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みんなでしんがり思索隊

書いてみよう、それは案外、いいことだ。 / 載せてみよう、みんなで書いた、幻想稿。
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端数としての人生 / 著者:らららぎ - ch18

*「タン」と読むか、「は(し)」と読むかで、意味が異なる《端》。読んでいくうちに分かると思うけれど、僕は「は(し)」の方で使う。だから、「端的」とか「端正」といったときの意味は含まないで書くよ。このお題は「しんがり」を意識して作られたっぽいので、それについては編集長で数学ジャンキーのぶたさんに譲るとします。




 分かりやすいことは善いことである――という退屈な幻想は、《中途半端な存在よりも、キリのいい存在の方が善い》という幻想を連鎖的に生み出す。そういう幻想に賛成して生きている人たちは、自分という人間が「綺麗な数で割り切れる」と思い込み、自分にとっての「端数」を切り落とし、見かけ上の「一人前」を完成させる。

 人間なんて、到底、綺麗な数で割り切れるような存在ではなく、いつだって「約一人」という中途半端さを妥協的に背負い込んで生きているものである。根源的に「半端者」な僕たちは、いつだって《小数点以下の分際として》存在することを余儀なくされている。

 それを理解すればするほど、自己紹介が不能になっていく。《私》という存在は、小数点以下に広大なスケールを有しているため、どうにもそれを言葉で咄嗟に語り出すことはできないのだ。「4.8901213805989102」みたいな、豊かな広がりを持っている「端数な存在」の、整数「4」だけを抜き出して説明することは、なんとも退屈で、なんとも無意味に感じられる。われわれの個性は実数にあらず、いつも小数点以下の有理数に隠されているといえる。

 「顕微鏡を持ってこい、小さい数の大きなスケールを見ておくれ」――そこに僕らはいる。君が大差ないと思っていた存在には、信じられないほど豊かなスケールがある。「4」で知った気になるな。「4.8」で知った気になるな。「約5」にするな。分かりやすさ、それそんなイイですか。

 もうひとつの幻想――「私のアイデンティティは中央(実数)にある」。アイデンティティというのは、いまでこそ「俺はオタクだ」とか、「私はこのサークルの一員だ」とか、「僕はこの企業のために命を捧げる」とか、「ブランド品についてなら何でも知っている」とか、「君のためなら死ねる」とか、「俺はつまらないものが大っ嫌いなんだ、面白いものがないと生きていけないぜ」とか、そういう分かりやすいものに求められるようになったけれど、そんなのは誤ったアイデンティティである。僕らのあまりに個人的なことはほとんど全て、小数点以下の切り捨てられがちな《端》にある。終わりがけていて、隠れがけている、陽の当たらないそこにある。

 空港に行って、お土産を選んでいるとき、どうしても「絶対に誰も買わないだろうな」と思われる人気絶無の商品を買ってしまう。《買い支える》という表現の方が実情にあっている。誰にも買われないだろうものを、大丈夫、僕は気付いているよ、僕は認めているよ、と、まるで自分を鼓舞するかのように購入する。情けなく思えるかもしれないが、そういう切実な世界で生きている。

 他者から見て端数だったり、半端者だったりするからといって、僕もそれを端数だの半端だのに思う必要はない。ドラクエの経験上、端には宝箱がある。ときには災難(ミミック)もある。宝や難や――そういう振り幅の大きな経験が、面白い人生、個性的な人物というものを作り上げてくれると信じている。端というのは、そこに立つものしか知らない世界や環境があるのだ。そこに個人の価値があり、それを伝えていく難儀な仕事が、僕は好きなのかもしれない。

 もちろん、「分かりやすさが善さだ」という美風に酔っている社会に出れば、「面接番号20番の君、そうだよ君だよ。君という存在は5なのかね、6なのかね」と尋ねられる。そういう社会は、これからもしばらく続くだろう。そういうときに「いえ、私は5.329706431892です」と答えるのはナンセンスだ。他人の端数にかまっていられるほど、いまの情報化社会は暇じゃない。だからといって、それを人間関係に持ち込むようなミス(経済的合理性を追求した結果の非合理)を、おかして欲しくないというのが、僕の願いだ。

 誰もが端数を生きている。いやらしく言えば、端数にしがみついて生きている。人間であれば《大差ない》ことなど、誰もが知っていて、その人間というものが増えすぎて、僕らは狼狽する。そこから逃げるために、お金持ちになりたいとか、有名人になりたいとか、イケメンと結婚したいとか、どうにかして《勝ち組的な大差》をつけようとあがく人もあるだろう。「4」のやつが「10」になろうと、スケールはひとつしか変わらない。でも、「4」のやつが、実は自分が「4.638920283746110078」だと気づくことができたら、スケールが18もあったことに気づくのだ。個性というのは、数字の大きさではなく、スケールの大きさなのかもしれない。そして、これもまた幻想である。おわり。

 しーゆーれーらー

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