誤る」「見積もる」「見損なう」「視野を広げる」などなど、これらは《思考について説明している言葉》なのに、なぜか「目」に関する言葉で語られています。
 たとえば、いまここで急に「最寄り駅からあなたの家までの道のりを説明してください」と言われたら、意外と難しいのですよ。なぜなら、あなたはそれを「視覚イメージ」でインプットしており、ほとんど一度も「言語」とか「思考」でもって処理したことがないからです。

1866 年にドイツの生物学者であるエルンスト・ヘッケルは「個体発生は系統発生を繰り返す」という反復説を唱えたが、なるほどそういうことを言いたかったのだなとヘッケルと同じ視座に立ったような気がした。
(蛋白質から見る世界 / くびなが)

【**自体】(じたい)――名詞の後ろにつけて、その名詞を強調する語句。

 「**そのもの」とか、人の場合は「**自身」などとすることもありますね。たとえば、「私自身、それが信じられないの」と言ったとき、お分かりの通り、「もちろんあなたも信じられないでしょう」という気持ちが込められています。他にも、「発想自体は良い」と言ったとき、「発想以外の未熟な部分とは関係なく」という意味を付け足しているでしょう。
 あたまのなかで何かと比べているけれど、そっちのほうじゃなくて、というニュアンスがあるのですが、これは、「尺度の持ち出し」(比較を開始したよ)と、「話題の据え置き」(比較したけど焦点は変わってないよ)を同時にこなしている強調法だと言えます。 
 つまり、「いいかね、君自身の考えを述べなさい」と言われたら、「君の考え以外にも、この世にはたくさんの考えがありますね。教科書でもたくさん学んだし、私の考えもたくさん教えてきました。そういう比較はたくさんできますし、やるべきでしょう。しかし、いまは、そっちのほうじゃなくて、君が考えたことを君が述べなさい」という意味になるということです。

結局その日は絵を描く事自体やめてしまったりすることも多々あります。
(自然体 / 水無月 紫苑)

寄り道をすること自体もの凄く楽しいのですが、最近ハマっているゲームだとか、漫画だとか、音楽のことだとか、どこどこの店に新しいショップがオープンするだとか、内容の無いとりとめの無い話をすることが楽しかった気がします。
(帰り道というショートショート / めがね)

また物語の性質上『登場人物がいつも同じ人物』というように、物語自体は大変楽しいし幸福なのですが、道筋がいつも同じところを辿ってしまうところ、別れた途端に何故か寂しくなってしまうところが欠点かと考えます。
(同上)

【シルエット】(しるえっと)――輪郭だけ取り込み、中が黒(影)になっていること。

 1700年代、フランスではルイ15世がわずか5歳で王になります。成人後も政治に関心はなく、国政をフルーリーという人物に任せておりました。そのなかで財政を任された大臣の名を「エティエンヌ・ド・シルエット」(Étienne de Silhouette)と呼びます。フランスは長年戦争を繰り返しており、直近の7年戦争では惨敗してしまい、国土を大きく失い、財政状況も最悪となってしまいました。しかし、彼に財政再建の能力はなく、ただ行ったのは「肖像画は黒だけで描く」という節約術のみ――そのエピソードから、黒のみで描くことや対象の輪郭だけを容易に取り込む写真技術のことを、シルエットと呼ぶようになりました。

私、鉄塔も好きです。すっくと青空にそびえたつその銀色の佇まい。 順序良く並ぶかれらはとてもいじらしいし、 日暮れの柔らかいグラデーションをバックに浮かぶ あの細いシルエットほどきれいなものもないと思っています。
(好きなもの の ひみつ / ネコ)


【死の人称】(しのにんしょう)――ジャンケレヴィッチという学者が考えた「葬送の親密性」。

 他者の死への感じ方(感情移入の仕方)は異なるという前提に立っている考え方です。自分が死ぬこと、自分の目の前にある「あなた」が死ぬこと、よほど知らない誰かが死ぬこと――そういう親密性の違いによって、葬送の感じ方が異なると唱えました。
 そこでよく問題に取り上げられるのが、「医者は自身の患者の死をどのようにとらえるか」という問題です。柳田さんは「2.5人称の死」などと言っておりましたが、どうなのでしょうね。

「死」というものは、一様ではないようです。いわゆる死の人称(私の死、あなたの死、その他の死)というのも、死の質的な変化でしょう。
(死に泥む人間の存在 / 大人たん)


【進学先】(しんがくさき)――何かの目的をもって今よりも水準の高い研究機関で学ぼうという人が、「お互い会ったことないのに私を強烈に待ってくれている場所」として運命的に選ぶたったひとつの場所。

 そのため、進学先というのは、ほとんど「誤解」によって選ばれます。自分にとって最高で理想値の進学先を選ぶことはほとんど無理なので、「ここだ、ここが俺の進学先だ」という運命論的というか、ほとんど誤解によって選び、そこで人生のある期間を過ごす決意をし、実際に、その場所を何度も何度も経験することになります。

ぼくがその大学を進学先に選んだのは、入学してから専攻を選ぶことができるというその一点によるものだった。
(知れば知るほど、知らないことが増えてゆく / ちくわ)

【人格】(じんかく)――ひとりひとりがそれぞれに持っている実体。

 明治時代に井上哲次郎という人が作った翻訳語で、語源は「personality」にあたります。この単語はキリスト教の影響をふんだんに受けていて、簡単に言うと、神というひとつの実体には、「世界を作った父」・「世界を救うために生まれた子=イエス」・「世界に働く不思議な力としての聖霊」という《3つのパーソナリティ=3つの役割》があるということです。3つそれぞれを「ペルソナPersona」と呼び、交換可能な俳優をひとりの人間がいくつも持っている、という程度のことです。
 また、倫理学では、カントが「Persünalichkeit」と「Person」を厳密に分けるべきだと主張し、和辻哲郎はそれぞれを「人格性」と「人格」のように訳し分けました。「人格は尊厳の担い手であり、権利の目的である」という考えに辿り着き、それならば「胎児は人格なのだろうか」ということがいまの倫理学で議論になっています。

影響を受けたものが人格を形成していく法則
(私の最も好きな法則 / めがね)

この影響を受けたものが個性であり、人格を形成する個人足り得るものかもしれませんね。
(私の最も好きな法則 / めがね)

【呪詛】(ずそ、じゅそ)――呪うこと。

 「お裾分け」の「すそ」は"要らないもの"という意味ですが、「呪うこと=呪詛ずそ」もまた相手を"要らないもの"として消し去りたい願望なのではないかと考えている人もおります。

人々は「怨みや呪いは、巡り巡って自分に返ってくるから」と教えてくれる。この「返ってくる」というのは比喩である。実際に返ってきているわけではない。では、悪口(愚痴)や呪詛(恨節)が返ってくるとは、何が起こっているのか。
(人を呪わば穴二つ - シャッフルされる主語 / らららぎ)

【**性】(~せい)――抽象名詞を作る接尾辞(拘束形態素)のひとつ。

 「**」の部分は結合対象語基と呼びます。程度をあらわす接尾辞は「必要"度"」「ローマ"風"」「風邪"気味"」「子ども"用"」「ゼリー"状"」「繊維"質"」「一"杯"」「出来"具合"」などと細分化されており豊富なのですが、最近では翻訳の発達に伴うようにして、あるいは機能性を重視するようにして、「**性」や「**的」に統合されつつあります
 それがあまりにも即席のため、「必要性」(必要度の抽象版)はあっても、「不必要性」(不必要度の抽象版)は無いなど、変な言語変化を起こしているのが現状です。
 話すと長いのですが、性質を抽象名詞で語った方が楽なんです。「勇気」と言われてそれぞれ思いつくところが違うと思いますが、「勇気」ひとつにくくった方がコミュニケーションが楽なんです。しかもそれを「まるで実体があるかのように」使うのがもっと楽なんです。つまり、よく「勇気をもらった」というでしょう。そんなものは実際は「もらえません」。実体がありませんから。
 余談ですが、物の数え方もパソコンや自動車が出てきたあたりから「台」でひとまとめにする傾向がありますね。そっちの方が楽ですから。

曲のイメージ・情景を重視するぼくの音楽方向性が大いに影響してそうですが、その時に抱いた感情と、似た雰囲気・展開の曲を好む傾向がありそうです。暗い気持ちに打ちひしがれた時に、ピアノ好きは思いっきりベートーヴェンやショパンの悲しい曲を弾いて(聴いて)紛らわすように。
(ないすとぅーみーとぅー / ねぎとろ)

この影響を受けたものが個性であり、人格を形成する個人足り得るものかもしれませんね。
(私の最も好きな法則 / めがね)

これらの関係を構成する物理的な要素・要因はいずれも異なっているけれど、それらの関係性のみに着目すると類似した構造が現れるのは非常に面白い。何かしらの法則性を感じるのは僕だけだろうか。以上において、蛋白質のフォールディングという小さな現象を支配する法則性が人間社会や生命、さらには地球や宇宙といったような大きな現象さえも貫いている可能性を示唆した。僕らが生きるこの世界の根底を流れる何やら真理めいた法則性の存在を感じ取っていただけたなら嬉しい限りだ。
(蛋白質から見る世界 / くびなが)

【刹那】(せつな)――[ksana / 念]75分の1秒(あるいは65分の1秒)ぐらいの短い時間のこと。

 もともとは、変化というものは「1/75秒」程度のほんの一瞬で起こるものだということを教えるためにインドで生み出された時間の単位のことらしいです。また他説では、「65刹那」のことを指弾といい、指を弾いているあいだにも「65」も時間の単位があるのだから時間は貴重だとお釈迦様が説教したとのこと。
 仏教には「刹那滅」(ksanabhanghasiddhi)という考えがあり、私も猫も魚も「1/65秒」しか生きていないということを論証(あるいは反論)しようと、研究者たちが勉強しております。この刹那滅論によって、私たちは「1/65秒」ずつ死んでいるので死を不安に思うことは馬鹿げていると諭されるのです。

「断念」とは確たる到達点、大きな目標を意識していてこそ生じるものであって、興味本位でとりあえず手を出してみるというのは、最初から自分の興味が長続きしないことを予期した上での刹那的な行動であり、そこに到達先への展望は存在せず、故に「断念」にすらなっていない、と感じるのである。
(断念と私 / 浜之木 千春)

今こうして「私の断念してきたこと」を探すべく今までの人生に視線を巡らせても、そこには「断念」にすら到らなかった経験、その場限りの興味に基づく刹那的な経験しか見当たらない。なんのために生きているのか、その答えに将来への展望を据えたことも一度たりともないのだ。それは方針として刹那主義を採用していたからでもあるとは思うが(…)。
(同上)

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